『ちくま文学の森6・思いがけない話』の表題は読書に妨げか?2020年04月26日

『思いがけない話』(ちくま文学の森6/筑摩書房)
 『ちくま文学の森5・おかしい話』に続いて次の第6巻を読んだ。

 『思いがけない話』(ちくま文学の森6/筑摩書房)

 巻頭詩(室生犀星の「夜までは」)に続いて19編の短篇(内13編が翻訳物)を収録していて、その中の5~6編は読んだ記憶がある。と言っても、内容をほとんど失念しているものが多い。

 本書も傑作が多い。私が面白いと思ったのは「改心(O・ヘンリー)」「外套(ゴーゴリ)」「魔術(芥川龍之介)」「押絵と旅する男(江戸川乱歩)」「親切な恋人(A・アレー)」「砂男(ホフマン)」などである。

 アンソロジーの表題が「思いがけない話」で冒頭第1編がO・ヘンリーなので、「意外な結末」の話を期待してしまう。O・ヘンリーの「改心」は途中で既読だと気づき、結末も思い出した。それでも面白く読了できた。2編目以降も「意外な結末」の話が続くかと思ったがそうでもなかった。当然ながら「意外な結末」がなくても面白い小説は面白い。

 巻末の解説で本叢書の編者の一人である森毅が次のように書いている。

 「「思いがけない話」というのは、いささか余分な修飾のような気がしないでもない。思いがけないからこそ、物語であるのだ。/しかしながら、そのことに惑わされて、なにか「思いがけない」展開があろうと期待するのも、つまらない話である。」

 この見解には全面的に賛成であり、それならこんな表題をつけなくもいいのにとも思ってしまう。私は表題に引きずられて「思いがけない」展開を期待して読み進めてしまった。「思いがけなさ」を気にかけすぎていると、読み終えたあと「面白かったけど、思いがけないというほど意外ではなかった」など思ってしまう。

 ゴーゴリの「外套」は印象深い有名作なので、半世紀以上昔に読んだ私でも、その内容の大筋は記憶にあり、結末もわかっていた。それでも、興味深く再読できた。この作品の展開が「思いがけない」か否かはおくとして、内容を記憶している「思いがけない話」を再読しても楽しめるのが不思議でもあり面白くもある。初読と再読では脳の働きが少し異なるのだと思う。