30年ぶりの『短篇小説講義』再読のてんまつ2020年04月03日

 『短篇小説講義』 『短篇小説講義 増補版』(筒井康隆/岩波新書)
 筒井康隆氏の『短篇小説講義』(岩波新書)が出たのは1990年、30年前である。その増補版が昨年(2019年)夏に出た。

 『短篇小説講義 増補版』(筒井康隆/岩波新書)

 私は30年前にこの講義を読んでいる。海外の古典短篇を材料に短篇小説を論じた本との記憶はあるが、詳細は忘れている。増補版は筒井氏の自作短篇「繁栄の昭和」を題材にした章を追加している。筒井康隆ファンの私は当然「繁栄の昭和」を読んでいて、これはことさらに面白い短篇だったので、当然に増補版を購入した。

 購入した本の増補部分だけを読んでもいいのだが、どうせなら失念している本体部分も読み返そうと思い、そこで気づいた。この講義で取り上げている古典短篇のほとんどは未読だと。『短篇小説講義』は、材料の短篇の概要を要領よく紹介しながら講義を進める形になっていて、その短篇を読んでいなくても難なく読み進めることができた。

 この講義を読み返すなら、その前に題材となっている短篇をすべて読んでからにしようと思った。それらの短篇はすべて岩波文庫に収録されているが、わが書架にはない。それらを何とか入手し、該当する短篇を読んだうえで増補版にとりかかった。というわけで、購入から半年経ってめでたく『短篇小説講義 増補版』を読むことができた。

 この講義の材料になっている短篇小説は以下の通りである。

 「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」(ディケンズ)
 「隅の窓」(ホフマン)
 「アウル・クリーク橋の一事件」(アンブロウ・ビアス)
 「頭突き羊の物語」(マーク・トウェイン)
 「二十六人の男と一人の少女」(ゴーリキー)
 「幻滅」(トオマス・マン)
 「爆弾犬」(ローソン)

 30年前にこの講義を読んだとき、私が読んでいたのはアンブロウ・ビアスだけだった。本書では、これらの短篇を論じた各章の他に「サマセット・モームの短篇小説観」という章があり、そこではモームやチェーホフの短篇が取り上げられているが、それは私が読んだことのある有名作だった。

 上記の短篇はすべて19世紀の作品で、現代の私には読みにくいものも多い。どこが面白いのかよくわからない作品もある。一番面白かったのは、やはりビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」である(今回再読した)。

 材料短篇を読んだうえで『短篇小説講義 増補版』を読み返すと、筒井氏がこれらの短篇を取り上げた理由がよくわかる。この講義は創作の講義ではなく読解の講義であり、自分の読みの浅さ、鑑賞力の低さを思い知った。

 30年前にこの講義を読んだときは、短篇の概要紹介の部分を読みながら、これらは面白い作品だろうと想像しながら興味深く読み進めることができた。それは楽しい読書体験であった。

 しかし、材料作品をすべて読んだうえで臨んだ30年後の読書は、自分の読解力のなさがあらわになる、いささか悲しい読書体験だった。『短篇小説講義 増補版』そのものは面白いのだが。

『闘う文豪とナチス・ドイツ:トーマス・マンの亡命日記』の悲哀2020年04月05日

『闘う文豪とナチス・ドイツ:トーマス・マンの亡命日記』(池内紀/中公新書)
 『短篇小説講義』(筒井康隆)再読の準備として読んだ海外の古典短篇の中で、特に面白さがわからなかったのがトーマス・マンの『幻滅』だった。筒井氏の講義で、この天才作家の「若書き」短篇の魅力を知り、トーマス・マンという作家への多少の興味がわいた。それを機に次の新書を読んだ。

 『闘う文豪とナチス・ドイツ:トーマス・マンの亡命日記』(池内紀/中公新書)

 池内紀氏の著作はこれまでに『ヒトラーの時代』『カフカの生涯』を面白く読んだ。だが、トーマス・マンにはあまり関心がなく、本書を敬遠していた。

 私たち団塊世代が高校生の頃のスター作家だった北杜夫がトーマス・マンをやたら持ち上げていたので、いずれ読まねばならない高名な作家だとは意識していた。『トーニオ・クレーガ』だけは中学か高校のときに読んだが、無理に読了した記憶があるだけで感銘は受けなかった。この作家の肖像写真からは、堅苦しそうな取っつきにくい印象を受けた。

 そんな状態で『闘う文豪とナチス・ドイツ』を読んだ。昔いだいたトーマス・マンのイメージはほとんど変わらなかったが、本書はとても面白い。トーマス・マンが残した1933年(58歳)から1955年(80歳)の日記からナチス関連の記述を抽出して解説している。世界情勢が投影された大作家の亡命生活の様子が目に浮かんでくる。

 1929年に54歳でノーベル文学賞を受賞した高名な作家トーマス・マンは、1933年に発足したナチス政権には批判的で、1933年の国外講演の際に帰国を断念して亡命生活に入る。亡命生活の始まりからの日記は本人の意思で死後20年間は封印され、1975年に開封されたそうだ。

 本書を読むとドイツからの亡命者社会の微妙な人間関係の様子がわかる。日記にはレマルク、ブレヒト、ツヴァイクなどへの言及はあるが、必ずしも好意的なものではない。当然ながら亡命というだけで一枚岩になるわけでなく、それでも亡命者であるという点に悲哀を感じる。

 大作家トーマス・マンが「いじましいほどに世評を気にする人」で、写真を撮られるのが好きな「正装の人」だったという指摘も面白い。人並み以上に文才のあった長男が「偉大な男は息子などもつべきでない」というメモを残して自殺する話は哀れだが小説のようでもある。ナチスを逃れてアメリカに亡命したのに、戦後はマッカーシー旋風でスイスへ亡命するという運命は歴史を背負っている。

 私が面白く思ったのは、晩年のトーマス・マンがカフカを読むシーンである。池上紀氏は次のように記述している。

 「五十年余のキャリアをもつノーベル賞作家は不審でならない。自分とは何がどうちがうのか。もしこの異質の作家が「現代」ならば、自分は同じ位置にいることはできず、すでに終わった過去の作家に甘んじるしかないではないか。つねに「正装」を崩さなかった誇り高い人に、そのような屈辱が堪えられようか。」

 カフカはトーマス・マンより8歳年下だが、ヒトラー台頭以前に40歳で亡くなり、死後に作品が世に出る。20世紀が進むとカフカの評価は高まりトーマス・マンはあまり読まれなくなる。私もカフカは読むが、トーマス・マンは敬遠する。

感染症との戦いに終わりはないと認識2020年04月11日

『感染症の世界史』(石弘之/角川ソフィア文庫)
 新型コロナウイルスで緊急事態宣言という時節柄、書店に並んだ関連書から次の文庫本を購入して読んだ。

 『感染症の世界史』(石弘之/角川ソフィア文庫)

 2014年刊行の原著を2018年に文庫したもので、私が入手したのは2020年3月25日の7刷である。売れているようだ。著者は元・朝日新聞編集委員の著名な環境問題ジャーナリストで、東大教授、駐ザンビア特命全権大使、国連顧問などを歴任している。

 本書は世界史の本というよりは感染症の解説書であり、その中でそれぞれの感染症の歴史にも言及している。ジャーナリストらしく、広範な話題を目配りよくまとめていて勉強になる。われわれを取り巻く感染症の多種多様に圧倒され、人類の歴史は感染症との終わりなき戦いの持続だと納得させられる。

 本書で取り上げている主な感染症は、エボラ出血熱、デング熱、天然痘、マラリア、ハシカ、結核、コレラ、ハンセン病、エイズ、鳥インフルエンザ、スペインかぜ、SARS、ラッサ熱、ペスト、肺炎、チフス、西ナイル熱、ピロリ菌、ヘルペス、カポジ肉腫、風疹、T細胞白血病などである。この羅列だけで頭がクラクラしてくる。これらの感染症を引き起こすにはウイルス、細菌、原虫などの微生物である。

 ウイルスや微生物の多くは、われわれ生物にとって必要不可欠な存在であり、それと共存していくことが運命づけられている。撲滅できる相手ではない。本書は、そんな基本的枠組みをおさえたうえで、さまざまな感染症の起源と推移そして現状を解説している。

 人類は進化競争の生き残りだが、ウイルスや微生物はより速い世代交代で進化してきた生き残りであり、これからも効率よく進化していける。抗生物質やワクチンが効かない新型が次々に登場する。だから、人類と感染症の戦いに終わりはない。

 と言っても、本書は絶望を語っているのではない。地球環境の変化、人の行動の変化、高齢化などと感染症拡大の関係を解説し、終わりなき戦いと認識したうえで成すべき事項も述べている。

 それにしても文明と感染症が切っても切れない表裏一体だと認識しなければならいのは、何ともやりきれない。

マクニールの『疫病と世界史』は目から鱗の本だ2020年04月14日

『疫病と世界史(上)(下)』(W・H・マクニール/佐々木昭夫訳/中公文庫)
 時節がら書店の店頭には先日読んだ『感染症の世界史』(石弘之)に並んで、似たタイトルの次の本も積まれている。これも購入して読んだ。

 『疫病と世界史(上)(下)』(W・H・マクニール/佐々木昭夫訳/中公文庫)

 マクニールは2016年に98歳で亡くなった歴史学者で、その著書『世界史』は気になる本だが未読である。本書の原著は1976年の刊行で、1997年に「序」が書き加えられている。私の読んだ文庫本は、新型コロナ騒動下の2020年3月30日に増刷されたものである。

 この歴史書はとても面白い。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に似た壮大さがあり、テーマはより明快である。単に疫病という切り口で世界史を語っているのではなく、疫病をきちんと視野に入れなければ世界史の実態は見えてこないとの立場で歴史変動を検証している。目から鱗が落ちる本である。

 著者は「ミクロ寄生」「マクロ寄生」という用語を駆使して歴史を語っている。「ミクロ寄生」とはウイルスや細菌の寄生で、いわゆる疫病である。「マクロ寄生」という言葉がユニークで、支配者による農民の収奪、戦争や侵略などを表し、いわば社会的な寄生だが、たんなる比喩以上の意味付けがあり、人類の文明を表していると思える。「ミクロ寄生」と「マクロ寄生」を並列的に記述することで、文明と疫病との切っても切れない運命的関係を語っている。

 疫病は狩猟時代から現代まで常に人類と共にあったが、その記録は断片的にしか残っていない。主に文献史料にたよって歴史を記述すると、疫病が歴史変動に及ぼした役割を過少評価することになると著者は主張している。そして、少ない史料を元に現在の知見をベースに大胆な仮説をいくつも展開している。実に面白い。

 スペイン人が少人数で中南米を征服できたのは銃のおかげだけではなく、原住民には免疫のない疫病が彼らを弱体化させた……という話は知っていたが、本書の解説は実に明晰で、あらためて疫病のこわさを知った。著者はそれを「細菌兵器」とも表現している。これがメインの兵器で、銃で征服できたわけではないのである。

 ユーラシア大陸の大部分を席巻したモンゴルが短期間で撤退・衰退したのも疫病なしでは説明できない。大きな歴史変動の多くは疫病によって引き起こされたという話に、私は納得した。

 著者は、ヨーロッパ、北米南米、アジア、アフリカ、中国など広範な地域の歴史を疫病をベースに語っていて、日本に関する記述もかなりある。特に、人口変動に関する話で、日本の人口が18世紀から19世紀半ばまで停滞したことに触れているのは興味深い。日本の人口が江戸時代に増減しなかったことは知っていたが、同じ時期に中国やヨーロッパでは人口がかなり増加していて、日本が例外だとは知らなかった。疫病は人口の増減に大きな影響を及ぼすことがあるが、著者はこの時期の日本の人口停滞の原因を「嬰児殺しが広く行われた」としている。何かで検証してみたいと思った。

かつて『キング』という国民大衆雑誌があった2020年04月19日

『『キング』の時代:国民大衆雑誌の公共性』(佐藤卓己/岩波現代文庫)
 戦前、発行部数100万部を超える『キング』という大衆雑誌があった。その雑誌を題材に戦前の社会とメディアを論じた次の本を読んだ。

 『『キング』の時代:国民大衆雑誌の公共性』(佐藤卓己/岩波現代文庫)

 本書は2002年に岩波書店から刊行された研究書で、今年(2020年)1月に文庫版が出た。

 『キング』は、大正末の1924年11月創刊で、昭和の初めには150万部を超え、戦後も継続して刊行されたが、1957年に廃刊になっている。戦後の1948年生まれの私は『キング』の実物を見たことはない。

 私がこの雑誌に興味をもったのは、今年はじめにダンヌンツイオの伝記を読み、彼と行動を共にした日本人詩人・下位春吉の名を知ったのがきっかけである。この日本人に興味をもち、古書で入手した『下位春吉氏熱血熱涙の大演説』という冊子が『キング』の附録だった。新書本のような冊子を附録にする『キング』という雑誌の凄さを感じているとき、新聞の書籍広告でこの岩波現代文庫を目にし、本書を読みたくなった。

 本書は「国民大衆雑誌の公共性」というサブタイトルが示すように、『キング』を社会学的、歴史学的に考察していて、大日本雄辯會講談社の創業者である野間清治というアクの強い人物の評伝にもなっている。とても面白い。

 私にとって講談社という出版社は小学生の頃に愛読した『少年少女世界文学全集』の発行元であり、大学生になっても読んでいた『少年マガジン』の出版社である。その講談社は昔は大日本雄辯會講談社という大仰な名だった。古書で読んだ『ヒットラー傳』『ムッソリーニ傳』の版元がこの出版社で、その巻末には雑誌や書籍のテンションの高い広告が何ページかあり、そこに独特の面白さを感じた。

 本書によって、私が戦前の講談社にいだいていた漠然としたイメージがクリアになると共に、私には未知の戦前のメディア事情を知ることができた。また、「国民」「大衆」と呼ばれるものの形成や実態に関する考察は刺激的で、大いに考えさせられた。

 「雑誌王」「民間の文部大臣」とも呼ばれた野間清治は高等小学校訓導、帝大書記を経て出版事業を立ち上げる。当初は硬派の「為になる」大日本雄辯會と軟派の「面白い」講談社に分かれていたが、1924年の『キング』創刊を機に両者を合体して社名を大日本雄辯會講談社にしたそうだ。「面白くて為になる」が同社のキャッチフレーズである。戦後、『キング』廃刊のとき、社名は大日本雄辯會講談社から講談社に変わっている。『キング』の歴史は大日本雄辯會講談社の歴史である。

 「岩波文化vs講談社文化」つまり知識人の高踏的文化と大衆の娯楽的文化の対立ということが語られたりするが、本書はそれを対立するものと見るのではなく補完しあう同様のものと見なし、そのうえでメディア状況を考察している。「大衆」の台頭や「国民」の形成を「草の根ファシズム」などの切り口で捉える興味深い論考である。

 本書の巻末には若い歴史学者・與那覇潤氏の「解題『キング』の亡霊たち」と題する解説が載っていて、これも刺激的な内容だった。ネットが普及した現代において、本書が論じているようなメディアと政治・社会に関する考察はより切実な課題になっている。

『ちくま文学の森・恐ろしい話』はどの程度恐ろしいか?2020年04月22日

『恐ろしい話』(ちくま文学の森7/筑摩書房)
 1988年から1989年にかけて筑摩書房から「ちくま文学の森」という叢書が出た。全15巻+別巻のアンソロジーで、編者は安野光雅、池内紀、井上ひさし、森毅の四氏だった。わが家の書架にはこの全16巻がある。私が入手したのではなく、家人が刊行時に購入したものである。パラパラと何編かは拾い読みしたが、30年以上書架の奥に眠っていた。二度の引っ越しの際にも処分しなかったのは、読みやすそうな短篇の選集なので老後の消閑に手頃と思ったからだが、考えてみればすでに私は71歳、立派な老後である。まずは次の1冊を読んだ。

 『恐ろしい話』(ちくま文学の森7/筑摩書房)

 この巻には24編が収録されている。実は消閑気分になって本書を読んだわけではなく、たまたま『幾たびもDIARY』(筒井康隆)を拾い読みしていて、筒井氏の1988年7月11日の日記の次の一節が目に入ったからである。

 「上京。ひかり車中で今評判の『ちくま文学の森・恐ろしい話』(筑摩書房)を読むが、ほとんど前に読んだ作品ばかりであった。編集した人たちが優秀であるだけに、間違いのないアンソロジイになっているが、それだけに驚きがない。アンソロジイの限界というべきか」

 これを読んで、『恐ろしい話』を引っ張り出してきて、私の既読作品があるかどうか確認してみると、「ひかりごけ」(武田泰淳)以外は読んだ記憶のない作品だった。で、本書を引っ張り出したのを機に、全24編を読んだ。24編中の7編は日本の作品(田中貢太郎、志賀直哉、菊池寛、岡本綺堂、夢野久作、木々高太郎、武田泰淳)で他は翻訳である。19世紀の作品が多い。

 全24編を読み終えて、「それほど恐ろしくはなかったな」と思った。私の感性が鈍いということもあるが、「恐ろしい話」というタイトルに身構えて、恐ろしさへの期待値が高まったせいだと思う。多くの作品にクラシックの風情があり、それなりの味わいがあり、そこにある「恐ろしさ」もクラシックな気分で鑑賞できてしまう――それは心底からの恐怖とは少し違う。初読にもかかわらず、筒井氏が言う「間違いのない(…)それだけに驚きがない」がわかる気がした。

 とは言っても、このアンソロジーによって至福の読書時間をもてたのは確かであり、古今東西の短篇のよりすぐりを集成したこの叢書の他の巻も読みたくなった。

 この巻で私が面白いと思ったのは「詩人のナプキン」(アポリネール)、「断頭台の秘密」(リラダン)、「三浦右衛門の最後」(菊池寛)、「ひかりごけ」(武田泰淳)である。

『ちくま文学の森・おかしい話』は「変・滑稽・奇想」の傑作集2020年04月24日

『おかしい話』(ちくま文学の森5/筑摩書房)
 『ちくま文学の森7・恐ろしい話』に続いて次の第5巻を読んだ。

 『おかしい話』(ちくま文学の森5/筑摩書房)

 この叢書の特徴は各巻のユニークなタイトルにあり、「第1巻 美しい恋の物語」「第2巻 心洗われる話」「第3巻 幼かりし日々」……と続くのだが、第1巻からの順番ではなく自分が惹かれるタイトルの巻を読みたくなるのは当然で、『恐ろしい話』の次に『おかしい話』に手が伸びた。

 『おかしい話』は巻頭が長谷川四郎の「おかしい男の歌」という詩で、それに続いて18編の短篇(内11編が翻訳)が収録されている。巻末の井上ひさしの解説も一つのおかしい短篇小説と言える。

 このアンソロジーは『恐ろしい話』より面白かった。私が面白いと思ったのは「死んでいる時間(ボンテンぺㇽリ)」「結婚申込み(チェーオフ)」「勉強記(坂口安吾)」「あたま山(八代目林家正蔵演)」「運命(ヘルタイ)」「海草と郭公時計(T.F.ポイス)」「美食倶楽部(谷崎潤一郎)」「本当の話 抄(ルキアノス)」などである。

 おかしい話とは「変な話、滑稽な話、奇想の話」であり、「恐ろしい話」より幅が広くなり、その面白さは「恐ろしい話」より風雪に耐えて普遍的になりやすいと思える。

 本書収録の「幸福の塩化物」(ピチグリッチ)という翻訳小説は戦前の訳文で、当時の検閲による「伏字」はそのままである。エロチックな場面で「三十五字伏字」「四行伏字」などの表記になっている。新たな訳文がないという事情もあるかもしれないが、伏字がもたらす効果を狙っているように思える。確かにその効果はある。

 このアンソロジーは19世紀から20世紀前半の短篇がメインである。だが、本書には2世紀のルキアノスの作品「本当の話 抄」が収録されている。ルキアノスは『自省録』で有名な最後の「五賢帝」マルクス・アウレリウスと同時代のギリシア人である。この「本当の話 抄」の奔放な内容には驚いた。ほら男爵の冒険の古代版に近いが、ジブラルタル海峡を越えて大西洋に出た船は宇宙にまで飛び出し月世界と太陽世界の戦争に巻き込まれ、さらには不可思議な国を巡って行く。その奇想はガリバー旅行記を超えている。この作品は「史上最古のSF」と見なされているそうだ。首肯できる。

『ちくま文学の森6・思いがけない話』の表題は読書に妨げか?2020年04月26日

『思いがけない話』(ちくま文学の森6/筑摩書房)
 『ちくま文学の森5・おかしい話』に続いて次の第6巻を読んだ。

 『思いがけない話』(ちくま文学の森6/筑摩書房)

 巻頭詩(室生犀星の「夜までは」)に続いて19編の短篇(内13編が翻訳物)を収録していて、その中の5~6編は読んだ記憶がある。と言っても、内容をほとんど失念しているものが多い。

 本書も傑作が多い。私が面白いと思ったのは「改心(O・ヘンリー)」「外套(ゴーゴリ)」「魔術(芥川龍之介)」「押絵と旅する男(江戸川乱歩)」「親切な恋人(A・アレー)」「砂男(ホフマン)」などである。

 アンソロジーの表題が「思いがけない話」で冒頭第1編がO・ヘンリーなので、「意外な結末」の話を期待してしまう。O・ヘンリーの「改心」は途中で既読だと気づき、結末も思い出した。それでも面白く読了できた。2編目以降も「意外な結末」の話が続くかと思ったがそうでもなかった。当然ながら「意外な結末」がなくても面白い小説は面白い。

 巻末の解説で本叢書の編者の一人である森毅が次のように書いている。

 「「思いがけない話」というのは、いささか余分な修飾のような気がしないでもない。思いがけないからこそ、物語であるのだ。/しかしながら、そのことに惑わされて、なにか「思いがけない」展開があろうと期待するのも、つまらない話である。」

 この見解には全面的に賛成であり、それならこんな表題をつけなくもいいのにとも思ってしまう。私は表題に引きずられて「思いがけない」展開を期待して読み進めてしまった。「思いがけなさ」を気にかけすぎていると、読み終えたあと「面白かったけど、思いがけないというほど意外ではなかった」など思ってしまう。

 ゴーゴリの「外套」は印象深い有名作なので、半世紀以上昔に読んだ私でも、その内容の大筋は記憶にあり、結末もわかっていた。それでも、興味深く再読できた。この作品の展開が「思いがけない」か否かはおくとして、内容を記憶している「思いがけない話」を再読しても楽しめるのが不思議でもあり面白くもある。初読と再読では脳の働きが少し異なるのだと思う。

『ちくま文学の森16・とっておきの話』はやや期待外れか2020年04月28日

『とっておきの話』(ちくま文学の森15/筑摩書房)
 『ちくま文学の森6・思いがけない話』に続いて次の第15巻を読んだ。

 『とっておきの話』(ちくま文学の森15/筑摩書房)

 巻頭詩(アポリネールの「ミラボー橋」)に続いて20編の短篇(内6編が翻訳物)、私が面白いと思ったのは「名人伝(中島敦)」「月の距離(カルヴィーノ)」「にごりえ(樋口一葉)」「わら椅子直しの女(モーパッサン)」などである。

 全16巻の「ちくま文学の森」の16巻目は別巻なので、15巻目の本書が事実上の最終巻で、その表題が「とっておきの話」である。そもそも、短篇アンソロジーの本叢書全16巻の収録作すべてが、編者たちの「とっておきの話」のはずだが、その最終巻をあえて「とっておきの話」とするのだから、よりすぐりの傑作選だろうと期待した。期待値が高かっただけに多少の期待外れだった。どれも面白いが、私にとって格別に面白いとまでは言えない作品が多い。上記の中島敦、樋口一葉の作品は再読の名作で、名作と認めないわけにはいかない。

 「ちくま文学の森」全16巻の内の4巻を続けて読んで、編者たちと私との好みの共有点と違いがおぼろに見えてきた気がした。「違い」は世代の違いかもしれないと考え、編者4人を生年順に並べてみた。

 安野光雅 (1926年3月~ )
 森毅   (1928年1月~2010年7月)
 井上ひさし(1934年11月~2010年4月)
 池内紀  (1940年11月~2019年8月)

 最年長の安野光雅氏のみが存命で他の3人は物故者である。この4人、同世代かと思っていたら、意外と年齢差があり、安野氏と池内氏は14歳違う。私は1948年生まれなので、編者たちとの年齢差は22~8歳になる。これだけ幅があると世代論でかたづけるには無理がある。それは承知だが、私の仮説は、人は十代後半までに読んだ小説に強く刻印されるということである。

 このアンソロジーは、編者たちが二十歳以前に読んで強い印象を受けた小説がメインのような気がする。それは、私が二十歳以前に読んで強い印象を受けた小説と重複する部分もあり、ずれる部分もある。そんな気がする。

「ちくま文学の森」の4巻をたて続けに読んだが、残りの12巻は折を見てボチボチ読んでいこうと思う。こういうアンソロジーはガツガツ読むものではなく、心豊かに味読するものである。

日中戦争の頃の『キング』を入手した2020年04月30日

『キング 昭和12年12月號』(大日本雄辯會講談社
 2週間ほど前に『『キング』の時代:国民大衆雑誌の公共性』(佐藤卓己/岩波現代文庫)を読み、1冊だけでも『キング』の実物を見たいと思い、ネット古書店を検索した。戦前発行のものはどれも安くない。一番安いのを注文すると「倉庫を探したのですが、いくら探しても見つからず、調べたら大分前に売れてました」との返事がきた。仕方なく、その次に安いのを注文し、次の1冊を入手した。

 『キング 昭和12年12月號』(大日本雄辯會講談社)

 1937年(昭和12年)は日中戦争勃発の年で、『キング』の発行部数は110万部を超えている。『昭和12年12月號』は、この雑誌の最盛期の1冊と言っていいと思う。残念ながら挟込附録「上海南京地方明細地圖」は失われているが、綴込附録「國民精神總動員大特輯」88頁+本文634頁で、かなり分厚い。カラー写真4頁、モノクロのグラビア30頁、2色刷漫画が16頁、本文のほとんどの頁に挿絵やカットあるいは写真が入っている。漢字にはすべてルビを振っている。読みやすそうな雑誌である。

 時局記事と連載小説が中心で、漫画、小話、豆知識なども多く散りばめられている。少し以前の『文藝春秋』と『オール讀物』を足したよう雑誌だなと思ったが、この2誌は『キング』より古いので、当時の2誌がどんな雑誌だったのかはよくわからない。

 『キング 昭和12年12月號』めくって感じたのは、戦時色一色だということだ。太平洋戦争開戦の4年前ではあるが、1937年(昭和12年)7月には盧溝橋事件で日中戦争が始まり、この雑誌が出た時期は戦線がどんどん拡大している。

 冒頭のカラー頁は、赤ん坊をおぶった母親が出征する若い夫を見送る写真で、キャプションンには「行く先は朔風骨に沁む北支か、それとも迫撃砲の吠ゆる上海か、やがて此の勇士の名も新聞に出ることであろう」とある。グラビア頁はすべて「支那事變大畫報」という特集で、戦闘や兵士の写真が満載、本文記事も「支那事變大特輯」が65頁、漫画も「支那事變」を題材にしたものが多い。

 綴込附録「國民精神總動員大特輯」(88頁)は近衛首相はじめ大臣や政務次官などのメッセージ集である。近衛首相は冒頭で「吾々の不擴大方針が支那政府の不誠意に依りまして顧られず、北支事變が遂に支那事變となり、支那の排日分子に對して茲に全面的且積極的なる膺懲を必要とするに至りましたることは諸君己に御承知の通りであります」と述べている。この特集でメッセージを発してる要人には、戦後の政界で活躍した賀屋興宣(大蔵大臣)、灘尾弘吉(内務省課長)、清瀬一郎(衆議院議員)などもいる。戦前と戦後の連続性を感じた。

 戦争の勇ましい記事が多いが、この雑誌のメインは連載小説である。錚々たる執筆陣による連載が12本、他に読み切りが7本ある。大衆雑誌とは言え700頁以上のこの雑誌を毎月読むとすれば、それなりの読書時間を要するだろう。あまり本を読まなくなったと言われる現代の若者よりは、戦前の「大衆」の方が活字に親しんでいたと思える。