感染症の政治利用を描いた中国の小説『セレモニー』2020年03月04日

『セレモニー』(王力雄/金谷譲訳/藤原書店)
 友人と新型コロナウイルスの話をしているとき、次の小説を勧められたので読んでみた。

 『セレモニー』(王力雄/金谷譲訳/藤原書店)

 中国人作家の小説である。中国では出版できず、2017年12月に台湾で出版、日本語訳は昨年(2019年)5月に出版された。

 中国の一党独裁体制が崩壊する様を描いたSF的なシミュレーション小説である。セクシャルでバイオレンスでポリティカルなエンタメだが、中国の現体制への辛辣な見方が込められている。

 現代中国の大問題は、一党独裁体制がITによって補強され、大規模な監視社会が現出しつつあることである。この小説で最も興味深く感じられたのは「テクノロジーによる独裁」の姿を虚実交えてありありと描いている点である。

 そしてもう一点が「感染症の政治利用」である。新たな感染症が国や社会への大きな脅威になることは、現在進行中の新型コロナウイルスでよくわかる。把握しがたい大きな脅威であるが故に、いろいろな思惑を秘めた政治家の政治的道具にもなる。それがこの小説のテーマの一つで、昨今の日本の政治を眺めていると納得できる。

 著者の王力雄氏は1953年生まれ、文化大革命を経験した世代である。民族問題の研究者で民主化運動にも携わっていたそうだ。面白いがやや粗削りなエンタメ『セレモニー』の背後に著者の強引な腕力を感じるのは、そんな著者の経歴の反映に思える。

中国の大量難民が世界に拡散するさまを描いた『黄禍』2020年03月07日

『黄禍』(王力雄/横澤泰夫訳/集広舎)
 『セレモニー』(王力雄)に続いて同じ作家の次の小説を読んだ。

 『黄禍』(王力雄/横澤泰夫訳/集広舎)

 この小説は『セレモニー』に先行する作品で日本語訳は2015年11月に出ている。原著『黄禍』は1991年に香港で出版、その改訂版『黄禍---新世紀版』が2008年に台湾で出版されている。日本語版は改訂版を翻訳したものである。改訂版は原著を6割に縮めたそうだが、それでも本書はA5判2段組で約500ページ、『セレモニー』の1.6倍の分量である。

 著者は本書冒頭の「日本の読者へ」という文章で次のように述べている。

「本書は、想像を語るというやり方で中国の崩壊及びそれが世界にもたらす衝撃を述べたものです」

 中国の総書記暗殺に始まる権力闘争が内戦を引き起こし、台湾の介入から台北への核攻撃に発展、さらにはロシアや米国も巻き込んでいくという物語である。

 本書の眼目は大量の難民発生が全世界に危機をもたらすという設定だ。崩壊が始まった中国は食糧危機に陥り10億の難民がロシア、ヨーロパ、アメリカへ拡散していく。どの国も難民受け入れを拒否しようとするが、10億という数に圧倒されてしまうのだ。これは半端な数ではない。殺戮できる数でもない。第二次世界大戦の軍人・民間人の死者が5000万人~8000万人、ホロコーストのユダヤ人犠牲者が600万人と言われているから、10億はケタ違いだ。受け入れれば共倒れになりかねない数である。

 ゲルマン民族の大移動でローマ帝国が崩壊したという説を連想するが、この小説の設定はそんなに生易しいものではない。フィクションではあるが背筋が寒くなる。

 この小説を読んだ直接のきっかけは、中国での一党独裁体制が崩壊するさまを描いた『セレモニー』の「あとがき」で著者が次のように述べていたからである。

 「『セレモニー』の後で何が起こるかを展望するとき、『黄禍』はこんにちにおいても、もっともリアルな未来予想図であると、私は思っている。」

 最悪の悲観的未来図ではあるが、現実の世界を眺めるとき、そんな可能性も頭においておくことも必要なのだろう。

「内田百閒」の世界は不気味でとぼけた異世界2020年03月10日

 『内田百閒』(内田百閒 1889-1971/ちくま日本文学001/筑摩書房)
 最近は古本も新刊も手軽にネットで買えるので、ぶらりと書店に入って当てもなく棚を眺めることが減った。だが、駅前の本屋が廃業になっては困るので時には目的もなく本屋に入り、のんびりと棚を物色する。その折に目について購入したのが次の本である。

 『内田百閒』(内田百閒/ちくま日本文学001/筑摩書房)

 ちくま文庫の1冊と思って手にしたが、どこにも「ちくま文庫」の表記はなく「ちくま日本文学」とある。これは文庫版の文学全集の1冊である。

 書店で日本文学全集や世界文学全集を目にすることがなくなったので、文庫本の棚に並んだ40冊の文庫版文学全集を見たときには新鮮な気分になった。1巻1作家で、作家名だけが大きく書かれた背表紙が並んでいるのは圧巻である。40人の日本人作家の人選がユニークで、第1巻から第40巻までの順序の根拠もよくわからない。時代順ではないし、純文学作家、大衆作家、詩歌作家といった分野別でもない。

 一番左端に置かれた第1巻が「内田百閒」なのにも驚いた。さほどメジャーとは思われない内田百閒が日本文学全体に君臨しているような超現実的な不思議な気分になり、ついその1冊に手が伸び、購入した。

 内田百閒の作品は、約30年前に人に薦められて短篇「サラサーテの盤」を読んだことがあるだけで、その時の印象は最早おぼろだ。この小説が鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』の原案だということは、小説を読んだときに気付いた。いまでは小説の印象と映画の印象が混濁している。

 本屋の店頭で手にした『内田百閒』には短篇小説と随筆36編が収録されていて、その中には「サラサーテの盤」もある。巻頭の「花火」から巻末の「特別阿房(あほう)列車」までを順番に読み終えて、浮世離れした異世界を旅してきた気分になった。

 前半が小説で後半が随筆のようだが、その境界はあいまいである。小説は随筆のようであり、随筆は小説のようでもある。小説の多くは夢日記の趣があり、不気味で幻想的である。私には「花火」「件」「波止場」「大宴会」「東京日記」「サラサーテの盤」面白かった。

 随筆には借金話が多い。借金への果てしない考察は作者が借金に苦労しながらもそれを楽しんでいるように見える。「私と云うのは、文章上の私です。筆者自身のことではありません。」という書き出しの文章が随筆風なのは人を食っている。「きままな旅」を綿密に「計画」する話もとぼけている。

 内田百閒の奇妙な魅力を再認識した。

ついクセになり内田百閒の作品集もう一冊読んだ2020年03月15日

『サラサーテの盤』(内田百閒/福武文庫/福武書店)
 『内田百閒』(ちくま日本文学001)を読んだのを機に30年前に購入した次の文庫本も読んだ。

 『サラサーテの盤』(内田百閒/福武文庫/福武書店)

 いまはなき福武文庫の1冊で、短篇小説21編を収録している。購入時に表題作を読んだのは確かだが、他の作品は読んでないような気がして、この古い文庫本を引っ張り出したのである。

 先にに読んだ「ちくま日本文学」とは「サラサーテの盤」「東京日記」の2編が重複していて、他の19編は初読である(と思う)。

 やはり、内田百閒は変な作家である。すべての作品は一人称の文体で、随筆風に綴っているものも多い。だから「私」をつい作者に重ねて見てしまう。ところが、この「私」が曲者である。

 作中人物の中で最も妖しい人物が「私」のように思える作品も多い。「私」が他の登場人物の不可思議な言動を語っていても、それは、語り手である「私」の見方や感じ方がゆがんでいるのであって、「私」にはまともな人物の普通の言動を奇矯なものに変換してしまう特殊な能力があるのではと思えてくる。

 この作品集には「虎」や「雨」が夢幻的に登場する。また、「大震災」や「スペイン風邪」が日常の背景にサラリと語られている。それらとても印象的でドキリとさせられる。

「100分de名著 アーサー・C・クラーク スペシャル」のテキストは面白い2020年03月26日

 今月(2020年3月)のNHK Eテレ「100分de名著」は「アーサー・C・クラーク スペシャル」だった。懐かしきSFの巨匠である。取り上げるのは次の4編。

 『太陽系最後の日』
 『幼年期の終わり』
 『都市と星』
 『楽園の泉』

 このリストを見るだけで、これらの作品を読んだときのワクワク感がよみがえってくる。前の3つは十代後半に読んだ。クラークが自ら「最後の作品」と銘打った『楽園の泉』が出たのは私が三十代の頃だった。いずれも、遠い昔に読んだ小説なので、細かな内容までは憶えていないが、話の大筋と強烈な印象はいまも残っている。

 TV放映の全4回を観たあと、この番組の講師・瀬名秀明氏が執筆したテキストも購入した。このテキストにはテレビでは触れなかった話がたくさん載っていて、とても面白い。
 このテキストはクラークの4作品の紹介であると同時に、簡潔なクラークの伝記になっていて、瀬名秀明氏のクラーク論でもある。私が知らなかった事柄が多く述べられていて、クラークのイメージがかなりクリアになった。
 若い頃の「宇宙大好き人間」クラークが、『ナルニア国物語』の作者・ルイスと対立して論争していたという話は興味深い。『幼年期の終わり』の結末がハッピーか否かの議論に共感した。SFの魅力「センス・オブ・ワンダー」を懐かしき昔のものとして語っているのは少しショックで、自分が年を取ったのだと思った。

『名誉と恍惚』(松浦寿輝)はとても面白い2020年03月30日

『名誉と恍惚』(松浦寿輝/新潮社)
 新型コロナ騒動による諸々のキャンセルでポッカリ時間があき、「積ん読棚」を退治する気になり次の小説を読んだ。

 『名誉と恍惚』(松浦寿輝/新潮社)

 2017年の谷崎賞、ドゥゴマ文学賞のダブル受賞作品で、面白そうだと思って購入しながら、1300枚というボリュームに躊躇して未読のまま積んでいた。読み出すと引きつけられ、一気に読了した。サスペンス活劇映画のように面白く、しかも重厚な小説を堪能したという満足感も得られた。

 舞台は上海租界、時代は1937年7月から1939年10月までの2年間である。物語が始まる1937年7月とは、盧溝橋事件勃発により日中戦争が始まった時で、その翌月(1987年8月)には北一輝が死刑になっている(前年の二・二六事件の軍法会議の判決が出て5日後に執行)。物語が終わる1939年10月はドイツのポーランド侵入にる第二次世界大戦開始の翌月、真珠湾攻撃の約2年前である。

 この小説を読み始めてすぐ、物語をより堪能するには時代背景の知識が必要だと感じた。で、しばし小説を中断し、本棚にあった次の本を引っ張り出した。

 『朝日新聞に見る日本の歩み(昭和12年-14年)』

 これは当時の新聞の縮刷版のダイジェストで、3年間の主要な出来事を約260頁の紙面で紹介している。天眼鏡を手にパラパラと紙面を繰りながら見出しや広告を眺めていくと時代の雰囲気が伝わってくる。この時代はまさに日中戦争にまい進していて、真珠湾の4年前から紙面には戦時色が濃い。上海の記事も多い。上海租界の地図なども載っている。

 小説を読む途中で新聞縮刷版ダイジェストをめくる時間(30分ぐらいか)を得たのは正解だった。物語の時間にタイムスリップできる。主人公が逃亡して沖仲仕に身をやつしているとき、箪笥の抽斗の底の日本の古新聞(5カ月前)を読み耽るシーンがあり、そこに出てくる当時の日本の芸能・風俗ニュースが、私が目を通したばかりの紙面と重なったときは、うれしくなった。

 この小説の魅力は、上海租界という特殊な孤島のような異世界に引き込まれていく所にある。決して幻想小説ではないが、どこか夢幻的でもある。主人公がひととき『漢詩大全』に耽溺し、後にその分厚い書籍を鉄亜鈴の代用品として体を鍛錬するという仕掛けも巧妙だ。エンタメ基調の展開の中に時代や歴史への洞察も盛り込まれた、読みごたえのある小説である。

半世紀前に購入したカミュの『ペスト』を読んだ2020年03月31日

『ペスト(上)(下)』(カミュ/宮崎嶺雄訳/新潮文庫)
 コロナ騒動の余波でカミュの『ペスト』が売れているとの新聞記事があった。私は51年前(1969年)にこの小説を購入しているが未読である。あの頃、『異邦人』『シジフォスの神話』などは面白く読んだが『ペスト』は冒頭部分を読んだだけで、そのままになっていた。ペストで封鎖された都市の話が監禁状況という世界を暗喩している話だと了解し、読まなくても何となくわかった気になったのかもしれない(自己正当化の言い訳だが)。
 コロナで諸々がキャンセルになって空いた時間に、51年前に購入した『ペスト』を読んだ。

 『ペスト(上)(下)』(カミュ/宮崎嶺雄訳/新潮文庫)

 薄い文庫本2冊で、さほど長い小説ではない(いまの新潮文庫は1冊のようだ)。想像していたほど観念的な内容ではなく、面白く読了できた。

 叙述のスタイルが変わっている。医師リウーの視点の物語を「筆者」が語るスタイルで、筆者の見聞も折り込まれている。この筆者が何者か判然としないまま物語が進行し、最後に判明する。著者はなぜこんなまどろっこしい書き方を採ったのだろうか。読者は、それを考えざるを得ない。巧妙である。
 
 あらためてカミュの略歴を確認し、その若さに驚く。1913年生まれ、28歳で『異邦人』を刊行、1947年に『ペスト』を刊行したときは33歳、43歳でノーベル賞、その3年後に交通事故で死亡した。

 『ペスト』は感染でロックダウンされた町の話で、かなり具体的な物語になっているが、やはりペストは暗喩である。世界大戦の体験や強制収容所の様子、さらには大戦後の虚脱・混迷などを反映した小説に思える。いくつかの典型的な登場人物を配しているのも、ある意味ではわかりやすくて面白い。物語と哲学が心地よく配合されている。確かに名作である。