『三島由紀夫の世界』(村松剛)は身内視点の評伝 ― 2021年02月10日
三島由紀夫に関する本をいくつか読んで頭が三島世界に慣れているうちに、未読放置の三島本をかたづけようという気になり、まず次の評伝を読んだ。
『三島由紀夫の世界』(村松剛/新潮文庫)
三島由紀夫と親交が深かった村松剛(三島より4歳下)が、死後17年経って『新潮』に連載した900枚を超える評伝である。村松剛と三島由紀夫は母親同士が古くからの友人で、村松剛の 妹・英子 は三島由紀夫が関連した劇団の有名女優だった。
私が三島作品を初めて読んだのは中学卒業の頃の『金閣寺』だが、村松剛の『ナチズムとユダヤ人』はそれ以前の中学3年の時に読んでいる。このアイヒマン裁判傍聴記の著者紹介に「アルジェリア独立戦争に従軍」とあるのに驚き、「行動する知識人」のカッコよさに惹かれ、彼の『女性的時代を排す』『ユダヤ人』も入手して読んだ。
少年時代の一時期、私には村松剛は三島由紀夫より大きい存在だった。大学生になり、大学闘争の嵐が吹き荒れた時代、立教大の教授だった村松剛が大衆団交を人民裁判だと非難して辞職したと聞き、敵ながらあっぱれという気分になった。
閑話休題。『三島由紀夫の世界』は、三島由紀夫の小説やエッセイの分析をベースに小説家の内面史を辿っていく流れがメインである。しかし、興味深く読めるのは、著者と三島由紀夫やその家族との交流に関わるエピソード部分だ。
著者が三島由紀夫を客観的に捉えようとしているのは確かだが、どうしても身内・家族の視点になっている。三島由紀夫に引きずられているとも言える。初恋の影響を大きく見過ぎ、同性愛者ではないと強調しすぎているように思える。
ノーベル賞に関して「賞をもらっていたとしても、三島のその後の行動にさほどの変化はなかったのではないか」としているのは炯眼だ。私は以前、ノーベル賞を受賞していれば三島事件はなかったと思っていたが、それは間違いだといまは思っている。
本書の圧巻は三島事件を描いた終章である。身内の側からの驚愕・放心、そして「やっぱり」――事件直後の家族の混乱した様が伝わってくる。「やっぱり」に、あらためて三島由紀夫という作家の宿命を感じた。
村松剛は1994年に65歳で亡くなっている。この文庫版は逝去後の1996年刊行である。
『三島由紀夫の世界』(村松剛/新潮文庫)
三島由紀夫と親交が深かった村松剛(三島より4歳下)が、死後17年経って『新潮』に連載した900枚を超える評伝である。村松剛と三島由紀夫は母親同士が古くからの友人で、村松剛の 妹・英子 は三島由紀夫が関連した劇団の有名女優だった。
私が三島作品を初めて読んだのは中学卒業の頃の『金閣寺』だが、村松剛の『ナチズムとユダヤ人』はそれ以前の中学3年の時に読んでいる。このアイヒマン裁判傍聴記の著者紹介に「アルジェリア独立戦争に従軍」とあるのに驚き、「行動する知識人」のカッコよさに惹かれ、彼の『女性的時代を排す』『ユダヤ人』も入手して読んだ。
少年時代の一時期、私には村松剛は三島由紀夫より大きい存在だった。大学生になり、大学闘争の嵐が吹き荒れた時代、立教大の教授だった村松剛が大衆団交を人民裁判だと非難して辞職したと聞き、敵ながらあっぱれという気分になった。
閑話休題。『三島由紀夫の世界』は、三島由紀夫の小説やエッセイの分析をベースに小説家の内面史を辿っていく流れがメインである。しかし、興味深く読めるのは、著者と三島由紀夫やその家族との交流に関わるエピソード部分だ。
著者が三島由紀夫を客観的に捉えようとしているのは確かだが、どうしても身内・家族の視点になっている。三島由紀夫に引きずられているとも言える。初恋の影響を大きく見過ぎ、同性愛者ではないと強調しすぎているように思える。
ノーベル賞に関して「賞をもらっていたとしても、三島のその後の行動にさほどの変化はなかったのではないか」としているのは炯眼だ。私は以前、ノーベル賞を受賞していれば三島事件はなかったと思っていたが、それは間違いだといまは思っている。
本書の圧巻は三島事件を描いた終章である。身内の側からの驚愕・放心、そして「やっぱり」――事件直後の家族の混乱した様が伝わってくる。「やっぱり」に、あらためて三島由紀夫という作家の宿命を感じた。
村松剛は1994年に65歳で亡くなっている。この文庫版は逝去後の1996年刊行である。
三島自死の必然を解明した『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』 ― 2021年02月07日
三島由紀夫没後50年の昨年来、三島関連のテレビ番組や本に触れる機会が多くなり、本棚の背表紙を眺めていて次の本が気になった。
『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(橋本治/新潮社)
手に取ると、ほぼ半分の箇所にブックダーツ(私が愛用の金属製クリップ)が挟まれている。約380頁の本の半分まで読んで、そのまま放置していたようだ。挫折したのは19年前の2002年と推察される。
この三島由紀夫論の冒頭は、三島邸の庭にあったアポロ像がチャチという話で、それだけが記憶に残っていて、他は失念している。
一昨年70歳で逝った同世代作家の本を中途半端に放置しておくのは礼を欠くと思い、最初から読み直し、19年ぶりに読了した。
読了して、19年前に挫折した理由がわかった。面白いのに難解なのだ。面白いから半分までは読めた。しかし、迂遠でゴチャゴチャした論理展開に頭が疲れ、力尽きたようだ。今回読了できたのは、最近読んだ 『三島由紀夫』(佐藤秀明)や 『金閣を焼かねばならぬ』(内藤健)によって、頭が三島世界に慣れていたせいだと思う。
本書を十全に理解できたわけではなく、論旨をまとめるのは難しい。著者は『仮面の告白』から『豊穣の海』にいたる三島作品を検討し、ほとんどの作中人物を三島由紀夫と見なしている。そして、「ややこしさこそが三島由紀夫の真実」としたうえで、そのややこしさを解き明かしている。次の指摘がキー概念と思われる。
《作家である三島由紀夫は、「三島由紀夫」という自分自身を「虚」として設定した。これは三島の修辞(レトリック)ではなく論理(ロジック)である》
この論理を迷路のように展開し、『豊穣の海』が主人公たちの消滅で結末をむかえる必然を述べている。本書第2章の次の記述が印象に残った。
《私=橋本は、1970年の11月25日に市ヶ谷という場所で「死」を実践した人物が、果たして「三島由紀夫」だったのかどうかを訝しんでいる。三島由紀夫は、文学と関わるだけの「虚」なのである。「虚」が現実の中で「死」を実践できるわけはない。(…)三島由紀夫は文学の中で死に、三島由紀夫に死なれた“仮面の作り手”は、現実の中で死ぬ。それをするだけの孤独が、“その人物”にはあったはずである。》
著者は三島由紀夫を「ややこしくて、へんな人」と述べているが、本書を読み終えた私は、こんな本を書く橋本治も充分に「ややこしくて、へんな人」だと思う。
本書は2002年に第1回小林秀雄賞を受賞したそうだ。
『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(橋本治/新潮社)
手に取ると、ほぼ半分の箇所にブックダーツ(私が愛用の金属製クリップ)が挟まれている。約380頁の本の半分まで読んで、そのまま放置していたようだ。挫折したのは19年前の2002年と推察される。
この三島由紀夫論の冒頭は、三島邸の庭にあったアポロ像がチャチという話で、それだけが記憶に残っていて、他は失念している。
一昨年70歳で逝った同世代作家の本を中途半端に放置しておくのは礼を欠くと思い、最初から読み直し、19年ぶりに読了した。
読了して、19年前に挫折した理由がわかった。面白いのに難解なのだ。面白いから半分までは読めた。しかし、迂遠でゴチャゴチャした論理展開に頭が疲れ、力尽きたようだ。今回読了できたのは、最近読んだ 『三島由紀夫』(佐藤秀明)や 『金閣を焼かねばならぬ』(内藤健)によって、頭が三島世界に慣れていたせいだと思う。
本書を十全に理解できたわけではなく、論旨をまとめるのは難しい。著者は『仮面の告白』から『豊穣の海』にいたる三島作品を検討し、ほとんどの作中人物を三島由紀夫と見なしている。そして、「ややこしさこそが三島由紀夫の真実」としたうえで、そのややこしさを解き明かしている。次の指摘がキー概念と思われる。
《作家である三島由紀夫は、「三島由紀夫」という自分自身を「虚」として設定した。これは三島の修辞(レトリック)ではなく論理(ロジック)である》
この論理を迷路のように展開し、『豊穣の海』が主人公たちの消滅で結末をむかえる必然を述べている。本書第2章の次の記述が印象に残った。
《私=橋本は、1970年の11月25日に市ヶ谷という場所で「死」を実践した人物が、果たして「三島由紀夫」だったのかどうかを訝しんでいる。三島由紀夫は、文学と関わるだけの「虚」なのである。「虚」が現実の中で「死」を実践できるわけはない。(…)三島由紀夫は文学の中で死に、三島由紀夫に死なれた“仮面の作り手”は、現実の中で死ぬ。それをするだけの孤独が、“その人物”にはあったはずである。》
著者は三島由紀夫を「ややこしくて、へんな人」と述べているが、本書を読み終えた私は、こんな本を書く橋本治も充分に「ややこしくて、へんな人」だと思う。
本書は2002年に第1回小林秀雄賞を受賞したそうだ。
『絶望を希望に変える経済学』は格差拡大社会への処方箋を提示 ― 2021年02月04日
知人に薦められて次の本を読んだ。
『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』(アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ/村井章子訳/日本経済新聞出版)
昨年夏に新聞の書評で見かけ、ちょっと気になった本である。著者二人は2019年にノーベル経済学賞を受賞した研究者夫婦(MIT教授)で、夫はインド出身、妻はフランス人だ。本書の原題は“Good Economics for Hard Times”、2019年の刊行である。
私は経済学に関心をもった時期もあるが最近は敬遠気味だ。複雑・多様でわかりにくくなった経済学に、現実問題への正しい処方箋のを求めるのは難しいと感じていた。本書は狭量な経済学の視点を超えた処方箋を提示している。
本書の著者二人の専門は開発経済学で、貧困問題に取り組んでいるそうだ。序文では「富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究している問題と気味がわるいほどよく似ている」と指摘している。その問題とは端的にいえば格差拡大である。
本書は経済学の書ではあるが、理論を展開した本でない。さまざまな調査に基づいた事例研究紹介であり、経済学者批判であり、理念に基づく政策提言の書である。その主張には概ね共感できる。「よい経済学」と「悪い経済学」という表現は露骨だが、あえてこんな言い方をしなければならない所に、現状の「困難」があるのだと思う。著者のいう「困難な時代」はレーガン、サッチャーの時代に始まり、現在まで持続している。
「移民」「自由貿易」「好き嫌いの心理」「経済成長」などに関する著者の考察は非常に興味深い。複雑怪奇な現実は、単純明快な理論では容易に切り取れないとわかる。社会科学者はタイヘンだと思う。経済成長に関する次のような記述が印象に残った。
「経済学者が何世代にもわたって努力してきたにもかかわらず、経済成長を促すメカニズムが何なのかということはまだわかっていない。(…)いつ成長という機関車が走り出すのか、いや本当に走り出すのかさえわからない(…)成長率を押し上げる方法などわからなくても、よりよい世界に向けてできることはまだまだある」
『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』(アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ/村井章子訳/日本経済新聞出版)
昨年夏に新聞の書評で見かけ、ちょっと気になった本である。著者二人は2019年にノーベル経済学賞を受賞した研究者夫婦(MIT教授)で、夫はインド出身、妻はフランス人だ。本書の原題は“Good Economics for Hard Times”、2019年の刊行である。
私は経済学に関心をもった時期もあるが最近は敬遠気味だ。複雑・多様でわかりにくくなった経済学に、現実問題への正しい処方箋のを求めるのは難しいと感じていた。本書は狭量な経済学の視点を超えた処方箋を提示している。
本書の著者二人の専門は開発経済学で、貧困問題に取り組んでいるそうだ。序文では「富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究している問題と気味がわるいほどよく似ている」と指摘している。その問題とは端的にいえば格差拡大である。
本書は経済学の書ではあるが、理論を展開した本でない。さまざまな調査に基づいた事例研究紹介であり、経済学者批判であり、理念に基づく政策提言の書である。その主張には概ね共感できる。「よい経済学」と「悪い経済学」という表現は露骨だが、あえてこんな言い方をしなければならない所に、現状の「困難」があるのだと思う。著者のいう「困難な時代」はレーガン、サッチャーの時代に始まり、現在まで持続している。
「移民」「自由貿易」「好き嫌いの心理」「経済成長」などに関する著者の考察は非常に興味深い。複雑怪奇な現実は、単純明快な理論では容易に切り取れないとわかる。社会科学者はタイヘンだと思う。経済成長に関する次のような記述が印象に残った。
「経済学者が何世代にもわたって努力してきたにもかかわらず、経済成長を促すメカニズムが何なのかということはまだわかっていない。(…)いつ成長という機関車が走り出すのか、いや本当に走り出すのかさえわからない(…)成長率を押し上げる方法などわからなくても、よりよい世界に向けてできることはまだまだある」
マッカーサーやケネディも顔を出す『ガンジスと三日月(大世界史6)』 ― 2021年01月31日
河出版『世界の歴史』の『イスラム世界』に続いて、本棚に眠っていた文春版『大世界史』の次の巻を読んだ。
『ガンジスと三日月(大世界史6)』(中村元・三橋冨治男/文藝春秋)
河出版の1968年よりさらに1年前の1967年刊行の古い本で、前半(約3分の1)がインドの古代史、後半がイスラム史である。私の目当てはイスラム史だが、高名な仏教学者・中村元による前半も面白く読んだ。
冒頭の総括的な章で中村元は「インドとイスラムは、本質的にはなにも似かよったところはない」としたうえで次のように述べている。
「春秋の筆法でいえば、インドとイスラムは、ともに現代文明の母ともいいうるのである。その両者が、いまや代表的な後進国ということになっている。なぜか。それを理解するには、長い複雑な歴史を丹念にたどってゆくよりほかはない。」
「後進国」という言葉に時代を感じるが、面白い切り口だ。裏返せば、西洋中心史観がどのように生まれたか、との視点になる。
本書後半は、イスラム教成立の7世紀から20世紀初頭のケマル・アタチュルク(トルコ共和国初代大統領)までを点描風に記述している。イスラム史概説書の連続読書4冊目なので、多少は頭に入りやすい。というものの、大小さまざま王朝があちらやこちらで栄枯盛衰をくり返すさまは、やはりややこしい。
本書には1960年代だなあと思わせる「たとえ」が出てくる。
「イスラムの剣」と呼ばれた勇将ワリードがビザンティン帝国と戦っているとき、正統派カリフ2代目ウマルに突如として解任される。著者はこの解任を「朝鮮戦争の最中にトルーマンに解任されたマッカーサーを思わしめるものがある。」と表現している。
また、セルジューク朝の名宰相ニザームル・ムルクが刺客に暗殺される場面では「ケネディ大統領の暗殺は二十世紀後半を震撼した大事件であったが、それにおとらず大宰相の暗殺も十一世紀末イスラム社会に大きな衝撃をあたえた。」と述べている。
21世紀の目でマッカーサーやケネディの「たとえ」を検討しても無意味だ。不意打ちのような表現に出会えるのは、古い本の読書ならではの楽しさである。印象に残る。
『ガンジスと三日月(大世界史6)』(中村元・三橋冨治男/文藝春秋)
河出版の1968年よりさらに1年前の1967年刊行の古い本で、前半(約3分の1)がインドの古代史、後半がイスラム史である。私の目当てはイスラム史だが、高名な仏教学者・中村元による前半も面白く読んだ。
冒頭の総括的な章で中村元は「インドとイスラムは、本質的にはなにも似かよったところはない」としたうえで次のように述べている。
「春秋の筆法でいえば、インドとイスラムは、ともに現代文明の母ともいいうるのである。その両者が、いまや代表的な後進国ということになっている。なぜか。それを理解するには、長い複雑な歴史を丹念にたどってゆくよりほかはない。」
「後進国」という言葉に時代を感じるが、面白い切り口だ。裏返せば、西洋中心史観がどのように生まれたか、との視点になる。
本書後半は、イスラム教成立の7世紀から20世紀初頭のケマル・アタチュルク(トルコ共和国初代大統領)までを点描風に記述している。イスラム史概説書の連続読書4冊目なので、多少は頭に入りやすい。というものの、大小さまざま王朝があちらやこちらで栄枯盛衰をくり返すさまは、やはりややこしい。
本書には1960年代だなあと思わせる「たとえ」が出てくる。
「イスラムの剣」と呼ばれた勇将ワリードがビザンティン帝国と戦っているとき、正統派カリフ2代目ウマルに突如として解任される。著者はこの解任を「朝鮮戦争の最中にトルーマンに解任されたマッカーサーを思わしめるものがある。」と表現している。
また、セルジューク朝の名宰相ニザームル・ムルクが刺客に暗殺される場面では「ケネディ大統領の暗殺は二十世紀後半を震撼した大事件であったが、それにおとらず大宰相の暗殺も十一世紀末イスラム社会に大きな衝撃をあたえた。」と述べている。
21世紀の目でマッカーサーやケネディの「たとえ」を検討しても無意味だ。不意打ちのような表現に出会えるのは、古い本の読書ならではの楽しさである。印象に残る。
『イスラム世界』(前嶋信次)は局面描写を積み重ねた歴史概説本 ― 2021年01月29日
イスラム史を2冊(『イスラーム世界の興隆』(中公版・世界の歴史8)、『イスラーム帝国のジハード』(講談社版・興亡の世界史))、続けて読んで頭がイスラム・モードになり、本棚に眠っていた類書も読むことにした。
『イスラム世界(世界の歴史8)』(前嶋信次/河出書房新社)
1968年刊行の古い本である。イラン革命の10年前、ムスリムが現代史の前面に登場する前の本だが、当時の直近ニュース・第3次中東戦争(1967年)に触れている。イスラム世界はこの戦争でイェルサレムを失った。
本書は、ササン朝ペルシア(イスラム教成立以前の3世紀)から15世紀末のナスル朝(イベリア半島)滅亡までの千数百年を扱っている。著者は、この長大な歴史を網羅的な事象羅列ではなく、重要な局面を掘り下げた描写の積み重ねで描いている。重要挿話で語るイスラム史なので、読みやすくて面白い。
本書は時として描写が講談調になり、それが楽しい。マホメットがメッカからメディナへ「聖遷(ヒジュラ)」する際のイスラム信者はムハージルーン(メッカからの移住者)とアンサール(メディナの援助者)から成る。このアンサールを「お味方衆」と表記しているのにしびれた。「健児」「風雲児」なんて言葉も出てくるし、次のような語り口もある。
「(軍営都市のバスラは)いわば新開地であり、強悍で度しがたいアラブっ子が長剣をきらめかして闊歩しているところでもあった。」
「このときの若い公子(ムアーウィヤの息子ヤジド)の武者ぶりはまことに颯爽たるもので、あっぱれアラブの若武者よ、とたたえられたとのことである。」
ウマイヤ朝とアッバース朝を比較して、前者を「白衣・白旗に烈日がてりはえて、どこか陽気で野放図なところがある」、後者を「黒旗、黒衣で、なにか重苦しく、暗い影がつきまとう」と描写しているのも面白い。前者はアラブ人優位の「アラブ帝国」、後者は平等で寛容な「イスラム帝国」という漠然としたイメージがあったが、そのイメージの陰影が深くなった。
もちろん、本書全般は講談ではなく、展望のいい歴史概説書である。大きな流れは、ローマとペルシアという2大文明の狭間に生れたイスラム世界が、両者の文明を吸収し発展させていく物語である。同時に、アラビア半島から東西にへ拡大していくイスラム世界のヘゲモニーが、アラブ族からイラン族へ、さらにトルコ族へとひきつがれ、この三大民族がもつれ合いながら時代が進行していく物語である。
『イスラム世界(世界の歴史8)』(前嶋信次/河出書房新社)
1968年刊行の古い本である。イラン革命の10年前、ムスリムが現代史の前面に登場する前の本だが、当時の直近ニュース・第3次中東戦争(1967年)に触れている。イスラム世界はこの戦争でイェルサレムを失った。
本書は、ササン朝ペルシア(イスラム教成立以前の3世紀)から15世紀末のナスル朝(イベリア半島)滅亡までの千数百年を扱っている。著者は、この長大な歴史を網羅的な事象羅列ではなく、重要な局面を掘り下げた描写の積み重ねで描いている。重要挿話で語るイスラム史なので、読みやすくて面白い。
本書は時として描写が講談調になり、それが楽しい。マホメットがメッカからメディナへ「聖遷(ヒジュラ)」する際のイスラム信者はムハージルーン(メッカからの移住者)とアンサール(メディナの援助者)から成る。このアンサールを「お味方衆」と表記しているのにしびれた。「健児」「風雲児」なんて言葉も出てくるし、次のような語り口もある。
「(軍営都市のバスラは)いわば新開地であり、強悍で度しがたいアラブっ子が長剣をきらめかして闊歩しているところでもあった。」
「このときの若い公子(ムアーウィヤの息子ヤジド)の武者ぶりはまことに颯爽たるもので、あっぱれアラブの若武者よ、とたたえられたとのことである。」
ウマイヤ朝とアッバース朝を比較して、前者を「白衣・白旗に烈日がてりはえて、どこか陽気で野放図なところがある」、後者を「黒旗、黒衣で、なにか重苦しく、暗い影がつきまとう」と描写しているのも面白い。前者はアラブ人優位の「アラブ帝国」、後者は平等で寛容な「イスラム帝国」という漠然としたイメージがあったが、そのイメージの陰影が深くなった。
もちろん、本書全般は講談ではなく、展望のいい歴史概説書である。大きな流れは、ローマとペルシアという2大文明の狭間に生れたイスラム世界が、両者の文明を吸収し発展させていく物語である。同時に、アラビア半島から東西にへ拡大していくイスラム世界のヘゲモニーが、アラブ族からイラン族へ、さらにトルコ族へとひきつがれ、この三大民族がもつれ合いながら時代が進行していく物語である。
石田幹之助の名著『長安の春』は読みにくくはなかった ― 2021年01月27日
エクセルの読書リストを眺めていて、昨年9月に読んだ
『大唐の春(大世界史4)』(石田幹之助・他)
が目に入り、後回しにしていた次の本を思い出した。
『増訂 長安の春』(石田幹之助/東洋文庫/平凡社)
名著と評判の本書の東洋文庫版は1967年初版だが、原本は1941年(真珠湾の年)の刊行、かなり昔の本だ。
冒頭が漢詩の引用で、格調高い古雅な文章が続く。未知の漢語や難しい漢字が頻出し、「これは大変だ、性根を入れて取り組む本だ」と感じて敬遠していた。その気がかりだった書を、ついにひもといた。
読み進めると思ったほど敷居が高くなく、比較的短時間で読了できた。初めのうちは漢和辞典や広辞苑を引いていたが、やがて面倒になり、多少の難解語は想像力でごまかし、強引に読み進めた。それでも面白く読めた。
本書は歴史エッセイ集(18編)で、唐の都・長安の社会や風俗を、主に漢詩を材料にして描写している。
巻頭の「長安の春」(十数ページ)に敷居の高さを感じたのだが、これは一編の詩のような作品で、その名調子に波長が合ってくると心地よく堪能できる。
他のエッセイは読みやすい散文である。漢詩の引用は読み下し(直訳)で、親切な解釈文はない。著者自身、直訳について「分かつたやうな分からないやうな厄介なものですが、そこが賦といふものの身上かも知れません。」と述べている。およその雰囲気をつかめれば、それでいいのだと思った。
ネット時代になり、有名な漢詩は作者・題名で検索するといろいろな訳文が出てくる。いくつかの引用漢詩はネット検索で訳文を参照しつつ、本書読み進めた。
私はソグド人(中央アジアのソグディアナを故地とするイラン系の人)に関心があるので、「「胡旋舞」考」「當瀘の胡姫」などを興味深く読んだ。長安で活躍するソグド人女性のダンサーやホステスの話である。
本書は全般的に、長安に流入している外来文化(特にイラン系)の様を描いていて、そこに魅力がある。華やかで艶やかな書だ。
『増訂 長安の春』(石田幹之助/東洋文庫/平凡社)
名著と評判の本書の東洋文庫版は1967年初版だが、原本は1941年(真珠湾の年)の刊行、かなり昔の本だ。
冒頭が漢詩の引用で、格調高い古雅な文章が続く。未知の漢語や難しい漢字が頻出し、「これは大変だ、性根を入れて取り組む本だ」と感じて敬遠していた。その気がかりだった書を、ついにひもといた。
読み進めると思ったほど敷居が高くなく、比較的短時間で読了できた。初めのうちは漢和辞典や広辞苑を引いていたが、やがて面倒になり、多少の難解語は想像力でごまかし、強引に読み進めた。それでも面白く読めた。
本書は歴史エッセイ集(18編)で、唐の都・長安の社会や風俗を、主に漢詩を材料にして描写している。
巻頭の「長安の春」(十数ページ)に敷居の高さを感じたのだが、これは一編の詩のような作品で、その名調子に波長が合ってくると心地よく堪能できる。
他のエッセイは読みやすい散文である。漢詩の引用は読み下し(直訳)で、親切な解釈文はない。著者自身、直訳について「分かつたやうな分からないやうな厄介なものですが、そこが賦といふものの身上かも知れません。」と述べている。およその雰囲気をつかめれば、それでいいのだと思った。
ネット時代になり、有名な漢詩は作者・題名で検索するといろいろな訳文が出てくる。いくつかの引用漢詩はネット検索で訳文を参照しつつ、本書読み進めた。
私はソグド人(中央アジアのソグディアナを故地とするイラン系の人)に関心があるので、「「胡旋舞」考」「當瀘の胡姫」などを興味深く読んだ。長安で活躍するソグド人女性のダンサーやホステスの話である。
本書は全般的に、長安に流入している外来文化(特にイラン系)の様を描いていて、そこに魅力がある。華やかで艶やかな書だ。
私が昨年読んだ本のベスト3 ― 2021年01月25日
昨年初夏、「今年は、読んだ本の年間ベスト3を選定しよう」と思い立ち、心覚えに
前半6月までのベスト3を選定
し、そのまま失念していた。
本日(1月25日)になって思い出し、あわてて読書リストのエクセルを開き、後半のベスト3と年間ベスト3を選んでみた。こんな選定をするのは、年々増大する忘却力へのささやかな抵抗の試みだが、その試みを失念しそうになるのだから情けない。
2020年後半(9月から12月)に読んだ本のベスト3
『シルクロード世界史』(森安孝夫/講談社選書メチエ)
『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン/白石隆・他訳/書籍工房早山)
『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書)
2020年に読んだ本のベスト3
◎『ダンヌンツィオ 誘惑のファシスト』(ルーシ・ヒューズ=ハレット/白水社)
ダンヌンツィオの強烈な人物像に圧倒された。
◎『百年の孤独』(ガルシア・マルケス/堤直訳/新潮社)
画期的名作と呼ばれる理由がわかる。濃密な不思議世界。
◎『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書)
ヴェーバー像が一新された。まさに悲喜劇。
選定には迷った。一晩寝れば変わるかもしれないが、いまの頭で決めるしかない。
本日(1月25日)になって思い出し、あわてて読書リストのエクセルを開き、後半のベスト3と年間ベスト3を選んでみた。こんな選定をするのは、年々増大する忘却力へのささやかな抵抗の試みだが、その試みを失念しそうになるのだから情けない。
2020年後半(9月から12月)に読んだ本のベスト3
『シルクロード世界史』(森安孝夫/講談社選書メチエ)
『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン/白石隆・他訳/書籍工房早山)
『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書)
2020年に読んだ本のベスト3
◎『ダンヌンツィオ 誘惑のファシスト』(ルーシ・ヒューズ=ハレット/白水社)
ダンヌンツィオの強烈な人物像に圧倒された。
◎『百年の孤独』(ガルシア・マルケス/堤直訳/新潮社)
画期的名作と呼ばれる理由がわかる。濃密な不思議世界。
◎『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書)
ヴェーバー像が一新された。まさに悲喜劇。
選定には迷った。一晩寝れば変わるかもしれないが、いまの頭で決めるしかない。
『イスーラム帝国のジハード』は現代を考える書 ― 2021年01月24日
イスラーム史勉強のために読んだ『イスラーム世界の興隆(世界の歴史8)』の記憶が残っているうちに、次の概説書も読んだ。
『イスラーム帝国のジハード(興亡の世界史)』(小杉泰/講談社学術文庫)
似た題材の2冊目なので頭に入りやすい。用語の表記が前著と異なっているのは著者ごとの流儀だろう。(メッカ→マッカ、コーラン→クルアーン etc)
この文庫本の原本は2006年刊行で、著者の専門はイスラーム思想史だそうだ。本書は歴史の概説書であると同時に、イスラームの宗教・社会・国家の原理を考察・解説した書だった。
「はじめに」で、7~10世紀を扱っているとあったので、先に読んだ『イスラーム世界の興隆』より射程が短く、アッバース朝までの歴史概説と思った。それが大違いだった。
全10章の第7章あたりまでで、アッバース朝による広大なイスラーム帝国の成立までを描き、後半では趣が変わる。「イスラーム世界とは? ジハードとは?」という考察を軸に、その後約千年の歴史を概説し、記述は現代にまで及ぶ。数次の中東戦争、1979年のイラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻などを詳しく解説し、2001年の9.11同時多発テロとその後を分析している。実に射程が長い。
本書を読了すると、21世紀のイスラームの情況を解説・分析するために7世紀から現代にいたるイスラーム世界を思想的に検討した書に思えてくる。歴史概説書であると同時に、イスラーム論である。「ジハード」の多様な意味も詳しく解説している。
イスラームは国家と切り離すことが難しい宗教である。しかも、イスラーム法をベースに国家を超えたイスラーム社会が存在する。
20世紀半ば、イスラームは近代国家によって世俗化していくかに見えた。だが、それは間違いだった。21世紀は不透明な難題をかかえていると認識した。
『イスラーム帝国のジハード(興亡の世界史)』(小杉泰/講談社学術文庫)
似た題材の2冊目なので頭に入りやすい。用語の表記が前著と異なっているのは著者ごとの流儀だろう。(メッカ→マッカ、コーラン→クルアーン etc)
この文庫本の原本は2006年刊行で、著者の専門はイスラーム思想史だそうだ。本書は歴史の概説書であると同時に、イスラームの宗教・社会・国家の原理を考察・解説した書だった。
「はじめに」で、7~10世紀を扱っているとあったので、先に読んだ『イスラーム世界の興隆』より射程が短く、アッバース朝までの歴史概説と思った。それが大違いだった。
全10章の第7章あたりまでで、アッバース朝による広大なイスラーム帝国の成立までを描き、後半では趣が変わる。「イスラーム世界とは? ジハードとは?」という考察を軸に、その後約千年の歴史を概説し、記述は現代にまで及ぶ。数次の中東戦争、1979年のイラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻などを詳しく解説し、2001年の9.11同時多発テロとその後を分析している。実に射程が長い。
本書を読了すると、21世紀のイスラームの情況を解説・分析するために7世紀から現代にいたるイスラーム世界を思想的に検討した書に思えてくる。歴史概説書であると同時に、イスラーム論である。「ジハード」の多様な意味も詳しく解説している。
イスラームは国家と切り離すことが難しい宗教である。しかも、イスラーム法をベースに国家を超えたイスラーム社会が存在する。
20世紀半ば、イスラームは近代国家によって世俗化していくかに見えた。だが、それは間違いだった。21世紀は不透明な難題をかかえていると認識した。
『イスラーム世界の興隆』を読み、かつての東方文明優位を確認 ― 2021年01月22日
私の関心領域であるローマ史や中央アジア史の本を気ままに読んでいると、アラブ方面のイスラーム史の知識が自分に欠けていると痛感する。一通り読んだはずの高校世界史レベルの内容もあやふやである。頭の中でぼんやりしているイスラーム史の霞を多少は晴らそうと、次の本を読んだ。
『イスラーム世界の興隆(世界の歴史8)』(佐藤次高/中央公論社)
イスラーム教が成立した7世紀から、エジプトのマムルーク朝が消滅する16世紀までのイスラーム史の概説書である。メッカで誕生したイスラム教が紆余曲折を経ながら東へ西へと拡大していく物語は面白い。馴染みが薄くて覚えにくい固有名詞(人名やイスラーム用語)の頻出が悩ましいが、これは慣れて馴染んでいくしかない。
本書全般を通して随所に登場する人名がイブン・ハルドゥーンである。イスラム世界を代表する思想家・歴史家で、高校教科書でも重要人物として扱われている。私は今回やっとこの人物を認識できた。
ぼんやりとしか認識できてなかった色々な事柄が本書によって明確になり、勉強になった。そのいくつかを羅列すれば以下の通りである。
◎イスラーム教は砂漠の宗教ではなく商人たちの宗教である。
◎「コーランか剣か」はキリスト教世界のねつ造で、ムスリス軍は征服地の住民に改宗を強制していない。
◎8~9世紀のイスラーム社会では他地域に先駆けて高度な貨幣経済が発展した。
◎10世紀の世界の三大都市はコンスタンティノープル、バグダード、コルドバ。
◎アラブ人の知的好奇心は旺盛で、多くのギリシア語文献をアラブ語に翻訳し「知恵の宝庫」を作った。
本書が扱っている時代、西欧は後進国でイスラーム世界が文明国だった。イスラーム諸国にとって十字軍は蛮族の襲来であり、西欧人はイスラーム文明に触れることでギリシアの哲学や文学を知る。かつては、イスラームが先生で西欧が生徒だったのだ。
『イスラーム世界の興隆(世界の歴史8)』(佐藤次高/中央公論社)
イスラーム教が成立した7世紀から、エジプトのマムルーク朝が消滅する16世紀までのイスラーム史の概説書である。メッカで誕生したイスラム教が紆余曲折を経ながら東へ西へと拡大していく物語は面白い。馴染みが薄くて覚えにくい固有名詞(人名やイスラーム用語)の頻出が悩ましいが、これは慣れて馴染んでいくしかない。
本書全般を通して随所に登場する人名がイブン・ハルドゥーンである。イスラム世界を代表する思想家・歴史家で、高校教科書でも重要人物として扱われている。私は今回やっとこの人物を認識できた。
ぼんやりとしか認識できてなかった色々な事柄が本書によって明確になり、勉強になった。そのいくつかを羅列すれば以下の通りである。
◎イスラーム教は砂漠の宗教ではなく商人たちの宗教である。
◎「コーランか剣か」はキリスト教世界のねつ造で、ムスリス軍は征服地の住民に改宗を強制していない。
◎8~9世紀のイスラーム社会では他地域に先駆けて高度な貨幣経済が発展した。
◎10世紀の世界の三大都市はコンスタンティノープル、バグダード、コルドバ。
◎アラブ人の知的好奇心は旺盛で、多くのギリシア語文献をアラブ語に翻訳し「知恵の宝庫」を作った。
本書が扱っている時代、西欧は後進国でイスラーム世界が文明国だった。イスラーム諸国にとって十字軍は蛮族の襲来であり、西欧人はイスラーム文明に触れることでギリシアの哲学や文学を知る。かつては、イスラームが先生で西欧が生徒だったのだ。
現代の歴史家のギボン観で『衰亡史』の魅力を再認識 ― 2021年01月20日
大著『ローマ帝国衰亡史』の著者
ギボンの自伝
を読んだ流れで次の本を読んだ。
『ギボン:歴史を創る』(ロイ・ポーター/中野好之・他訳/叢書ウニベルシタス 法政大学出版会)
著者は1946年生まれの英国の歴史家で、原著の刊行は1988年だ。私は6年前に『衰亡史』(文庫本10巻)を何とか読了したものの咀嚼したという実感はなく、いつの日にか予備知識や資料を整えたうえで味読したいと夢見ている。でも、18世紀の史書が現在どう評価されているかが気になる。本書は、その気がかりに応えてくれた。
著者は、過去200年間のギボンに対する批判や悪罵を紹介・検討したうえで、終章を次のように締めくくっている。
「(…)後代のブリテンの歴史家は、誰一人として『衰亡史』に比肩する、古代から中世を経て近代に至る歴史の過程の記述を実現していない。誰一人として我らの「ローマ帝国に関する唯一無二の歴史家」としてのギボンを乗り越えた者はいないのである。」
洛陽の紙価を高め、著者の声望も高めた『衰亡史』は数多の批判にも晒されてきた。著者は時代背景などもふまえて、そんなギボンを弁護し、18世紀の文人の魅力を描出している。『衰亡史』は、さまざまな限界(西洋中心史観、文書史料中心など)を認識したうえで味読する価値がある歴史文学だと思えた。
著者が『衰亡史』に登場する正真正銘の悪党をアレクサンドリアのキュロス総司教としている炯眼に感心し同意した。女性学者ヒュパティア惨殺、ネストリウスの不当断罪、ユダヤ人迫害の元凶である。
本書で感激し、同時に少しガッカリしたのは彗星の話だ。私があの長大な著作の中で注目した次のセンテンスを著者も引用しているのに感激した。
「次回の2355年に予定される8回目の出現の折には、多分シベリアかアメリカの荒野の将来の首都の天文学者によってこの計測値が確認されるであろう。」
だが、私が気づいた、 ギボンの単純な計算間違いと現代天文学から見た誤認 について、著者が何も言及していないのが残念である。
『ギボン:歴史を創る』(ロイ・ポーター/中野好之・他訳/叢書ウニベルシタス 法政大学出版会)
著者は1946年生まれの英国の歴史家で、原著の刊行は1988年だ。私は6年前に『衰亡史』(文庫本10巻)を何とか読了したものの咀嚼したという実感はなく、いつの日にか予備知識や資料を整えたうえで味読したいと夢見ている。でも、18世紀の史書が現在どう評価されているかが気になる。本書は、その気がかりに応えてくれた。
著者は、過去200年間のギボンに対する批判や悪罵を紹介・検討したうえで、終章を次のように締めくくっている。
「(…)後代のブリテンの歴史家は、誰一人として『衰亡史』に比肩する、古代から中世を経て近代に至る歴史の過程の記述を実現していない。誰一人として我らの「ローマ帝国に関する唯一無二の歴史家」としてのギボンを乗り越えた者はいないのである。」
洛陽の紙価を高め、著者の声望も高めた『衰亡史』は数多の批判にも晒されてきた。著者は時代背景などもふまえて、そんなギボンを弁護し、18世紀の文人の魅力を描出している。『衰亡史』は、さまざまな限界(西洋中心史観、文書史料中心など)を認識したうえで味読する価値がある歴史文学だと思えた。
著者が『衰亡史』に登場する正真正銘の悪党をアレクサンドリアのキュロス総司教としている炯眼に感心し同意した。女性学者ヒュパティア惨殺、ネストリウスの不当断罪、ユダヤ人迫害の元凶である。
本書で感激し、同時に少しガッカリしたのは彗星の話だ。私があの長大な著作の中で注目した次のセンテンスを著者も引用しているのに感激した。
「次回の2355年に予定される8回目の出現の折には、多分シベリアかアメリカの荒野の将来の首都の天文学者によってこの計測値が確認されるであろう。」
だが、私が気づいた、 ギボンの単純な計算間違いと現代天文学から見た誤認 について、著者が何も言及していないのが残念である。
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