『野生の思考』に目を通した2024年10月17日

『野生の思考』(レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房)
 『野生の思考』(レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房)

 昨年末、来年こそはレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読もうと思った。ブリコラージュ(器用仕事。やっつけ仕事)というレヴィ=ストロースの用語に興味がわき、書架に眠っていた『野生の思考』の該当ページを拾い読みしたのが契機である。この本をいつ購入したかは憶えていないが、白い背表紙がいつも気がかりだったのだ。

 年が明け、いつの間にやら10月になった某日、ふと昨年末の気がかりを思い出し、突発的に『野生の思考』を読み始めた。かなりの難物である。途中で何度か投げ出そうと思いつつ、何とか読了した。でも、活字のうわっ面をつらをなでるように目を通しただけという気分である。「読んだ」とは言い難い。

 「訳者あとがき」は、本書を「戦後思想史最大の転換をひき起こした著作」とし、その反響を紹介したうえで次のように述べている。

 「このような(ジャーナリスティックな)見方だけで本書をとらえ、構造主義入門書のつもりで繙くとすれば、おそらく戸惑うことになるに違いない。(…)本書の読解には、その前提になっているレヴィ=ストロース自身の他の著作や、ヨーロッパやアメリカの学問、思想についての広い知識が必要なのである。」

 人類学や言語学の知識のない私が挑むのは無謀であり、難儀するのは当然であった。意味を読み取りにくい箇所は2~3回読み返してダメなら先に進む、という方針で読み進めた。だから空洞がいくつもある。読解できたわけではないので、印象に残った箇所を適当に羅列してみる。

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 「第1章 具体の科学」は比較的読みやすい。神話的思考という言葉が登場し「神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である」とし、ブリコラージュの一例として郵便配達夫シュバルの幻想建築を挙げている。10年前に読んだ『シュバルの理想宮』を思い出し、うれしくなった。

 器用人(ブリコール)に対してエンジニアが登場する。「技師が概念を用いて作業を行なうのに対して、器用人は記号を用いる」という表現にナルホドと思った。

 原著の刊行は1962年、コンピューター普及以前の時代である。第3世代コンピューター(IBM-360、UNVAC-1108)もまだ登場していない。そんな時代に、著者は次のように述べている。

 「知識が集積すればするほど、全体の図式は不明確となる。なぜならば、次元の数が多くなり座標軸の増加が一定の限度を越えると、直観的方法は麻痺してしまうからである。(…)しかしながら、いつか、オーストラリアの諸部族の社会についてのありとあらゆる資料をパンチカードにし、それらの技術・経済的、社会的、宗教的構造が全体として一つの大きな変換群に似ていることを電子計算機を用いて証明できる日を夢みることは許されよう。」

 「変換の体系」を論じた章では、性関係と食物関係の相似などを指摘したうえで「意味消失によって論理のレベルに達することができる」と述べている。

 「トーテミズムとは、弁別的特徴によって規定しうる自律的制度ではない。地球上のある特定の文明形式の特徴となる制度でもない。それは伝統的にはトーテミズムの正反対とされている社会制度〔カースト制〕のかげにも見つけ出すことができる「操作様式」である。」

 「本来の意味での下部構造の研究を発展させるのは、民勢統計学、工学、歴史地理学、民族誌の助けを借りて歴史学がやっていただきたい。下部構造そのものは私の主要な研究対象ではない。民族学はまず第一に心理の研究なのであるから。」

 「社会構造と分類範疇体系との間に弁証法的関係が存在することには疑問の余地がないけれども、後者が前者の効果ないし結果であるとするのは正しくない。それらはどちらも、めんどうな相互調整の作業を経た上で、両者共通の基層である人間と世界との関係の歴史的地域的なある様態を表示するものなのである。」

 「歴史はつねに何かのための歴史である。歴史は不偏公正たらんと努めてもなお偏向性をもつものであり、部分的であることは免れ得ない。」

 「可解性探究のゴールが歴史であるというのはとんでもない話で、歴史こそあらゆる 可解性探究の出発点である。」

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 本書には興味深く読める箇所と難解で読解できない箇所が混在している。その全体を通して、ブリコラージュなどに基づいた「野生の思考」の実態を提示しているのだと思う。それは、現代の科学技術のベースである「栽培思考」とはまったく別種の思考のようだ。本書に「構造」という言葉は出てくるが、それを解説しているわけではない。「構造主義」という用語は出てこない。私には「構造」とは何か、よくわからなかった。

 本書を全体的に把握することができていない私は、いつの日か、前提知識を仕入れたうえで再読できればと思う。だが、そんな日がくるかどうかわからない。