プルカレーテ演出の『守銭奴』はユニーク2022年11月26日

 東京芸術劇場プレイハウスでモリエールの『守銭奴』(演出:シルヴィウ・プルカレーテ、主演:佐々木蔵之介)を観た。

 モリエールの舞台を観るのは、たぶん初めてだ。17世紀の喜劇作家モリエールを知ったのは半世紀以上昔の高校時代、その頃、岩波文庫で何冊かの代表的戯曲を読んだ。しかし、舞台を観た記憶がない。2年前、『タルチェフ』(主演:仲代達矢)のチケット(2020年3月)をゲットし、ついにモリエールを観劇できると思ったが、残念なことにコロナで中止になった。

 今回の『守銭奴』はチラシが異様である。パンクなロック風で、「ザ・マネー・クレージー」というサブタイトルがある。とても古典喜劇とは思えない。演出はルーマニア人だ。オーソドックスな舞台ではないと覚悟して劇場に行った。

 だが、思った以上に普通で、少し安心(?)した。アルパゴン役の佐々木蔵之介はチラシのような金髪トサカ頭で登場するのではなく、いかにもアルパゴンらしいい禿頭で服装も古典っぽい。台本も原作通りである。

 と言っても、かなり不思議な舞台だ。舞台装置はリアリズムではなくシンプル、自在に変化する。登場人物の服装も古典と現代がミックスしている。アルパゴンの息子や娘の服装は現代的でオシャレな眼鏡をかけている。この娘は、登場シーンで何故かリコーダーを吹いていて、ラスト近くではそれがサックスになる。現代と17世紀の同居が、この芝居の普遍性を表しているようにも思える。

 最も驚いたのは、ラスト近くのバタバタと大団円に向かうシーンである。岩波文庫『守銭奴』の訳者・鈴木力衛は解説で次のように述べている。

 「『守銭奴』の幕切れはいかにも不自然で、取ってつけたような感じがするが、由来、モリエールという作家は重要な人物を十分に描写し終ると、勝手なところでさっさと幕を下ろしてしまう。」

 この取ってつけたような予定調和的な展開を、演出家は見事な「見せ場」にしている。突如として芝居のトーンを一変させ、歌舞伎の見得にも通じるシーンに盛り上げているのだ。「取ってつけた」を逆手にとった演出に感心した。

二人芝居『建築家とアッシリア皇帝』は濃厚で熱い2022年11月28日

 世田谷パブリックシアターのシアタートラムで『建築家とアッシリア皇帝』(作:フェルナンド・アアラバール、演出:生田みゆき、出演:岡本健一、成河)を観た。山崎努の『私の履歴書』でこの芝居に関心を抱いた経緯は先日のブログに書いた。今回の公演のパンフレットには山崎努の『私の履歴書』を抜粋転載していた。稽古場を訪れた“初代アッシリア皇帝”山崎努の写真も載っている。

 15分の休憩をはさんで2時間50分の二人芝居、熱量の高い激しい舞台である。原始人(建築家)が一人で住む孤島に飛行機が墜落、ただ一人の生き残りの文明人(アッシリア皇帝)と原始人との二人が繰り広げる「芝居ゴッコ」の芝居である。休憩時間も舞台上では「芝居ゴッコ」が継続していた。

 この芝居は不条理演劇の一つと言われているそうだ。ベケットや別役実の世界とはかなり異なり、マルケスのマジックリアリズムの世界に通じるものも感じた。濃厚な舞台である。

 事前に戯曲を読んでいたが、今回の上演は私が読んだ翻訳とは別の訳者で、上演台本は当世風にアレンジしている。戯曲だけではイメージしにくい気違いじみた不条理な展開も、役者の肉体を通すと親しみやすい光景になり、不思議世界が眼前に浮かび上がってくる。役者の肉体でしか表現できない、戯曲だけでは把み難い世界である。

 それにしても、実に多様なものを「芝居ゴッコ」芝居に詰め込んだものだと思う。人類史と個人史の深層意識を脈絡を無視して盛り込んだ感じだ。世界とは「芝居ゴッコ」の二人芝居で成り立っている――そんな妄想がわいてくる。

 この孤島舞台の二人芝居、チラシのようなスーツ姿で演じるわけではない。Webページに舞台写真が公開されている。

〔蛇足〕この芝居の開演のとき、客席が薄暗くなり舞台が明るくなり、ふたたび客席が明るくなった。変わった趣向だなと思っていると、舞台そでに人が出てきて「ただいま瞬間的な停電がありました。点検後に開演します」と言った。それも芝居かなと思ったが、本当にトラブルだった。開演は15分遅れた。

『虐殺器官』は惜しい「議論SF」2022年11月30日

『虐殺器官』(伊藤計劃/ハヤカワ文庫)
 いずれ読もうと積んでいた気がかりなSFを、やっと読んだ。

 『虐殺器官』(伊藤計劃/ハヤカワ文庫)

 この文庫本を購入したのは7年前だ。それ以前から夭折した伊藤計劃の『虐殺器官』が傑作だとの評判は聞いていた。2006年の小松左京賞最終候補になったが受賞に至らず、大幅に加筆訂正して2007年に刊行、高い評価を受けた。その2年後、作者は癌で亡くなった。享年34歳。

 ハードボイルドなサイバーパンクと思っていたが、私の想定とはやや趣の異なる議論小説だった。その議論に魅力があれば大傑作になったかもしれないが、私にはやや浅薄に感じられた。より深い思弁SFの可能性を秘めているので、惜しいと感じた。

 2011年の同時多発テロ後の世界を描いた近未来SFである。一人称小説で主人公は米国の特殊部隊の大尉、小説の舞台は中欧アジア、中欧、アフリカなどで日本人は登場しない。サラエボに核爆弾が投下されたのを機に「核を使える時代」になっている。米国人視点の展開に違和感があったがラストで納得した。

 この小説の魅力はディティールにある。近未来の異形な軍事システムや監視システムの描写が秀逸だ。2007年時点での近未来は私が今生きている2022年頃かもしれないが、異世界と現代(私の)が二重写しになり、不思議な気分になる。

 軍事SF的ディティールだけでなく、カフカ、ナボコフ、バラードなどの文学的小道具も魅力的だ。「啓蒙はヨーロッパの特産物ですからね。」などの科白に才を感じた。

 ディティールが素晴らしく、物語の骨格も面白いが、それを支える思弁がイマイチ説得力がない。この作品が小松左京賞(小松左京が選考する賞)を逃したとき、当時75歳だった小松左京は選評で次のように述べている。

 「肝心の「虐殺の言語」とは何なのかについてもっと触れて欲しかったし、虐殺行為を引き起こしたいる男の動機や主人公のラストの行動などにおいて説得力、テーマ性に欠けていた」

 私が読んだのは加筆訂正バージョンになるが、小松左京の評に同感できる。70代の私が若い作家の作品に説得力を感じることができないのは、世代間ギャップだろうか。