57年前の文庫本『蒼き狼』を再読していて虫の死骸に遭遇2021年12月31日

『蒼き狼』(井上靖/新潮文庫/1964.6)、挟まっていた虫
  堺屋太一のチンギス・ハン伝を読み終え、井上靖の『蒼き狼』を読み返そうと思った。成吉思汗の生涯を描いた高名なこの小説を、私は半世紀以上昔に読んでいる。その内容はほとんど失念しているので、どんな話だったか確認したくなったのである。書架の奥に往時の文庫本がまだ残っていた。

 『蒼き狼』(井上靖/新潮文庫/1964.6)

 本書の巻末に汚い字のメモがあり、読んだ時期が判明した。57年前(1964年)、高校1年の夏休みである。昔の小さい活字に耐えて再読していると、黄ばんだ頁に挟まった虫(蚊?)の死骸に遭遇した。半世紀以上昔に生きていた虫だと思うと感慨深い。

 この小説は坦々とした記述で進行し、ケレン味がない。馴染みのうすいカタカナの人名・部族名・地名が頻出するが、現在の私には多少のモンゴル史の知識があるので興味深く読了できた。無知な高校1年生には少々厄介で退屈な小説だったかもしれない。

 草原の幕舎での成吉思汗出生のシーンに始まり、老いた成吉思汗が戦地の幕舎で息を引き取るシーンで終わる物語である。シーンの背景には、漆黒の夜空に散りばめられた無数の星や、ごうごうと森を揺らす風があり、かなりロマンチックである。ケレンはなくても、終章はやや芝居がかっているように思えた。

 頁に挟まれて化石のようになった虫に例えては失礼だが、この小説を読んでいて所々に化石に近い古さを感じた。特に女性の描き方が気になる。現代のフェミニストから糾弾されそうな表現もある。私は遊牧民の女性は強いというイメージをもっているが、登場する女性の多くはあまり強くない。

 この小説の肝は、成吉思汗と長男ジョチが二代にわたって「自分は本当に父の子か?」という内心の疑念に悩み、それが征服行動の原動力になったという点である。部族間での女性略奪が普通の時代ゆえの状況で、面白い見方だとは思う。

 小説を読み終えてしばらくして、ふと思い出した。遠い昔に『蒼き狼』を巡って「歴史小説論争」なるものがあったと聞いた記憶がある。学生時代、「論争」には関心があったが「歴史小説」に興味がなかったので、「歴史小説論争」の内容はまったく知らない。ネット検索するといくつか資料が出てきた。論争の発端になった「『蒼き狼』は歴史小説か」(大岡昇平)という文章と、それへの反論「自作『蒼き狼』について」(井上靖)という文章も読むことができた。

 大岡昇平の口調はキツいが、いまひとつピンとこない論争である。「歴史小説とは何か」という論点は、私にはどうでもいい話に思える。この小説に関する大岡昇平の批判と井上靖の反論のどちらにも納得できる部分がある。大岡昇平の歴史小説観はリゴリズムに思えるが、『蒼き狼』への違和感には共感できる部分もある。次のような指摘が面白い。

 「モンゴルの男は狼だが、女は鹿だという幻想は、井上氏の主人公に奇妙な女性蔑視の観念を持たせる。(…)女性不信は井上氏の他の小説にもよく繰り返されるモチーフがが、成吉思汗に適用してまったく根拠がない。」

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