ケムリ研究室の『砂の女』には「溜水装置」がない2021年09月03日

 三軒茶屋のシアタートラムでケムリ研究室『砂の女』(原作:安部公房、上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、出演:緒川たまき、仲村トオル、他)を観た。

 劇作家としても活躍した安部公房は、自身の小説『砂の女』の映画シナリオやラジオドラマ・シナリオは手がけているが戯曲化はしていない。にもかかわらず、今年7月に うずめ劇場『砂女』(原作は『砂の女』)が上演され、時をおかずにケムリ研究所の新たな舞台を観劇した。没後28年の2021年になって安部公房の代表作『砂の女』の舞台化が相次いだのは、何か意味があるのだろうか。よくわからない。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)は1963年生まれの日本の演劇人・ミュージシャンで、昨年、妻の緒川たまきと演劇ユニット「ケムリ研究室」を開始した。

 15分休憩をはさんで2時間50分、原作を忠実になぞりつつも、ユニークな仕掛けを随所に盛り込んだ芝居である。緊張感とユーモアで観客を惹きつける舞台を堪能した。

 砂の穴の中の家を中心に垂直方向に拡がる舞台装置に感心した。穴の外の村人たちはかなり高い位置で演ずる。この垂直舞台の効果を高めているのが音楽と美術だ。音楽は上野洋子による生演奏(ボーカルも含む)で、下手の高い所から、あたかも天上から降臨するかのような音声が舞台に降りそそぐ。そして、この作品の真の主役とも言える砂の流動は、垂直舞台を覆う布への壮大なプロジェクションマッピングで表現される。

 この芝居は原作以上に滑稽な作りだ。失踪された側の妻・教頭・巡査らの不条理コントが非・安部公房的で面白く、芝居の本筋である男と女の応答が原作とは微妙に違っていて面白い。原作は男のシリアスで内省的分析的心理が印象的で、女は受け身だった。舞台では女の応答の微妙な滑稽さが面白い。それに対応して逆上する男に間抜けさを感じる。女が男を翻弄しているように見えて、ある意味では愉快である。

 と言っても、この芝居が原作を逸脱しているとは思わない。表現している情況は同じである。

 この芝居が原作と大きく異なるのは「毛管現象による溜水装置」の扱いである。私が原作で一番印象に残っているのはラスト近くで男が「溜水装置」を発明する場面であり、この場面があるからこそラストの「失踪宣告」に衝撃的効果があると感じていた。「溜水装置」は『砂の女』の最重要キーだと思っていた。だが、この芝居では「溜水装置」をカットしている。これには驚いた。

 この芝居の流れでは、確かに「溜水装置」は不要で、そんなものを出さなくてもスムーズに幕を下ろすことができる。だまされたような不思議な気分である。

 『砂の女』が傑作とされているのは暗喩の重層的深さにある。絶え間なき砂かき作業が日常そのものだとしても、日常をどうとらえるかで読み方は変わる。穴の中と外の違いをどう認識できるのか? 自由とは? 生活とは? 甘さとは? 苦さとは? などなどの考えは時とともに移ろう。「溜水装置」の要不要は60年前の読みと現代の読みの違いかもしれない。この60年間の人の意識変容を反映しているのだと思う。