ピンターの『誰もいない国』の「わからなさ」の面白さ2018年11月17日

 新国立劇場小劇場でハロルド・ピンターの『誰もいない国』(演出:寺十吾/出演:柄本明、石倉三郎、他)を観た。ピンターの芝居は初体験である。半世紀前の学生時代に友人からピンターの『ダム・ウェイター』がスゴイと聞いた記憶があるが、どうスゴイのかはわからなかった。

 その後、ピンターの芝居を観ることも戯曲を読むこともなかった。2005年にノーベル文学賞を受賞したピンターはすでに物故者だ。私に『ダム・ウェイター』がスゴイと言った友人も数年前に亡くなった。

 『誰もいない国』は事前に戯曲を読まずに観劇した。戯曲の入手が難しかったからである。ウワサに違わず、わけのわからない芝居だった。事前に戯曲を読んでいたとしても、この「わからなさ」は同じだろう。

 4人の登場人物のカミあっているのかカミあってないのか曖昧な会話で不思議な状況が進行する。わからないなりにユーモラスな会話や状況が随所に折り込まれていて笑える場面は多い。柄本明と石倉三郎がウィスキー、ウォッカ、シャンパンなどをやたらに飲むので、酔いが伝染して当方の頭もぼんやりしてきそうになる。

 食堂と寝室の間に大きな水たまりがあり、ジャブジャブと足を濡らしながら行き来しなければならないのは、夢の中のシーンのようだ。唐突に上方から幾筋かの水が落ちて来たりもする。会話に登場する「誰もいない国(NO MAN'S LAND)」という言葉には魅力的なひびきがある。 

 こういう芝居を観ていると、芝居にとって「わかる」ということはさほど重要でないかもしれないという気分になる。役者だって科白の内容や意味を十全にわかってしゃべっているわけはない。全身で演じてひとつの世界を現出させようとしているのだと思う。その世界を体験したと観客が思い込むことができれば、それでいい。