榎本武揚を魅力的に描いた『武揚伝』の陰の主人公は勝海舟2018年11月11日

『武揚伝 決定版(上)(中)(下)』(佐々木譲/中公文庫)
 私は幕末維新の人物では榎本武揚に好感を抱いている。「蝦夷共和国」という夢のある大きな構想を実現させようとした国際法に明るい軍人政治家である。合理的思考ができる理系人間で、幅広い知識を習得した有能な技術者でもある。そんな人物が魅力的なのは当然だと思う。

 と言っても榎本武揚に関する断片的な知識があるだけで、半世紀昔の学生時代に安部公房の『榎本武揚』を読んだ以外まとまったものを読んだ記憶はない。いずれ、いろいろ読もうと思いつつ月日が経った。そして、70歳を目前にして次の歴史小説を読んだ。

 『武揚伝 決定版(上)(中)(下)』(佐々木譲/中公文庫)

 全3冊だが長さを感じさせない面白さがあり、一気に読める。フィクションを織り込んだ小説だから主人公を魅力的に描いているのは当然だが、科学技術志向の聡明な軍人が人望あるリーダーへと成長していく物語になっているのがいい。

 この小説のタイトルに「決定版」とあるのは、2001年に刊行した小説を2015年に改稿しているからである。著者の「あとがき」には「この十数年のあいだに榎本武揚研究が進み、新史料もさまざま出てきた。(…)新史料、新しい研究成果を付加して書き直した」とある。フィクションとは言え、史実の大筋を反映していると思われる。

 この小説で面白いのは勝海舟を悪役に仕立ててるところだ。オランダ語ができるだけで軍事の実学ができない艦長失格の口舌の徒、自分を売り込むことに長けた薩摩・幕府の二股膏薬の政治屋と描いている。

 ただし、江戸開城後の薩摩軍の狼藉に挫折を感じる勝海舟も描いていて、その勝海舟を「世の先行きを見通すことのできる知性と、激情に流されぬだけの分別と、大きな戦略を描くことのできる想像力の光を有していた」と評価する箇所もある。

 そして、「蝦夷共和国」を立ち上げた榎本武揚に対して勝海舟は「そんな自治州ができた暁には、新しい世はずたずたになる。たえず政変と内乱の火種を抱えることになる」と嫉妬に近い強烈な反発を吐露する。幕末維新の大立者、ホラ吹きの勝つぁんが武揚の引き立て役になっているのだ。この小説の陰の主人公は勝海舟のように思えてくる。

 榎本武揚が箱館戦争で敗退するのは34歳の時である。その後、彼は明治政府の有能な高官として活躍して73歳で没する。しかし「武揚伝」と題するこの小説は、箱館戦争後の半生は1頁半の概説で終わっている。後半生にドラマは乏しいかもしれないが、後半生の葛藤にも踏み込んでほしかった。