アーサー・ミラーの『セールスマンの死』で今の米国を連想2018年11月15日

 神奈川芸術劇場で『セールスマンの死』(演出:長塚圭史/出演:風間杜夫、片平なぎさ、他)を観た。アーサー・ミラーの高名なこの戯曲を知ったのは高校生の頃だと思う。戯曲は読んだが、舞台を観るのは初めてである。

 約3時間の舞台は緊張感が持続する観劇時間だった。やはり名作だと思う。テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』や『欲望という名の電車』と似たテイストのやるせない世界を提示している。第二次世界大戦の直後、戦勝国アメリカでこんなに暗い名作劇が続いて生まれたことに不思議を感じる。

 『セールスマンの死』はタイトルだけで、疲れ果てたセールスマンが追い詰められて死ぬ話だろうと推測でき、実際の内容もその推測から大きく離れているわけではない。ネタバレのようなタイトルなのに観客を引き込むことができるのは、単純な推測を超えた秀逸な仕掛けが組み込まれているからである。

 この芝居は肥大した自己幻想がもたらす悲劇を描いている。半世紀以上昔のアメリカの大都市に住む家族というレトロな世界の物語だが、テーマは普遍的である。アメリカン・ドリームという概念が今も持続しているかどうかは知らないが、それに似た憧れと希望は形は変わってもいつの時代にもあるように思える。

 大多数の人々にとってアメリカン・ドリームは見果てぬ夢であり、夢見る自身との折り合いのつけ方が人生の課題になる。

 この舞台を観ていて、主人公の老セールスマンがトランプ大統領を支持するラストベルト地帯の白人労働者の姿と重なって見える気がした。と言って、何等かの解決策や出口が見えたわけではない。