反薩長の見方を整理したいのだが…2015年07月27日

『明治維新という過ち〔改訂増補版〕:日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(原田伊織/毎日ワンズ)、 『もう一つの「幕末史」』(半藤一利/三笠書房)、『逆説明治維新 書き換えられた近代史』(榊原英資/日本文芸社)
◎斎藤美奈子の書評にいざなわれて

 『明治維新という過ち〔改訂増補版〕:日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(原田伊織/毎日ワンズ)

 斎藤美奈子が『週刊朝日 2015.7.3号』の書評で「この種の歴史読み物としては、ありえないほど売れている本である」と紹介していた本である。かねがね、斎藤美奈子の書評には注目していたし、反薩長視点の幕末・維新モノにも関心があったので、入手して読んでみた。

 本書の著者紹介によれば、著者は昭和21年生まれの作家・クリエイティブデイレクターだ。私より2歳年長だが、ほぼ同世代だ。鞍馬天狗が朝焼けの空を指差して「桂さん、日本の夜明けは近い」と宣言する幕末イメージを共有しているし、似たような歴史教育を受けてきた筈だ。

 著者と同じように、私も幕末・維新は現代に地続きの近い過去だと感じている。祖父の祖父たちが生きた歴史変動の時代であり、周辺の人々の記憶を何段階か遡れば辿り着けそうな身近な時代だと思える。

 その幕末・維新に関して私たちが教えられてきたことの多くは、勝者である薩長によって都合よく脚色された歴史だとも思っている。歴史の実相を知るのは容易ではないとわかっているが、反薩長史観には興味がある。

◎武士道精神を称揚する本だった

 『明治維新という過ち』は確かに反薩長の見方の歴史書であり、そこで述べられている歴史的事実はほぼ納得できるものばかりで、明治の元勲たちの多くを元テロリストと見なすのも同感できる。本書はトンデモ本でも陰謀論本でもない。

 しかし、私が予感したような展開の本ではなかった。明治維新の内実を批判する著者は、江戸システムのベースであった武家精神をよりどころにして「近代化」という考えや進歩史観を否定している。

 私たちの世代の精神の中に近代合理主義批判や進歩的文化人批判の要素があるのは確かだが、そのベースには消し去り難い近代主義があり、自分を「近代人」と見なすしかないと私は思っている。だから、『明治維新という過ち』の著者の精神に多少のアナクロニズムを感じざるを得ない。

◎それぞれの反薩長本

 で、最近読んだ反薩長的な次の2冊と本書を比較検討してみた。

 『もう一つの「幕末史」』(半藤一利/三笠書房)
 『逆説明治維新 書き換えられた近代史』(榊原英資/日本文芸社)

 半藤一利氏は昭和史にも詳しい元編集者、榊原英資氏はミスター円と呼ばれた元大蔵官僚で、原田伊織氏を含めて三人とも歴史学者ではない。歴史をきちんと勉強するには学者の本を読むべきだとは思うが、やはり、読みやすいモノに手がのびてしまう。

 半藤一利氏には『幕末史』という語り下ろしの著作もあり、4年前に当ブログでも読後感を書いた。『もう一つの「幕末史」』はいくつかの雑誌に発表した記事をまとめたもので、反薩長史観を展開した『幕末史』を補完するものだ。

 榊原英資氏の『逆説明治維新 書き換えられた近代史』は書名が長いうえに、さらに「誰がいまの日本をつくったのか」というサブタイトルも付いている。で、そのサブタイトルへの回答を簡単にまとめると「徳川幕府は優秀な幕臣官僚に支えられていて、薩長がトップを占めた新政府も多くの旧幕臣を官僚として登用せざるを得なかった。いまの日本を作ったのは江戸時代の幕臣たちをルーツとする優秀な官僚たちである」ということになる。さすが、元大蔵官僚らしい見解だ。

◎反薩長とは

 原田伊織氏、半藤一利氏、榊原英資氏の著作には見解が異なる点もあるが、いずれも反薩長の視点で幕末・維新を論じているので、共通している見方も多い。

 戊申戦争の勝者となった薩長は、自分たちの支配体制が正当であることを示すように記述した歴史を世に広めた。私たちが子供の頃に教えられてきた幕末・維新の歴史は、徳川幕府を倒して発足した明治政府は封建制を廃して日本の近代化を推進したという物語になっている。

 反薩長的な見方では、上記のような単純な物語の中には多くの虚偽と粉飾があると見る。反薩長の見方をきちんと整理したいと考えているのだが、これが意外と難しい。さまざまな歴史的事象が錯綜していて、単純に解きほぐすのがやっかいなのだ。大雑把にまとめるなら次のようになる。

 ・幕末における対外政策において合理的判断ができていたのは徳川幕府であり、先が見えていなかったのが薩長である。
 
 ・薩長が掲げた尊王という理念は方便であり、むしろ徳川慶喜や松平容保の方が真の尊王派だった
 
 ・大政奉還から戊辰戦争にいたる過程はクーデター、権力闘争に過ぎず、政治理念や国家ビジョンを巡る争いではなかった。錦の御旗は偽造であり「官軍」「賊軍」という区分けはフィクションである。

 ・江戸時代が前近代で明治が近代と見なすのは、明治新政府の見方にすぎない。「明治維新」という概念は後付けのフィクションに近い。

 反薩長の立場から幕末の変動を見るなら、それは理不尽な熱狂である。半藤一利氏はそこから「熱狂的になってはロクなことにならない」という教訓を導き出し、榊原英資氏は「大衆的エネルギーと政策の正当性とは必ずしも整合的なものでない」という歴史上の多くの「革命」と似た状況を見出している。原田伊織氏はその熱狂を担った薩長の若者たちをテロリスト、チンピラ、若造と切り捨てている。

◎見解の相違点

 半藤一利氏、榊原英資氏と原田伊織氏で大きく評価が異なるのは勝海舟だ。

 半藤氏は「わが勝つぁん」と呼ぶほどの勝ファンで、幕末において幕府や藩を超えた国家像をもっていた唯一の人物として、勝海舟を高く評価している。

 榊原英資氏も江戸無血開城に尽力した勝海舟を「日本の植民地化を阻止し、国力低下を防いだ人物」と評価している。

 それに対して原田伊織氏は、俄か御家人の勝海舟はそもそも武家ではなく、薩長に幕府を売った張本人であると、その精神と行動を批判している。そういう見解もあると読むしかない。そもそも原田氏は本書において、薩長以外にもさまざまな人や組織を批判対象にしている。徳川慶喜、水戸光圀、全共闘、民青、民主党政権、東京電力などである。武士道の精神からは許せない対象のようだ。

 勝海舟の評価との裏返しで福沢諭吉の評価が異なるのも面白い。『痩我慢の説』で勝海舟や榎本武揚を批判した福沢諭吉について、榊原英資氏は「新政府に重用されなかったのでひがんでいるだけの小人物」と評し、半藤一利氏は「勝と福沢はお互いに虫の好かないやつと思っていたのでしょう」と述べている。

 福沢諭吉に武士道精神がどの程度あったか私は知らないが、原田伊織氏は西南戦争における福沢諭吉の論評を「武士福沢諭吉の怒り」と評し「『抵抗の精神』を常に重視した人物」と持ち上げている。

 つくづく人の評価はさまざまだなあと思う。同時代に生きている人物の評価が多様なのは当然としても、棺を蓋ったからと言ってその人物の評価が定まるわけでもない。田中角栄をどう評価するかは、いまでも人それぞれだ。幕末に生きた人々の行動や事象が判明したとしても、それをどう評価するかは多様だ。「後世が評価する、歴史が判断する」というのも楽観的すぎる。

 結局は、多くの情報や見解を知ったうえで自分自身の考えを探るしかない。そう思うと、その見解に違和感を覚えた原田伊織氏にも多少の共感がわいてくる。

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