『第三帝国の興亡』は面白い同時代ノンフィクション2015年06月25日

『第三帝国の興亡』(W.L.シャイラー/井上勇訳/東京創元社)
◎『第三帝国の興亡』を半世紀かけて読了

 『第三帝国の興亡』(W.L.シャイラー/井上勇訳/東京創元新社)を読了した。全5巻と長大だが、ジャーナリストが書いた歴史書で、小説のような面白さもある。長さを感じさせない読みやすい本である。しかし、実は私は最初に本書を読み始めてから読了までに約半世紀もかけてしまった。

 ヒトラーの時代にベルリンに駐在していた米国人ジャーナリスト、W.L.シャイラーの『THE RISE AND FALL OF THE THIRD REICH(本書)』が出版されたのは戦後15年目の1960年、その翌年には日本語版が出た。私が本書を購入したのは1963年、中学3年の時だ。

 全5巻の大部な本を買ってしまった中学生は、とりあえあず第1巻から読み始めたのだが、その長大さにくじけた。最初の方(主にヒトラーの伝記的部分)を読んだあと、最終巻の最終章(ヒトラーの最後の日々)を読んだだけで、その他の大部分は未読のままだった。そのうち時間ができたら全部読もうと思いつつ50年以上の年月が経過し、紅顔の中学生は髪の薄い高齢者となり、やっと全巻読了した。長年忘れていた宿題を終えた気分だ。この年になって、やっと時間ができたと言えなくもないが…。

◎シャイラーのプロフィールを知って…

 今回、本書を読もうと思い立った直接のきっかけは、数カ月前に読んだ『ヒトラーランド』(アンドリュー・ナゴルスキ/北村京子訳/作品社)である。ヒトラーの時代にドイツに駐在していた米国人たちの見聞をまとめた『ヒトラーランド』には、後に『第三帝国の興亡』を執筆するシャイラーが頻繁に登場する。この本でシャイラーのプロフィールを知った。その概要は以下の通りだ。

 大学卒業後シカゴ・トリビューンのパリ支局で働いていたシャイラーは、景気悪化で失業、その後1934年(ヒトラー首相就任の翌年)に、ハースト社のユニバーサル・ニューズ・サービスの特派員になり、妻(オーストリア人)とともにベルリンに赴任する。このとき、シャイラーは30歳。3年後、通信社の経費削減によってふたたび失業するが、CBSの特派員に採用されウィーンやベルリンでラジオ放送のニュース・キャスターとして活躍、ドイツのオーストリア併合やポーランド侵攻などを現地から報道する。1940年12月にベルリンを離れて帰国、ナチス・ドイツの危険性を米国民に訴えるため、大急ぎでベルリン時代の記録を本にまとめた。その『ベルリン日記 1934-1940』が出版されたのは帰国半年後の1941年6月、独ソ戦開始の時だった。

 『第三帝国の興亡』の著者がジャーナリストだとは承知していたが、その詳細は『ヒトラーランド』ではじめて知った。シャイラーは、かなり初期からヒトラーの本質を見抜いていた数少ない観察者の一人だったようだ。

 オーストリアやチェコの一部を併合した頃、ヒトラーは自分は平和を希求しているのだと主張し、その言葉を信じている人も多かった(イギリス首相のチェンバリンもその一人だ)。その時代から、シャイラーはヒトラーの言葉を信じず、ヒトラーに惑わされている人々に対して苛立っていた。シャイラーは日記に「ヒトラーはただ平和、平和と適当に繰り返しているだけだ。〔…〕平和だと? 同胞たちよ、『わが闘争』を読んでみろ」と綴っている。

 『わが闘争』を単なるプロパガンダと見なす人もいたようだが、この本をきちんと読んでいたシャイラーには、ヒトラーの行動のひとつひとつが、『わが闘争』で語りつくされている極端で奇矯な主張を着実に実施に移しているだけだと見えていたようだ。そんなことを知って、未読になっていた『第三帝国の興亡』に手が伸びたのだ。

◎同時代ノンフィクション

 あらためて『第三帝国の興亡』を読み進めながら、これは歴史書というよりは同時代ノンフィクションだと感じた。人々が自分自身の体験や新聞・ラジオなどの報道によって把握している同時代の出来事を、その後あきらかになった各種資料によって再構成したドキュメンタリーであり、「あの出来事の裏側には実はこんなことがあったのだ」という暴露的面白さがある。

 本書で扱っている出来事とは「ナチス・ドイツの興隆と滅亡」であり、言い換えれば「第二次世界大戦」である。それが20世紀最大の出来事なのは間違いない。この超弩級の出来事を歴史書ではなくノンフィクションにまとめられる境遇にいたシャイラーは幸運な人だ。

 本書を歴史書でなくノンフィクションと感じるのは、扱っている時代の短さと近さによる。

 第三帝国の歴史を1933年(ナチス政権誕生)から1945年(ドイツ降伏)までとすれば、それは12年間である。ローマ帝国の千年に比ぶるべくもないが、その大帝国を継承したつもりの神聖ローマ帝国(第一帝国)はまがりなりにも850年ぐらい続いたし、ビスマルクが統一したドイツ帝国(第二帝国)も47年ほど持続した。それに比べて12年はあまりに短い。

 12年という時間は一人の人間が容易に記憶できる長さだ。人生を60年以上やっているとつくづく感じるが、12年なんてアッという間である。第三帝国を記憶している人々にとっては、それを「歴史」として把握するのは難しく、様々な事件の集成としてしか捉えることができないように思える。

 『第三帝国の興亡』は、第三帝国滅亡から15年後に出版されているので、15年前までの出来事を書いた本である。この15年という時間も過去を歴史として捉えるには短すぎるように思える。しかし、記憶を検証するには適当な時間だ。

 本書が興味深いノンフィクションになっているのは、現場を踏んだ同時代人シャイラーの目撃談や感想が随所に盛り込まれているからだ。しかし、シャイラー自身が「まえがき」で述べているように、ベルリン駐在という個人的体験が本書執筆の動機ではない。ナチス・ドイツ崩壊後、政府機密文書や高官の日記など広範で膨大な文書が押収され、異例の早さで「宝の山」が目の前にあらわれたのが本書執筆の最大の動機だそうだ。

 また、第三帝国の中枢にいて生き残った人々もその時代には多くいて、インタビューも可能であり、陸軍参謀総長だったハルダー将軍などはシャイラーの執筆に全面的に協力している。

 自分が三十代に目撃・体験したた歴史の動きを、後に入手した膨大な資料で検証し再構築する作業は、迷路を探検しながら謎解きをしていくような心ときめく仕事だっただろうと想像できる。うらやましい限りだ。

 本書が同時代ノンフィクションであるということは、親切な歴史解説の本ではないということでもある。同時代人の常識を前提にした記述も多い。本書をナチス・ドイツに関する入門書と位置づけることもできるが、後世の若い読者のためには補足解説があった方がいいと感じた。

◎ヒトラーは一枚上手の役者

 さまざまな出来事が書かれている『第三帝国の興亡』のメインストーリーは「国防軍 vs ヒトラー」の攻防の物語である。レーム事件(1934年)からロンメル将軍の自決(1944年)までの10年間、国防軍の将軍たちとヒトラーの関係は良好だったわけではない。本書によって、かなり早い時期(ミュンヘン協定以前)から軍人を中心にした反ヒトラーの策動(ヒトラーの逮捕または暗殺によるクーデター)があったことを知った。

 これらの策動の話は、それに加担していた人々がナチス・ドイツ崩壊後に明らかにした証言や日記に基づているので、シャイラーも指摘しているように割り引いて評価するべき部分もある。トム・クルーズ主演の映画『ワルキューレ』にもなったシュタウフェンベルク大佐によるクーデター計画のように紙一重で失敗した惜しい例もあったが、さまざまの策動のすべてが失敗し、ついに国防軍はヒトラーを排除することができなかった。

 長年にわたる反ヒトラーのクーデター計画が最後まで成功しなかったのは、結局のところ反ヒトラーの将軍たちとヒトラーとでは役者が違ったのだと思えてくる。反ヒトラー派が常に腰くだけになるのに対して、一枚上手の役者ヒトラーは常にぶれることがなく幸運までも呼び込んでしまう。本書はヒトラーを辛辣に批判するトーンで貫かれているが、それでも、ヒトラーの屹立した役者ぶりが伝わってくる。

 特に総統官邸地下壕での最後の日々の記録を読んでいると、舞台芝居を観ている気分になり、ヒトラーはヒトラーを演じ続け、演じきって生涯を終えた役者のようにも見えてくる。ぶれない人が周辺を不幸にしていくドラマの典型である。

◎シャイラーのドイツ人批判

 シャイラーはヒトラーに対して辛辣なだけでなく、ヒトラーを生み出したドイツ人に対してもかなり厳しい見方をしている。第三帝国の歴史的根源や知的根源の形成にはドイツ人であるルター、ヘーゲル、ニーチェなどの思想が大きく関与しているとも指摘している。そう言えなくはないだろうが、牽強付会に思える。これらの大思想家はドイツを超えてもっと広範な世界に影響をもたらしているはずだ。

 ムッソリーニに率いられたイタリアのファシズムがドイツほどに徹底しなかったことを述べた箇所には次のような記述もある。

 「(イタリアの)国民は、ドイツ人とちがって、そのようなまちがった野望にひきつけられるには、文明化しすぎ、世間を知りすぎ、地に足がつきすぎていた」

 また、ヒトラーに服従した軍人たちの姿勢を嘆く箇所では「時の支配者に盲目的に服従することをもってドイツ人の最高の美徳とし、奴隷根性にプレミアムをつけたドイツ歴史の流れを思い出せば、たぶん、納得がゆかないこともないだろう」と、ドイツ人一般の傾向を決めつけている。

 ドイツ人がこのような箇所を読むと愉快ではなかろうと思った。私はドイツ人一般が他の人々とどれほど違っているかは知らない。俗に各国の人々の考え方や行動の違いをおもしろおかしくあげつらうことはあるが、それを敷衍するのは、ヒトラーのユダヤ人観にも似た偏見につながりかねない。どの国にもいろいろな人がいて、ひと色ではないはずだ。

 シャイラーがナチス・ドイツ批判を展開する根拠は理解できるが、勇み足でドイツ人全体への偏見になっている箇所があるようにも思われた。

◎旧版と新版の違い

 私が読んだ『第三帝国の興亡』は、すでに紙が黄ばんでいる半世紀前の版だが、本屋の新版が書店に並んでいることには以前から気づいていた。旧版は活字が小さい二段組みだが新版は活字が大きい一段組みだ。小さい字を読むのはつらくなってきているので新版で読みたいとも思ったが、読書用眼鏡を使えばまだ何とかなるので、宿題を果たす気持ちで昔の本を読んだ。

 読書の途中、図書館で新版を手にする機会があった。新版は活字の大きさと装丁が違うだけかと思っていたが、訳者も違っていた。旧版は井上勇訳、新版は松浦伶訳だ。読み比べてみると、新版の日本語の方が簡潔明瞭ではるかに読みやすい。さすが新訳である。図書館で第1巻と第5巻だけを借り出し、旧版を読み進めながら、わかりにくい箇所は新版を参照した。旧版ではドイツ語名詞をそのままカタカナにした箇所も新版では日本語になっていて理解の助けになった。

 訳文以外にも旧版と新版には違いがある。旧版には写真や地図が数多く挿入されているが、新版は文字のみである。元々、原書にも写真や地図はなく、旧版出版の際に出版社が独自に資料として収録したようだ。

 やはり、こうした本には写真や地図があった方がいい。本書には多くの人物が登場するが、それらの人々の写真があるとないでは興味のもちようが微妙に違ってくる。

 旧版に収録されている写真の大半は各巻の冒頭数頁に口絵として収録されていて、必ずしも本文と関連づけられているわけではない。第三帝国の時代には、古代ローマ帝国とは異なり膨大な記録写真が残されている。それらを集めたムックなども多く出版されているし、今やインターネットで数多くの写真を検索することができる。

 『第三帝国の興亡』を読み進めながら、資料写真を見たいと思うことがたびたびあった。そして、各章の内容に対応した人物写真や記録写真を収集整理して、別冊付録のような自前の写真集を作れば面白いだろうと夢想した。実際に作業をするとなるとかなり大変そうなので、夢想しただけである。