「超常現象」を扱った2冊で頭が痛くなった ― 2014年09月01日
私は超能力や超常現象を信じていない懐疑論者である。この世の自然現象はすべからく、いつかは自然科学で合理的に説明可能になるだろうと考えている。だから、超能力や超常現象を科学的視点で解説した本が好きである。
しかし、次の2冊には少々悩まされ、すっきりしないものが残った。
(1)『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)
(2)『超常現象:科学者たちの挑戦』([NHK取材班]梅原勇樹・苅田章/NHK出版)
この2冊、書店で並んで平積みになっていた。(1)は学者(認知情報論・科学基礎論)が書いたもので、(2)はNHKスペシャルで放映したテレビ番組の内容をディレクターがまとめたものだ。このテレビ番組は(1)の著者・石川幹人氏の協力を得ているということもあり、2冊のトーンは似ている。
私はNHKスペシャル「超常現象・科学者たちの挑戦」を見ていない。友人から「まだ科学では説明できない超常現象があるという内容だった」と聞いたことがあり、気になっていたので、書店で本書を見つけてすぐに手が伸びた。
(2)を読んで番組内容は把握できたが、書き手のディレクターの情緒が入りすぎた物語仕立てに少々うんざりした。テレビ番組の演出をそのまま書籍にしたのかもしれないが、こんなに情緒的で本当に科学的検証ができるのかと懐疑的になり、その冗長さに受信料の無駄遣いではとも思いたくなった。とは言っても、取材班が世界中から集めてきた超常現象の研究現場のレポートは興味深い。
(1)の著者・石川幹人氏は大学で学生にオカルトやエセ科学の危険性を説く「科学リテラシー」も教えている学者で、本書の大半は説得的で納得できる。
超常現象と言われているものの大半はトリックか脳内現象(錯覚)だろうと私は考えている。多くの心理学者、精神科医、マジシャンたちがそのような見解の本を書いている(『超常現象の科学』(リチャード・ワイズマン/文藝春秋)、『怪談の科学』(中村希明/ブルーバックス)、『超能力のトリック』(松田道弘/講談社現代新書)、『超常現象の心理学』(菊池聡/平凡社新書)などなど)。
まだ解明できていない超常現象があるとしても、脳科学や心理学の発展を待てば遅からず説明可能になるだろうと、私は楽観的に考えていた。
しかし、(1)と(2)を読むと、そう楽観的ではないという気がしてきた。
石川幹人氏は超心理学の研究者でもある。超心理学という言葉に久々に出会った気がする。テレパシーや透視や予知などを実験で確かめる超心理学の研究は今も続けられているそうだ。(1)の序章に書かれている次の文章には少し驚いた。
「超心理学は長年の研究によって、小さな効果ではありますが、超能力とみられるいくつかの現象を実験的に確認しているのです。」
この「小さな効果」は実用には供さないものだそうだが、そのメカニズムはわかっていない。石川氏は、超能力を解明するには「無意識」の研究が重要だとしている。そして、ユングの提唱したシンクロニシティ(意味ある偶然の一致、共時性)や集合的無意識の可能性を示唆している。「無意識」の重要性は理解できるが、サイエンスとしてユング心理学をとらえるとなると、少し頭が痛くなってくる。
精神現象と自然現象を包括的に科学するのは、なまやさしいことではない。物理学と生物学と心理学と哲学と文学を同じ地平で統一的に理解することは、私には不可能である。超心理学研究の先に思いがけない深淵を垣間見たような気がする。
(2)の最終章のタイトルは「すべての鍵は、人の“意識”」となっているが、こちらにはユングや無意識は登場しない。そのかわりに量子論が出てくる。
(2)で最も驚かされたのは、多くの人々が高揚すると乱数発生機に偏りが生ずるという信じがたい実験結果だ。本当の乱数を発生させるのは容易ではない。実験に使った乱数発生機は、量子のトンネル効果を利用しているそうで、原理的には偏りようがなさそうに思える。本書では、人間の意識が「量子のもつれ」と呼ばれる現象を引きおこすのでは、という仮説を提示している。驚くべきことだ。
人の意識がモノに対して物理的影響を及ぼすなどと聞くと、まさにオカルトの世界であり、とても信用する気になれない。しかし、量子レベルの話だとすれば、あり得そうな気もしてくる。量子物理学の難しさによる思考停止かもしれないが、そこに未知の領域がありそうにも思えるのだ。超常現象の研究をつきつめると、ここでもやっかいな深淵に遭遇してしまう。
世の中が謎に満ちていることに不都合はない。謎を謎として理解できれば、それでいい。しかし、自分の頭で把握しきれない謎を抱え込むのは、しんどいことである。超常現象を扱った2冊にそんなザラついた読後感をもった。
しかし、次の2冊には少々悩まされ、すっきりしないものが残った。
(1)『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)
(2)『超常現象:科学者たちの挑戦』([NHK取材班]梅原勇樹・苅田章/NHK出版)
この2冊、書店で並んで平積みになっていた。(1)は学者(認知情報論・科学基礎論)が書いたもので、(2)はNHKスペシャルで放映したテレビ番組の内容をディレクターがまとめたものだ。このテレビ番組は(1)の著者・石川幹人氏の協力を得ているということもあり、2冊のトーンは似ている。
私はNHKスペシャル「超常現象・科学者たちの挑戦」を見ていない。友人から「まだ科学では説明できない超常現象があるという内容だった」と聞いたことがあり、気になっていたので、書店で本書を見つけてすぐに手が伸びた。
(2)を読んで番組内容は把握できたが、書き手のディレクターの情緒が入りすぎた物語仕立てに少々うんざりした。テレビ番組の演出をそのまま書籍にしたのかもしれないが、こんなに情緒的で本当に科学的検証ができるのかと懐疑的になり、その冗長さに受信料の無駄遣いではとも思いたくなった。とは言っても、取材班が世界中から集めてきた超常現象の研究現場のレポートは興味深い。
(1)の著者・石川幹人氏は大学で学生にオカルトやエセ科学の危険性を説く「科学リテラシー」も教えている学者で、本書の大半は説得的で納得できる。
超常現象と言われているものの大半はトリックか脳内現象(錯覚)だろうと私は考えている。多くの心理学者、精神科医、マジシャンたちがそのような見解の本を書いている(『超常現象の科学』(リチャード・ワイズマン/文藝春秋)、『怪談の科学』(中村希明/ブルーバックス)、『超能力のトリック』(松田道弘/講談社現代新書)、『超常現象の心理学』(菊池聡/平凡社新書)などなど)。
まだ解明できていない超常現象があるとしても、脳科学や心理学の発展を待てば遅からず説明可能になるだろうと、私は楽観的に考えていた。
しかし、(1)と(2)を読むと、そう楽観的ではないという気がしてきた。
石川幹人氏は超心理学の研究者でもある。超心理学という言葉に久々に出会った気がする。テレパシーや透視や予知などを実験で確かめる超心理学の研究は今も続けられているそうだ。(1)の序章に書かれている次の文章には少し驚いた。
「超心理学は長年の研究によって、小さな効果ではありますが、超能力とみられるいくつかの現象を実験的に確認しているのです。」
この「小さな効果」は実用には供さないものだそうだが、そのメカニズムはわかっていない。石川氏は、超能力を解明するには「無意識」の研究が重要だとしている。そして、ユングの提唱したシンクロニシティ(意味ある偶然の一致、共時性)や集合的無意識の可能性を示唆している。「無意識」の重要性は理解できるが、サイエンスとしてユング心理学をとらえるとなると、少し頭が痛くなってくる。
精神現象と自然現象を包括的に科学するのは、なまやさしいことではない。物理学と生物学と心理学と哲学と文学を同じ地平で統一的に理解することは、私には不可能である。超心理学研究の先に思いがけない深淵を垣間見たような気がする。
(2)の最終章のタイトルは「すべての鍵は、人の“意識”」となっているが、こちらにはユングや無意識は登場しない。そのかわりに量子論が出てくる。
(2)で最も驚かされたのは、多くの人々が高揚すると乱数発生機に偏りが生ずるという信じがたい実験結果だ。本当の乱数を発生させるのは容易ではない。実験に使った乱数発生機は、量子のトンネル効果を利用しているそうで、原理的には偏りようがなさそうに思える。本書では、人間の意識が「量子のもつれ」と呼ばれる現象を引きおこすのでは、という仮説を提示している。驚くべきことだ。
人の意識がモノに対して物理的影響を及ぼすなどと聞くと、まさにオカルトの世界であり、とても信用する気になれない。しかし、量子レベルの話だとすれば、あり得そうな気もしてくる。量子物理学の難しさによる思考停止かもしれないが、そこに未知の領域がありそうにも思えるのだ。超常現象の研究をつきつめると、ここでもやっかいな深淵に遭遇してしまう。
世の中が謎に満ちていることに不都合はない。謎を謎として理解できれば、それでいい。しかし、自分の頭で把握しきれない謎を抱え込むのは、しんどいことである。超常現象を扱った2冊にそんなザラついた読後感をもった。
『日経サイエンス』の特集は「超能力」!? ― 2014年09月08日
『日経サイエンス』の最新号(2014/10)の表紙に大きく「ESP」と書かれている。超常現象を科学的に追究しようとする本を読んだばかりなので、この雑誌も超常現象に注目しているのかと、少しギョッとした。だが、そんな内容ではなく、少し安心し、少しガッカリした。そして、驚いた。
ESP(Extra Sensory Percerption: 超感覚的知覚)と言えば超能力であり、SFのエスパー(超能力者)を連想する。要はテレパシー、透視、予知などである。『日経サイエンス』の特集記事は、ESPの存在を科学的に解明しようという内容ではなく、現在の科学技術を使って「超能力」を作り出してしまおうという内容だ。こういう着眼点があったのかと驚き、興味深く読んだ。
インターネットの黎明期、次のようなことが言わていた。
「蒸気機関が人間の筋肉の力を拡張し、コンピュータが人間の計算能力を拡張したように、ネットは人間のコミュニケーション能力を拡張する」
かつて、私もネット事業に関わっていた。20年程昔、そのようなことを語ったり書いたりした記憶がある。しかし、その先に「超能力の実現」があるとは思い及ばなかった。自分の想像力の貧困を嘆くしかない。
『日経サイエンス』の特集は「センサー網が実現するESP」「代替現実で時間をワープ」の2本で構成されている。
前者は、世界中に張り巡らされたさまざまなセンサーを総合的に利用することによって見えてくる新たな「知覚」を論じている。それは「透視」や「遠隔移動」に似ているが、われわれには未知の「知覚」でもある。
後者は、パノラマカメラで撮影した映像をヘッドマウントディスプレイ(頭の上半分を覆う装置)を通して見る実験のレポートだ。頭の動きに合わせて映像も動くので、撮影した映像を現実のように感じることができるそうだ。タイトルにある「時間ワープ」は未来ではなく過去へのワープであり、パラマウントカメラで撮影しておけば、その情景をいつでも追体験できるというわけだ。
特集記事が2本だけなのは少しモノ足りない。科学技術によって作り出すことができそうな「超能力」は他にもいろいろありそうな気がする。
そんなことを考えていると、われわれが体験している「現実」とは何かという問題が浮かび上がってくる。『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)でも、生物にとっての「現実」とは「認識」の問題だといった言及があった。超能力を作るということは、脳科学の課題と考えるべきのように思える。脳科学恐るべしとの考えを新たにした。
ESP(Extra Sensory Percerption: 超感覚的知覚)と言えば超能力であり、SFのエスパー(超能力者)を連想する。要はテレパシー、透視、予知などである。『日経サイエンス』の特集記事は、ESPの存在を科学的に解明しようという内容ではなく、現在の科学技術を使って「超能力」を作り出してしまおうという内容だ。こういう着眼点があったのかと驚き、興味深く読んだ。
インターネットの黎明期、次のようなことが言わていた。
「蒸気機関が人間の筋肉の力を拡張し、コンピュータが人間の計算能力を拡張したように、ネットは人間のコミュニケーション能力を拡張する」
かつて、私もネット事業に関わっていた。20年程昔、そのようなことを語ったり書いたりした記憶がある。しかし、その先に「超能力の実現」があるとは思い及ばなかった。自分の想像力の貧困を嘆くしかない。
『日経サイエンス』の特集は「センサー網が実現するESP」「代替現実で時間をワープ」の2本で構成されている。
前者は、世界中に張り巡らされたさまざまなセンサーを総合的に利用することによって見えてくる新たな「知覚」を論じている。それは「透視」や「遠隔移動」に似ているが、われわれには未知の「知覚」でもある。
後者は、パノラマカメラで撮影した映像をヘッドマウントディスプレイ(頭の上半分を覆う装置)を通して見る実験のレポートだ。頭の動きに合わせて映像も動くので、撮影した映像を現実のように感じることができるそうだ。タイトルにある「時間ワープ」は未来ではなく過去へのワープであり、パラマウントカメラで撮影しておけば、その情景をいつでも追体験できるというわけだ。
特集記事が2本だけなのは少しモノ足りない。科学技術によって作り出すことができそうな「超能力」は他にもいろいろありそうな気がする。
そんなことを考えていると、われわれが体験している「現実」とは何かという問題が浮かび上がってくる。『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)でも、生物にとっての「現実」とは「認識」の問題だといった言及があった。超能力を作るということは、脳科学の課題と考えるべきのように思える。脳科学恐るべしとの考えを新たにした。
半世紀を経て読了できた『ヒトラー:ナチズムの誕生』 ― 2014年09月28日
◎半世紀前の中学生が購入した本
村瀬興雄氏の中公新書『ナチズム』『アドルフ・ヒトラー』をまとめて読んだのを機に、同じ著者の次の本を読んだ。
『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄/誠文堂新光社)
半世紀以上昔の1962年7月に出版された函入りの専門書で、私にとっては思い出深い本である。
私はこの本を出版時に購入した。その頃、私は田舎町の中学2年生だった。中学生が読むような本ではないと思うが、当時はヒトラーに興味をもっていて、背伸びしてこんな本を買ったのだ。
新聞広告で本書を知り、出版社に手紙を出し、郵送で購入した。田舎の書店にこんな本は置いていないから郵送にしたのだが、郵送で本を購入することが冒険のように思えて、その行為自体を楽しんでいたのだ。自分の小遣いで購入した本の10冊目以内の本だと思う。定価は650円、当時としては高価だ。思い切ったことをしたものだと思う。
郵便で本が届いたときはうれしかった。しかし、当然のことながら、凡庸な中学生の手に負える本ではなかった。ヒトラーの伝記を想定していたが、大学の講義をベースにした研究書だった。400頁以上あり、目次は以下の通りだ。
第一章 ユダヤ人問題と近代反ユダヤ主義
第二章 オーストリア帝国とキリスト教社会運動
第三章 シェネーラーとドイツ民族至上主義運動
第四章 オーストロ・マルクス主義
第五章 ヒトラーの家系と家庭
第六章 少年時代のアドルフ
第七章 リンツ時代
第八章 ヴィーン時代(一)
第九章 ヴィーン時代(二)
第十章 ミュンヘンと第一次世界大戦
第十一章 ヒトラーの政治活動開始
第十二章 創始期のナチス
第十三章 ミュンヘン一揆
第十四章 ヒトラーの根本思想
全十四章ではあるが、ヒトラーの伝記的記述以前の第四章までで、本書の半分近い分量(174頁)を費やしている。
中学生の私はとりあえず第一章から読み始めたが、わけがわからなく、あえなく挫折した。で、前半分は飛ばして、第五章の伝記的部分から読むことにした。そこから最後まで読み終えたかどうか、いまとなっては記憶が曖昧だ。わかりやすい部分だけを拾い読みしたような気がする。本書の内容をきちんと理解・把握できなかたことだけは、はっきりしている。
第五章以降の伝記的な部分も、一般人向けの解説ではなく、基本的な歴史事実を把握している読者を前提に、史料や研究者たち諸説を紹介・分析しつつ自説を述べるスタイルになっている。だから、中学歴史以上の知識のない(つまりは無知な)中学生には歯が立たなくて当然だった。
◎65歳になってやっと読了
その『ヒトラー:ナチズムの誕生』、いつかはきちんと読まなければと思いつつ半世紀経ってしまい、65歳にしてついに読了した。
無知な中学生よりは知識は増えているし、2冊の新書(『ナチズム』『アドルフ・ヒトラー』)や『わが闘争』を読了したばかりということもあり、本書を興味深く読み進めることができた。
村瀬興雄氏は1962年に本書を上梓し、その6年後に『ナチズム』(中公新書)、さらにその9年後に『アドルフ・ヒトラー』(中公新書)を出しており、3冊ともナチズム登場の背景と政権掌握までのヒトラーを主なテーマとしている。時間とともに研究は積み重ねられていくから、後に出た本で前著の見解を修正している箇所もあるが、基本的な著者の見解は一貫している。ナチズムをヒトラーの異常性だけに求めるのではなく、時代背景にウエイトをおく見解である。
だから、『ヒトラー:ナチズムの誕生』では、前半分の量を費やしてヒトラー登場以前の時代風潮を分析している。中学生の私がギブアップした部分だ。
「第一章 ユダヤ人問題と近代反ユダヤ主義」を読めば、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別の歴史の根深さがわかる。近代になると「人種論」的なユダヤ人差別思想が広まる。村瀬氏は次のように述べている。
「ヒトラーの時代になって、以上の人種論につけくわえられたものはなにもないといってよい。ナチスはいろいろな人種論を卑俗化し、「大衆化」した。さまざまな人種論の一部分ずつが採用され、結合され、組織化されたにすぎない。ただし、その理論の実行にあたっては、方法と技術のうえで、ナチスは身の毛のよだつような、運命的な新機軸を導きいれたのである。」
第二章と第三章では、青年期のヒトラーに影響を与えたと推察されるルエーガー(反ユダヤ主義のキリスト教社会運動家。ヴィーン市長)やシェーネラー(汎ドイツ主義運動の中心人物)について述べている。これらは、ハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国やホーエンツォレル家のプロイセンの歴史を把握していなければわかりにくい部分で、65歳にしてやっと興味深く読むことができた。
◎ヒトラーも「時代の子」
ヒトラーの生い立ちから青年期までを扱った第五章から第十章までの分析も手厳しくて面白い。ヒトラーがルエーガーやシェーネラーに共感していたヴィーン時代(23歳ぐらいまで)について、村瀬氏は次のように述べている。
「ヒトラー主義はこの時代にただ萌芽が形成されたのみであって、『わが闘争』で自慢するように、すっかりできあがったわけではなかった。ヒトラーのように不勉強な人物が、自分の思想体系を確立できるのはさらにあとになってからのことである。」
また、美術大学への入学に失敗し定職についていなかったヒトラーは、第一次世界大戦に従軍することで、軍隊生活に「新しい故郷」を得たと分析し、「失敗した無益な人生から救われるチャンスをつかんだ」としている。次のような記述も興味深い。
「彼の性格はこの当時まで、失敗したボヘミアンとして、一定の社会秩序の内部では生活できないタイプであった。このようなタイプの男は、正常な社会でならば破滅するだけである。しかし、混乱した、破局的な社会においては、一定の目的を目指して集中した意思力をもって活動すれば、成功できるし、社会のメカニズムを支配して大きな騒ぎをまきおこすことすらもできる。混乱期になると病的な異常性格者が正常な人間を支配するチャンスもないことはないのである。」
「失敗したボヘミアン」という表現が面白い。屈折した青年が時代の風に乗っていくさまを考えると、つくづく、ヒトラーもまた「時代の子」だったとの感を強くする。
◎『わが闘争』とフォード
本書の最終章では「『わが闘争』改訂の問題」を論じている。当初は売れなかった『わが闘争』は、ヒトラーの政権掌握によって版を重ねることになる。何度もの改訂によって内容が変わっているか否かがテーマであり、村瀬氏は細かな訂正は無数にあるが、根本的な内容は変わっていないとしている。次の指摘がおもしろい。
「(修正担当者たちは)ヒトラーの奇形的な演説口調を、目立たないものにしようと努力した。(略)さらに修正担当者たちは、ヒトラーの演説によく出てくる奇怪で野卑な罵りの言葉を、あとの版では訂正し緩和した。(略)しかし、いかに訂正してみても、この本の非組織的構成は変えることができなかったし、きちんとしていない、冗漫な考え方自体も、また変えることが全然できなかった。」
私が『わが闘争』の完訳版を読もうと思ったのは『ヒトラーの秘密図書館』(T・ライバック/文春文庫)がきっかけだった。ライバックはヘンリー・フォードの反ユダヤ思想が『わが闘争』に大きな影響を与えていると指摘していた。だから、『わが闘争』にフォードへの言及があるのだろうと気にしながら読んだが、そんな箇所は発見できなかった。
しかし、本書の最終章によって『わが闘争』の初版にはフォードの名が出ていることがわかった。アメリカ合衆国におけるユダヤ人支配を「ただ一人の大人物フォード氏だけが」これに抵抗している、とあるところが後の版では「ほんの少数のものだけが」に改められているそうだ。
ささいな箇所ではあるが、小さな気がかりがひとつ解消した。
村瀬興雄氏の中公新書『ナチズム』『アドルフ・ヒトラー』をまとめて読んだのを機に、同じ著者の次の本を読んだ。
『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄/誠文堂新光社)
半世紀以上昔の1962年7月に出版された函入りの専門書で、私にとっては思い出深い本である。
私はこの本を出版時に購入した。その頃、私は田舎町の中学2年生だった。中学生が読むような本ではないと思うが、当時はヒトラーに興味をもっていて、背伸びしてこんな本を買ったのだ。
新聞広告で本書を知り、出版社に手紙を出し、郵送で購入した。田舎の書店にこんな本は置いていないから郵送にしたのだが、郵送で本を購入することが冒険のように思えて、その行為自体を楽しんでいたのだ。自分の小遣いで購入した本の10冊目以内の本だと思う。定価は650円、当時としては高価だ。思い切ったことをしたものだと思う。
郵便で本が届いたときはうれしかった。しかし、当然のことながら、凡庸な中学生の手に負える本ではなかった。ヒトラーの伝記を想定していたが、大学の講義をベースにした研究書だった。400頁以上あり、目次は以下の通りだ。
第一章 ユダヤ人問題と近代反ユダヤ主義
第二章 オーストリア帝国とキリスト教社会運動
第三章 シェネーラーとドイツ民族至上主義運動
第四章 オーストロ・マルクス主義
第五章 ヒトラーの家系と家庭
第六章 少年時代のアドルフ
第七章 リンツ時代
第八章 ヴィーン時代(一)
第九章 ヴィーン時代(二)
第十章 ミュンヘンと第一次世界大戦
第十一章 ヒトラーの政治活動開始
第十二章 創始期のナチス
第十三章 ミュンヘン一揆
第十四章 ヒトラーの根本思想
全十四章ではあるが、ヒトラーの伝記的記述以前の第四章までで、本書の半分近い分量(174頁)を費やしている。
中学生の私はとりあえず第一章から読み始めたが、わけがわからなく、あえなく挫折した。で、前半分は飛ばして、第五章の伝記的部分から読むことにした。そこから最後まで読み終えたかどうか、いまとなっては記憶が曖昧だ。わかりやすい部分だけを拾い読みしたような気がする。本書の内容をきちんと理解・把握できなかたことだけは、はっきりしている。
第五章以降の伝記的な部分も、一般人向けの解説ではなく、基本的な歴史事実を把握している読者を前提に、史料や研究者たち諸説を紹介・分析しつつ自説を述べるスタイルになっている。だから、中学歴史以上の知識のない(つまりは無知な)中学生には歯が立たなくて当然だった。
◎65歳になってやっと読了
その『ヒトラー:ナチズムの誕生』、いつかはきちんと読まなければと思いつつ半世紀経ってしまい、65歳にしてついに読了した。
無知な中学生よりは知識は増えているし、2冊の新書(『ナチズム』『アドルフ・ヒトラー』)や『わが闘争』を読了したばかりということもあり、本書を興味深く読み進めることができた。
村瀬興雄氏は1962年に本書を上梓し、その6年後に『ナチズム』(中公新書)、さらにその9年後に『アドルフ・ヒトラー』(中公新書)を出しており、3冊ともナチズム登場の背景と政権掌握までのヒトラーを主なテーマとしている。時間とともに研究は積み重ねられていくから、後に出た本で前著の見解を修正している箇所もあるが、基本的な著者の見解は一貫している。ナチズムをヒトラーの異常性だけに求めるのではなく、時代背景にウエイトをおく見解である。
だから、『ヒトラー:ナチズムの誕生』では、前半分の量を費やしてヒトラー登場以前の時代風潮を分析している。中学生の私がギブアップした部分だ。
「第一章 ユダヤ人問題と近代反ユダヤ主義」を読めば、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別の歴史の根深さがわかる。近代になると「人種論」的なユダヤ人差別思想が広まる。村瀬氏は次のように述べている。
「ヒトラーの時代になって、以上の人種論につけくわえられたものはなにもないといってよい。ナチスはいろいろな人種論を卑俗化し、「大衆化」した。さまざまな人種論の一部分ずつが採用され、結合され、組織化されたにすぎない。ただし、その理論の実行にあたっては、方法と技術のうえで、ナチスは身の毛のよだつような、運命的な新機軸を導きいれたのである。」
第二章と第三章では、青年期のヒトラーに影響を与えたと推察されるルエーガー(反ユダヤ主義のキリスト教社会運動家。ヴィーン市長)やシェーネラー(汎ドイツ主義運動の中心人物)について述べている。これらは、ハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国やホーエンツォレル家のプロイセンの歴史を把握していなければわかりにくい部分で、65歳にしてやっと興味深く読むことができた。
◎ヒトラーも「時代の子」
ヒトラーの生い立ちから青年期までを扱った第五章から第十章までの分析も手厳しくて面白い。ヒトラーがルエーガーやシェーネラーに共感していたヴィーン時代(23歳ぐらいまで)について、村瀬氏は次のように述べている。
「ヒトラー主義はこの時代にただ萌芽が形成されたのみであって、『わが闘争』で自慢するように、すっかりできあがったわけではなかった。ヒトラーのように不勉強な人物が、自分の思想体系を確立できるのはさらにあとになってからのことである。」
また、美術大学への入学に失敗し定職についていなかったヒトラーは、第一次世界大戦に従軍することで、軍隊生活に「新しい故郷」を得たと分析し、「失敗した無益な人生から救われるチャンスをつかんだ」としている。次のような記述も興味深い。
「彼の性格はこの当時まで、失敗したボヘミアンとして、一定の社会秩序の内部では生活できないタイプであった。このようなタイプの男は、正常な社会でならば破滅するだけである。しかし、混乱した、破局的な社会においては、一定の目的を目指して集中した意思力をもって活動すれば、成功できるし、社会のメカニズムを支配して大きな騒ぎをまきおこすことすらもできる。混乱期になると病的な異常性格者が正常な人間を支配するチャンスもないことはないのである。」
「失敗したボヘミアン」という表現が面白い。屈折した青年が時代の風に乗っていくさまを考えると、つくづく、ヒトラーもまた「時代の子」だったとの感を強くする。
◎『わが闘争』とフォード
本書の最終章では「『わが闘争』改訂の問題」を論じている。当初は売れなかった『わが闘争』は、ヒトラーの政権掌握によって版を重ねることになる。何度もの改訂によって内容が変わっているか否かがテーマであり、村瀬氏は細かな訂正は無数にあるが、根本的な内容は変わっていないとしている。次の指摘がおもしろい。
「(修正担当者たちは)ヒトラーの奇形的な演説口調を、目立たないものにしようと努力した。(略)さらに修正担当者たちは、ヒトラーの演説によく出てくる奇怪で野卑な罵りの言葉を、あとの版では訂正し緩和した。(略)しかし、いかに訂正してみても、この本の非組織的構成は変えることができなかったし、きちんとしていない、冗漫な考え方自体も、また変えることが全然できなかった。」
私が『わが闘争』の完訳版を読もうと思ったのは『ヒトラーの秘密図書館』(T・ライバック/文春文庫)がきっかけだった。ライバックはヘンリー・フォードの反ユダヤ思想が『わが闘争』に大きな影響を与えていると指摘していた。だから、『わが闘争』にフォードへの言及があるのだろうと気にしながら読んだが、そんな箇所は発見できなかった。
しかし、本書の最終章によって『わが闘争』の初版にはフォードの名が出ていることがわかった。アメリカ合衆国におけるユダヤ人支配を「ただ一人の大人物フォード氏だけが」これに抵抗している、とあるところが後の版では「ほんの少数のものだけが」に改められているそうだ。
ささいな箇所ではあるが、小さな気がかりがひとつ解消した。
![『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)、『超常現象:科学者たちの挑戦』([NHK取材班]梅原勇樹・苅田章/NHK出版) 『「超常現象」を本気で科学する』(石川幹人/新潮新書)、『超常現象:科学者たちの挑戦』([NHK取材班]梅原勇樹・苅田章/NHK出版)](http://dark.asablo.jp/blog/img/2014/09/01/33e46b.jpg)


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