『オセロー』を観て、なぜ芝居を観るかを考えた2013年06月17日

『オセロ』のパンフ、カバーと中身が違う新潮文庫
 世田谷パブリックシアターで上演中の『オセロー』(演出・白井晃、主演・仲村トオル)を観た。
 『オセロー』の舞台をナマで観るのは初めてだが、テレビの舞台中継や映画を観たことはあるし、戯曲も読んでいる。シェイクスピアの有名作品だから、ストーリーはよくわかっている。そんな古典作品の舞台をなぜ観るのだろうか。『オセロー』の舞台を観ながらそんな自問が浮かんできた。

 本を読んだり映画を観たりするとき、「なぜ読むか」「なぜ観るか」などと考えることはない。読みたいから読む、観たいから観るで十分だ。芝居も観たいと思ったから観るだけのことではある。しかし、事前にチケットを手配し、劇場に足を運び、開幕を待つという行為には、なにか「身構え」のような期待感があり、それが「なぜ芝居を観るのだろうか」という自問につながるようだ。

 芝居を観に行く動機は、戯曲を読んでも得られないもの、テレビやDVDの舞台録画を観ても得られないものを期待しているからだ。それは、役者たちと同じ時間と空間を共有しているというライブ感覚をベースにした、別世界体験のようなものだと思う。

 かつて、アングラと呼ばれた芝居のいくつかが多くの観客を動員できたのは、煽動にも似た熱気と迫力で観客を別世界へさらって行く力があったからだ。役者と観客の共犯時空間を作り出しやすい「時代の風」をはらんでいたということもあった。

 現在の演劇にアングラ的熱気を期待しているわけではないが、芝居には役者が観客に働きかけて独自の時空間を現出させようとする作用が普遍的にある。

 そんなことを考えたのは、今回観た『オセロー』の演出が、観客を巻き込んで演劇空間を作り上げようとしたユニークなもので、その試みに感心したからである。

 私の席は1階の中ほどだったが、前の座席は、前後左右4座席をつぶして演出家席のようになっていた。普通、こんな席は一番後ろに作るのではなかろうかと不審に思った。

 芝居が始まるとき、その席に座ったのは演出の白井晃ではなかった。その席に座り、舞台に向かって何やら合図を出している男女は、実はイアーゴとその妻・エミリアだった。『オセロー』という芝居を仕切っているのは確かにイアーゴという悪人だが、それをより強調するために演出席にイアーゴを配置する演出にしたのだろうか。
 
 演出の白井晃は役者としても出演している。芝居開始前に私のそばの通路側座席に座っていて、そこから芝居を始めた。その席には、オセロー役の仲村トオルが座ることもあった。
 舞台装置や衣装も伝統的なスタイルではなく、無国籍・超時代なもので、剣をピストルで代用してスピード感をだしている。役者が観客に対して起立を求めたり着席をうながすシーンもある。休憩時間やカーテンコールにも芝居が折り込まれていた。
 
 これらの仕掛けが成功しているか否かはわからないが、芝居を観るということはなにだろうかという根本的な思考をうながす刺激にはなった。

 そして、蛇足ではあるが、観劇の後、舞台を反芻するために戯曲を読み返すことにした。今回の上演は福田恆在訳である。かなり昔に購入した新潮文庫の福田恆在訳『オセロー』があったので、それを読み始めたが、科白の言い回しが少し異なっている。上演時に変更したのかなとも思ったが、扉を確認すると、驚いたことに私が読み進めているのは木下順二訳だった。カバーには「福田恆在訳」とあるが、中身は「木下順二訳」なのだ。キツネにつままれた気分である。
 本棚にはシェイクスピアの新潮文庫が他にも何冊かあり、それらはすべて、カバーも中身も福田恆在訳だった。『オセロー』の発行日は昭和46年5月の30刷、他のシェイクスピアは昭和48年発行だ。この頃、新潮文庫は『オセロー』の翻訳を木下順二から福田恆在に切り替え、何らかの理由で古い中身に新しいカバーがついてしまったのだろうか。40年以上昔の本なので確かめようがない。いまさら版元にクレームをつける気もしない。

 幸い(?)、実家から運んで来ていた古い世界文学全集に福田恆在訳『オセロー』があったので、それで観劇後の反芻読書をした。そして、これだけの日本語を自分の科白にするのは大変だろうなあと、アホみたいに役者に対して感心した。
 芝居とは、役者にとってこそ別世界へ踏み込んで行く超現実的な体験であり、それを観客に伝染させられるかうどうかが役者の力量かもしれない、などとも考えた。