「攘夷」と「文明開化」を再考する2011年09月03日

『幕末・維新:シリーズ日本近現代史(1)』(井上勝生/岩波新書)、『攘夷の幕末史』(町田明広/講談社現代新書)
◎政局でなく大局で幕末を見る

 幕末とは、さまざまな対立があちこちで頻発した政局の連続だった。それぞれに対立の理由はあったのだろうが、現在の目からは対立軸がわかりにくいケースも多い。
 政局とは、当事者にはそれなりの意味があっても部外者には理解しがたいものである。ささいな違いに見えることが当事者には大きな違いだったり、まったく考えの違う者同士が手を組んだり、何でもありなのが政局だ。今回の首相交代にしても、後世の歴史家から見れば、この時期に菅首相から野田首相に交代した理由はわかりにくいだろう。
 理念や政治哲学とは無関係に、人間集団の微妙な力学で状況が動くのが政局である。

 とは言っても、幕末史を政局の連続と眺めているだけでは歴史変動の実相は見えてこない。次の2冊は、幕末史をある程度は大局的に眺める一助になる。

『幕末・維新:シリーズ日本近現代史(1)』(井上勝生/岩波新書)
『攘夷の幕末史』(町田明広/講談社現代新書)

 2冊とも比較的新しい新書本で、東アジアの中の日本という視点で幕末維新を解説している。

◎幕府の外交と江戸社会を評価

 井上勝生氏の『幕末・維新』は江戸幕府の外交や内政を再評価し、江戸社会を成熟した柔軟な仕組みの社会だったと高く評価している。
 たとえば、江戸幕府は一揆を厳禁したり弾圧していたのではない。一揆を訴願や献策として受け容れる仕組みがあり、それによって「柔軟性のある支配」を維持していたそうだ。
 また、ペリー来航以前から幕府はかなり詳しい欧米情報を収集していて、それらの情報をふまえて、ペリーやハリスを相手に堂々とした外交を展開していた。
 ハリスが総領事として来日し、アメリカとの条約の利点を2時間にわたった大演説したときも、幕府側はメキシコ、トルコ、ヨーロッパなどでの事例に基づいてハリスの偽言を指摘・証明している。幕府には外交の力量があったのだ。

 井上勝生氏は、幕末の幕府の外交、つまりは修好通商条約の締結などを現実的で合理的だったと評価し、それに対する朝廷の対応を批判している。孝明天皇の「攘夷」は、非合理な神国思想と大国主義思想に基づいた冒険的すぎる考えだとしている。
 いたって常識的で妥当な見方だと思う。しかし、同時代の人々がそうは考えなかったので、幕末は動乱の時代になってしまった。

◎文明開化とは何か

 動乱の果てに幕府は瓦解し、明治政府が誕生する。明治政府は「旧来の陋習を破る」とし、「文明開化」を標榜する。しかし、江戸社会がすでに成熟した文明社会だったとすれば「開化」などは不要だったのだ。

 この点に対する著者の指摘は鋭くて面白い。

 「旧来の陋習」という言葉は、江戸社会を前近代的で未開な社会とする見方だ。欧米が未開に対してもっていた差別的な見方の引きうつしである。井上勝生氏は、旧幕府はそのような欧米の未開観を受け容れなかったが、明治新政府は、欧米中心の「未開と文明」の見方にみずから同調したと指摘している。鋭い見解だ。

 薩摩藩や長州藩では、藩政改革が進んでいたとは言え、その社会は江戸に比べて柔軟制や成熟度が低かったので、薩長の幹部たちは文明開化が必要と考えた、という見方も成り立つかもしれないが。

 また、著者は「明治政府は、かつては黙認されていた一揆そのもをいっさい容赦しないという強硬方針に大きく転換した」と指摘し、「激化した民衆運動を抑え込むことこそ、明治政府の文明開化の中心線の一つだった。」と述べている。文明開化とは柔軟な社会から硬直した社会への移行だったのだろうか。

◎みんな攘夷だった

 現実的で合理的だった幕府が瓦解し、非合理な神国思想と大国主義思想に基づいた攘夷派が天皇をかついで権力を奪取する。井上勝生氏によれば、それが明治維新であり、薩長によるあらたな天皇制近代国家の誕生である。

 しかし、薩長だけが攘夷派ではない。町田明広氏の『攘夷の幕末史』は、あの頃は日本人の全員が「攘夷」だったと述べた本だ。
 確かに尊王攘夷は当時の誰もが口にするスローガンだった。幕末の政争を「攘夷 vs. 開国」とか「尊王攘夷 vs. 公武合体」と見るのは単純すぎて、その視点からはわかりにくい情景も多い。全員が攘夷で、その攘夷の中身についていろいろな意見があった、と考える方がすっきりしそうだ。

 そもそも、幕末とは政治理念の争いではなく、過激度競争や主導権奪取の権謀・クーデターの時代だった。争点と思想には齟齬があったと思われる。

◎大攘夷と小攘夷

 町田明広氏によれば、そもそも日本の攘夷思想は遣唐使廃止の頃から発生した「東夷の小帝国」主義であり、中国に倣った「華夷思想」である。近代風に言うなら、海外侵略を射程にいれた帝国主義思想である。

 幕末に外国と通商条約を締結してからは、攘夷熱が急速に高まっていく。条約反対が攘夷派で条約賛成が反攘夷(開国)派のように見えるが、開国派=反攘夷派ではない。開国派の人々は、攘夷のためには国力を高めなければならないので、まずは開国しなければならないと考えていたのだ。

 現状の武装では負けるので、通商条約締結で利益を蓄えて武装を整えてから攘夷をしようというのが「大攘夷」で、通商条約をすぐに破棄しろというのが「小攘夷」である。
 前者については、そんな迂遠な道をとってまで、なぜ「攘夷」をするのかという気がするが、それは現代人の感覚で、当時の人々にとって「海外侵略」は当然の目標だったのかもしれない。

◎征韓論とそれからの攘夷

 中学や高校の歴史の授業で「征韓論」に接したとき、違和感があった。西郷隆盛や板垣退助は「征韓論」が否認されたので下野し、一方は西南戦争を起こし、一方は自由民権運動を始めたという物語への違和感である。
 「征韓論」とは簡単に言えば韓国を軍事的に攻撃しようという議論で、戦後民主主義の世界で育った子供には、否認されて当然のトンデモナイ暴論に見えたのだ。

 『幕末・維新』や『攘夷の幕末史』にも、征韓論への言及がある。当時の人々にとって、征韓論が当然の課題のように見えるのは、それが攘夷思想=帝国主義思想の一環だったからだろう。
 欧米がアジアに進出してきた時代である幕末は、帝国主義が始まる時代でもあった。かなりの海外情報が入ってきていた日本にも、そういう時代の空気が伝わってきていたに違いない。
 幕末とは、日本が藩を超えた「国家」を意識せざるを得なくなった時代であり、ナショナリズムが発生した時代である。そして、同時代の当然の趨勢として海外侵略の気分までもが湧き出た時代だったようだ。開明的な人ほど、海外からの侵略を防ぐには、侵略される前に侵略して覇権を確立するのが上策だと考えたのかもしれない。そんな時代の空気を表す合言葉が攘夷である。

 その攘夷思想は日清戦争、日露戦争のバックボーンであり、太平洋戦争にまで突き進む。『攘夷の幕末史』は以下のセンテンスで終わっている。
「先の未曾有の大戦も、つまりは、幕末の呪縛によるものだ。」

 現代のわれわれは、その呪縛から完全に解放されているのだろうか。