布川事件の映画『ショージとタカオ』で「時間」を考えた ― 2011年05月24日
本日(2011年5月24日)、新宿の K's cinema で『ショージとタカオ』を観た。布川事件を題材にしたドキュメンタリー映画(キネマ旬報ベスト・テン文化部門第1位)だ。本日がこの事件の再審の判決日と知り、野次馬気分で観に行ったのだ。
かなり以前に上映が始まったと聞いていて、もう終了していると思っていたが、昨夜、ネットで調べると、まだ上映中だと分かった。
朝10時からの1回だけの上映だが、観客はまばらだった(十数人)。判決日だからといって客が押し寄せてくるわけではないようだ。
この事件は、再審請求が最高裁で認められるまでが長い道のりで、再審決定が山場だった。本日の再審で無罪判決が出るのは、ほぼ確実だったので、判決日だからといって大きな関心はよばなかったのだろう。
かなり長時間のドキュメンタリーだ。しかし、退屈はしなかった。この映画は、無期懲役の判決が確定した二人が、仮釈放で29年ぶりに出所する1996年からスタートする。その後、2010年までの14年間の記録だ。
時間を整理すると次のようになる(誕生日により年齢誤差があるかもしれない)。
1967年8月 殺人事件発生
桜井昌司(ショージ)と杉山卓男(タカオ)が逮捕される。20歳。
1973年 二人は無罪を主張するが、最高裁で無期懲役が確定。26歳。
1983年 獄中から再審請求するが、最高裁が棄却(1992年)。
1996年 ショージとタカオは仮釈放になる。49歳。
2009年 再審が決定。62歳
2011年5月24日 再審(土浦地裁)で無罪判決。64歳。
こんな年表を書いてみたのは、このドキュメンタリーが「時間」を強く意識させる映画だからだ。
20歳で社会から隔絶された二人は49歳になって、再び社会に戻って来る。29年の間に世の中の様相は大きく変貌している。二人が感じたであろう浦島太郎感覚を想像すると、時間の作用についてアレコレ考えざるを得ない。
私は二人と似た世代なので、彼らが隔絶されていた29年の社会変化について、身につまされるような感慨をいだいてしまう。
浦島太郎感覚でスタートした映画は、その後の14年間の二人の生活を断片的に追い続ける。追いかける側(井手洋子監督)も、よく持続したものだと感心する。ここに、圧縮された時間の不思議を感じる。
二人はもちろん浦島太郎ではなく現実社会に生きる人間である。苛酷な記憶を抱えつつも、現実の時間を普通に生き抜いていくしかない。
仮釈放後の2度目の再審請求の際、裁判所の決定を待つ時間の中でタカオがもらした「思い」が印象的だった。
再審の決定をドキドキして待っているのではなく、決定が出るのを恐れているのである。今のままの未決の状態が続く方がいいとも感じている。何かが決まることによって今の生活が壊れてしまうような気がするというのだ。
冤罪で長い獄中生活を強いられた人の「思い」であると同時に、有限の時間の中に生きていて、時間に抗うことはできないわれわれ誰にも共通の感覚のようにも思われた。
時間の作用の不思議と苛酷を感じる映画だった。
かなり以前に上映が始まったと聞いていて、もう終了していると思っていたが、昨夜、ネットで調べると、まだ上映中だと分かった。
朝10時からの1回だけの上映だが、観客はまばらだった(十数人)。判決日だからといって客が押し寄せてくるわけではないようだ。
この事件は、再審請求が最高裁で認められるまでが長い道のりで、再審決定が山場だった。本日の再審で無罪判決が出るのは、ほぼ確実だったので、判決日だからといって大きな関心はよばなかったのだろう。
かなり長時間のドキュメンタリーだ。しかし、退屈はしなかった。この映画は、無期懲役の判決が確定した二人が、仮釈放で29年ぶりに出所する1996年からスタートする。その後、2010年までの14年間の記録だ。
時間を整理すると次のようになる(誕生日により年齢誤差があるかもしれない)。
1967年8月 殺人事件発生
桜井昌司(ショージ)と杉山卓男(タカオ)が逮捕される。20歳。
1973年 二人は無罪を主張するが、最高裁で無期懲役が確定。26歳。
1983年 獄中から再審請求するが、最高裁が棄却(1992年)。
1996年 ショージとタカオは仮釈放になる。49歳。
2009年 再審が決定。62歳
2011年5月24日 再審(土浦地裁)で無罪判決。64歳。
こんな年表を書いてみたのは、このドキュメンタリーが「時間」を強く意識させる映画だからだ。
20歳で社会から隔絶された二人は49歳になって、再び社会に戻って来る。29年の間に世の中の様相は大きく変貌している。二人が感じたであろう浦島太郎感覚を想像すると、時間の作用についてアレコレ考えざるを得ない。
私は二人と似た世代なので、彼らが隔絶されていた29年の社会変化について、身につまされるような感慨をいだいてしまう。
浦島太郎感覚でスタートした映画は、その後の14年間の二人の生活を断片的に追い続ける。追いかける側(井手洋子監督)も、よく持続したものだと感心する。ここに、圧縮された時間の不思議を感じる。
二人はもちろん浦島太郎ではなく現実社会に生きる人間である。苛酷な記憶を抱えつつも、現実の時間を普通に生き抜いていくしかない。
仮釈放後の2度目の再審請求の際、裁判所の決定を待つ時間の中でタカオがもらした「思い」が印象的だった。
再審の決定をドキドキして待っているのではなく、決定が出るのを恐れているのである。今のままの未決の状態が続く方がいいとも感じている。何かが決まることによって今の生活が壊れてしまうような気がするというのだ。
冤罪で長い獄中生活を強いられた人の「思い」であると同時に、有限の時間の中に生きていて、時間に抗うことはできないわれわれ誰にも共通の感覚のようにも思われた。
時間の作用の不思議と苛酷を感じる映画だった。
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