「吉川版三国志」と「北方版三国志」2008年02月05日

 北方謙三『三国志』が面白いと友人から聞いたので文庫本全13冊を読んだ。面白かった。これまで『三国志』を読んでいなかったので、この機会にスタンダード版の吉川英治『三国志』も読んでおこうと思い、文庫本全8冊も読んだ。大昔の六興社版全10冊が自宅の本棚の奥にあったが、ボロボロに日焼けしていて活字も小さく、目が衰えてきた身には辛いので、吉川英治歴史時代文庫版を買った。
 北方版にはハードボイルド調の面白さがあった。定評ある吉川版には講談調の面白さがあるだろうと期待し、吉川版は北方版より面白いのではと予感して読んだが、それほどでもなかった。
 講談調や大げさな表現はそれなりに楽しめるつもりだったが、北方版を読んだ後では、吉川版の人物造形が単純すぎるように思え、いまひとつ読書のノリが悪かった。やはり、吉川版→北方版の順に読むべきだったのだろう。

 吉川版三国志の新聞連載は1939年8月から1944年9月の5年間、太平洋戦争中だ。北方版三国志は、それから約半世紀後の1996年11月から1998年10月の2年間で刊行された。この二作品をきちんと比較論評するには「三国志演義」や「三国志(正史)」を読んでおくべきなのだろうが、そこまで三国志に入れ込んでいるわけではないので、原典や史実にこだわらず、二つの作品世界の読後感をメモしてみる。

 吉川版の人物造形は単純すぎると思えたが、北方版の人物描写もある意味で平面的で類型的だ。英雄・豪傑が闊歩する歴史物語なのだから、それでなければ物語が成立しないのかもしれない。ただし、吉川版の人物が過剰な演技の舞台俳優とすれば、北方版の登場人物はハードボイルドの映画俳優という程度の違いがあり、私には後者の方が馴染める。
 世界の描き方にも違いがある。北方版の方が三国志世界の概括的なとらえ方にメリハリがあり、読みやすい。基本は戦争の物語なのだが、戦術でなく戦略こそが重要であり、そこには武将だけでなく軍師や文官の活躍もあり、兵站や民生も重要な要素となり、それが政治だ・・・という構造がくっきりと描かれている。吉川版の三国志世界も同じ基盤の物語ではある。しかし、世界の構造ではなく、むしろ騙しあいの権謀術数の世界を描いているという印象が強い。もともと、三国志とはそういう物語なのだが。
 また、二作品とも、登場人物たちの加齢と世代交代の物語でもあり、時間の流れを追体験する面白さがある。吉川版は、時間経過を神の目で淡々とした歴史の流れとして描いているが、北方版は登場人物たちの視点で描れた物語なので、時の流れに身につまされるような哀歓が伴い感情移入しやすい。

 北方版が「現代的」視点の三国志であるのは間違いないが、吉川版も当時としては「現代的」三国志だったようだ。吉川版も原典(演義?)の冗長さをテンポの速い語りに変え、非現実的な怪奇性を排除し、現代化ているらしい。現代の私から見ると、吉川版はテンポが速いというよりは、時として話が散漫になりスラスラ読みにくい所があるように思える。北方版の方がテンポが速く感じられる。アナウンサーのしゃべりのテンポが昔から現代にかけて速くなってきているという感覚に似ている。
 北方謙三と同時代に生きる私にとって、北方版の方が時代の気分に合っていて面白いのは当然で、同じ視点で吉川版と比較するのは不公平なのだろう。半世紀という年月は歴史の尺度では短い年月だが、人の読書環境が変化してしまうには十分な年月かもしれない。

 実は、これまで吉川英治の小説はあまり読んでいない。中学生の頃に『宮本武蔵』の最初の2巻まで読み、その他は『新編忠臣蔵』ぐらいだ。今回、『三国志』を読んでいて、司馬遼太郎風の作者独白エッセイ的な箇所があるのを面白く思った。特に「篇外餘録」の中で、蜀において次世代の人物が育たなかったのを孔明の短所としている点と、最終的な蜀の敗因は戦争目標を「漢朝復興」という旗幟にした点にあるとしている見方には感心した。後者は皇国史観への疑問にも通じるように思える。これを戦時中の新聞連載に書いたのは大したものだ。戦後の単行本刊行時に書き足した可能性も考えられるが、調べるのがやっかいだ。

「温暖化懐疑論」と出版2008年02月14日

 「地球は本当に温暖化しているのか?」「温暖化の主因は人為起源のCO2なのか?」「温暖化は悪いことなのか?」などの温暖化懐疑論は、かなり以前から存在する。私自身、現状では温暖化懐疑論に近い。近年の地球温暖化論にファッショ&ファッション的なうさん臭さを感じるからだ。
 もっとも、この議論は思想信条や主義主張に基づくのではなく、科学的な事実認識に基づいて考えるべきものなので、知見の深化によって考え方が変わる可能性はある。

 温暖化の記事はあふれているが、最近になって温暖化懐疑論を目にすることも増えてきた。文藝春秋は『暴走する「地球温暖化」論―洗脳・煽動・歪曲の数々』(2007/12)を出版し、宝島社は『別冊宝島 温暖化を食いものにする人々 地球温暖化という“都合のよい真実”』(2008/2/7)を出版した。また、『週刊朝日』は2回にわたって温暖化懐疑論を紹介している(2008/1/18号、2008/2/15号)。

 『暴走する「地球温暖化」論』の約1カ月前に文藝春秋が出版した『日本の論点2008』(2007/11/8)では、CO2による地球温暖化を前提に温暖化阻止を訴える「異常気象と温暖化の関係とは」(木本昌秀)という記事が載っていた。「データファイル」という解説記事も、温暖化懐疑論を紹介しつつ、それを否定する内容になっていた。『日本の論点』は、ひとつの論点について複数の筆者の見解を並列的に掲載している項目も多いのだが、地球温暖化問題に関する懐疑論の扱いは泡沫候補なみだった。ところが、1カ月後には温暖化懐疑論の本を出版した。

 宝島社は1年前には、地球温暖化の危機への早急な対応実践を促す内容の『別冊宝島 図解地球の真実―ひと目でわかる温暖化の今と未来 世界の、とても不都合なこと』を出版していた。ところが、最近になって温暖化懐疑論とも取れる『別冊宝島 温暖化を食いものにする人々』を出版した。別冊宝島の最新刊が面白いのは、1年前の本の「第二弾」としている点だ。筆者もほぼ共通だ。この本、大半は温暖化懐疑論の紹介で、「まえがき」には、前回の本の第二弾ではあるが真逆である旨が書かれている。実は、この別冊宝島には、最後の章にドンデン反しがある。温暖化の理論はすべて仮説だが、やはり地球温暖化は加速していて、このままでは大変なことになりそうだ……というようなことでまとめている。不統一な内容のようにも見えるが、地球温暖化問題は何とでも言えることが多く、このような編集も可能なのだろう。

 『週刊朝日』が紹介している温暖化懐疑論は、「ニッポンの争点」という記事(2008/1/18号)の中の丸山茂徳・東工大教授の「地球温暖化の議論も、その原因が二酸化炭素だとされている論調も間違っています」というコメントと、「日本を覆う、エコ・健康・安全“ファシズム”を疑え!」という記事(2008/2/15号)の中の伊藤公紀・横国大教授の「『不都合な真実』は間違いだらけ」というコメントだ。どちらのコメントも、温暖化論との両論併記ではない。『週刊朝日』が温暖化懐疑論だけを紹介していても、もちろん朝日新聞本紙は地球温暖化の危機を訴え続けている。

 温暖化懐疑論の本が書店の店頭に並んでいるのは、新たな知見によって温暖化懐疑論が注目され始めた……ということではなさそうだし、一部の出版社や新聞社が宗旨変えをしたわけでもなさそうだ。

 少し以前までは、地球温暖化は世の中の多くの人々の関心事ではなかった。しかし、京都議定書などの政治問題とあいまって多くのメディアが地球温暖化を取り上げるようになった。予見される危機を報じて警鐘を鳴らすのはメディアの使命である。当然の帰結として地球温暖化の危機を喚起する記事が氾濫することになった。
 しかし、世の中の論調が一色に染まりそうになると、それに疑念を呈するメディアが出てくるのも常道だ。それは、メディアの動物的本能であり、営業的本能でもある。世の中がいっせいに「地球温暖化阻止のためのCO2削減」を合唱し始めると、そのこと自体に疑念と危機を感じる人や、逆の立場から警鐘を鳴らす人も出てくる。
 いい意味でも悪い意味でも、メディアは危機意識を煽り、事件を作ろうとする。地球温暖化の危機を訴えながら、同時に温暖化懐疑論をもちあげるのは不思議なことではない。今は「温暖化懐疑論」の方が売れるフェーズなのかもしれない。

 とは言っても、いつまでも両論併記で進んでいける課題ではない。地球温暖化の議論の根っこには、現在のサイエンスがまだ温暖化や寒冷化の全体像を明解に説明できる水準にないということがある。現状の知見の評価が論者によって分かれている。サイエンスとしての定説が確立していないとは言っても、サイエンス以外の政治や社会の課題に転嫁せざるを得ない点も多いので、課題が分かりにくくなっている。
 もっとも、世の中のほとんどの課題は困難であり、最適解で効率的に解決できた課題などはなかったのだと思える。

 温暖化懐疑論についてはあらためて整理してみたい。

ヒトラー、レーニン、昭和天皇2008年02月18日

 ソクーロフ監督の『牡牛座 レーニンの肖像』を渋谷のユーロスペースで観た。ロープシンの原作を映画化した『蒼ざめた馬』も同日上映だったので、続けて二本の映画を観た。題材のせいか、両方とも団塊らしきおじさんやおばさんの観客が多かった。私もその一人だけど……。

 閑話休題、『牡牛座 レーニンの肖像』は体力が不自由になった最晩年のレーニンの1日を淡々と描いた作品で、老人介護映画のようでもあった。レーニン夫人のクルプスカヤやレーニンの妹も普通のおばさんで、妙に生々しいリアリティがあった。警備された郊外の屋敷で過ごすレーニンをスターリンが見舞いにやって来るシーンには淡々とした緊張感があった。

 ロシアの映画監督ソクーロフの映画を観るのは、昭和天皇を扱った『太陽』、ヒトラーを扱った『モレク神』に続いて3つ目だ。制作順は『モレク神』『牡牛座 レーニンの肖像』『太陽』だそうだ。3作とも、権力者の姿を日常生活の視点から淡々と描いているのが共通している。『モレク神』の舞台はベルヒティスガーデンの山荘、ヒトラーがエバ・ブラウンたちがいる山荘を訪れ、滞在し、ベルリンに帰るまでの日常生活を描いている。『太陽』も終戦前後の天皇の私生活部分を描いた映画として話題になった。

 ヒトラー、レーニン、昭和天皇と並べてみて、あらためてこの人選に感心する。いずれも20世紀を彩る歴史上の人物であり、いままでソクーロフのような視点で描かれたことがほとんのどなかった人物だ。公人としてのイメージが強くて、私人の部分に関心が思いが到ることが少なかった人物だとも言える。

 この3人以外に、ソクーロフ的な視点から人物像を観たい現代史の大立者は誰だろうかと考えてみたが、あまり思い浮かばない。スターリンやトロツキーには政治的・思想的興味は感じても、その日常生活から何かが浮きあがってくるようには思えない。チャーチルやルーズベルトにも、われわれの興味を引くような謎は少なそうだ。第二次大戦後は絶大な権力者と呼べる人物は少ないし、メディアによって公私ともどもイメージが作られてしまっている人物が増えてきた。あえて、挙げれば毛沢東ぐらいかとも思うが「意外な繊細さ」などもっていなかったように思える。周恩来の方が複雑そうだが、権力者とは言いにくい。金日成、金正日を題材にしたらカリカチュアになってしまう。

 そもそも、ソクーロフはヒトラー、レーニン、昭和天皇を通して何を描いたのだろうか。視点は肯定的でも否定的でもなく、歴史や人物に何らかの批評を述べているのではなさそうだ。権力者にも、一般人と同じ日常生活という内面があるという当然のことをあざとく描いただけとも言えない。神も悪魔も細部に宿り、その蓄積で歴史が作られる、という話でもなさそうだ。
 これらの映画で印象に残ったのは、権力者の周辺の人々の妙にのんびりしたちぐはぐな感じの日常性である。

読み返したい本2008年02月21日

 KKベストセラーズの『一個人』という雑誌の2008年3月号を買った。初めて手にした雑誌だが、ターゲットは団塊世代だろうか。誌名のあざとさが面白い。
 目当ては「人生、もう一度読み返したい本」という記事。12人の作家が「人生、もう一度読み返したい究極の3冊」を挙げている。それぞれの作家を書斎で撮影しているのがいい。人の書斎の写真を見るのは興味深い。

 12人の作家を年齢順に並べると、以下のようになる。
  早乙女貢(1926年生まれ)
  西村京太郎(1930年生まれ)
  小松左京(1931年生まれ)
  森村誠一(1933年生まれ)
  筒井康隆(1934年生まれ)
  阿刀田高(1935年生まれ)
  夏木静子(1938年生まれ)
  佐高信(1945年生まれ)(作家かなあ?)
  高橋三千綱(1948年生まれ)
  花村萬月(1955年生まれ)
  石田衣良(1960年生まれ)
  室井佑月(1970年生まれ)

 この12人が3点ずつ選んで、つごう36点の紹介になるが、重複している作品が一つだけある。早乙女貢、小松左京、筒井康隆の3氏が選んだ『カラマーゾフの兄弟』だ。
 私自身、わが人生でもう一度読み返したい本は何だろうと考えてみると、『カラマーゾフの兄弟』は読み返したい本の筆頭に入る。
 その他に、12人が選んだ作品の中で、私も読み返してみたいと思ったのは『大地』パールバック(阿刀田高氏選)、『死霊』埴谷雄高(小松左京氏選)、『第四間氷期』安部公房(小松左京氏選)などだ。また、森村誠一氏が挙げた『モンテ・クリスト伯』も読み返したい。ただし、昔読んだのは抄訳の『巌窟王』(一応、上下2冊だった)なので、正確には読み返すのではなく「完訳で読みたい」本だ。抄訳を読んだ直後から、完訳を読みたいと思いつつ、いつの間にか40年以上が経過した。

 「人生、もう一度読み返したい本」というからには、それなりの人生を経過したうえでの思いになる。だから、私(1948年生まれ)の世代ぐらいからのテーマになると思うが、「読み返す」前に、「いつか読まねばと気になっている古典や名作」がたくさんある。もちろん、最近の本やこれから出て来る本への関心も失いたくない。

 で、あらためて、限りある残り人生の時間で「読み返したい本」とは何だろうかと考えてみる。

 読書とは、旅行に似た「ひとつの体験」だ。その体験で得た精神の刺激(感動と言ってもいい)が大きいと、もう一度体験してみたくなる。何度もディズニーランドに行って楽しむような気分で本を読み返すこともあるし、謎に満ちた秘境をさまざまをルートで繰り返し探検するような読み返し方もある。
 内容の記憶は曖昧になっていても、その本を読んだときに得た印象や精神の動揺の記憶がいつまでも強く残っている本は読み返したくなる。そのような本の多くは10代から20代前半にかけて読んだ本だ。読書による「感動力」はその頃がピークなのだろうか。その頃以降は、実人生の「体験」が読書による「体験」を凌駕するのかもしれないし、実人生の体験によって感性が磨耗していくのかもしれない。
 20代前半から後の人生で面白く読んだ本も少なくないはずだが、何故か、それらの本の感動の記憶の大半は時の経過とともに薄れてしまっている。残念なことだ。

 「読み返したい本」とは、青春の影と世代の記憶を色濃く反映した本のリストになる。