ヒトラー、レーニン、昭和天皇2008年02月18日

 ソクーロフ監督の『牡牛座 レーニンの肖像』を渋谷のユーロスペースで観た。ロープシンの原作を映画化した『蒼ざめた馬』も同日上映だったので、続けて二本の映画を観た。題材のせいか、両方とも団塊らしきおじさんやおばさんの観客が多かった。私もその一人だけど……。

 閑話休題、『牡牛座 レーニンの肖像』は体力が不自由になった最晩年のレーニンの1日を淡々と描いた作品で、老人介護映画のようでもあった。レーニン夫人のクルプスカヤやレーニンの妹も普通のおばさんで、妙に生々しいリアリティがあった。警備された郊外の屋敷で過ごすレーニンをスターリンが見舞いにやって来るシーンには淡々とした緊張感があった。

 ロシアの映画監督ソクーロフの映画を観るのは、昭和天皇を扱った『太陽』、ヒトラーを扱った『モレク神』に続いて3つ目だ。制作順は『モレク神』『牡牛座 レーニンの肖像』『太陽』だそうだ。3作とも、権力者の姿を日常生活の視点から淡々と描いているのが共通している。『モレク神』の舞台はベルヒティスガーデンの山荘、ヒトラーがエバ・ブラウンたちがいる山荘を訪れ、滞在し、ベルリンに帰るまでの日常生活を描いている。『太陽』も終戦前後の天皇の私生活部分を描いた映画として話題になった。

 ヒトラー、レーニン、昭和天皇と並べてみて、あらためてこの人選に感心する。いずれも20世紀を彩る歴史上の人物であり、いままでソクーロフのような視点で描かれたことがほとんのどなかった人物だ。公人としてのイメージが強くて、私人の部分に関心が思いが到ることが少なかった人物だとも言える。

 この3人以外に、ソクーロフ的な視点から人物像を観たい現代史の大立者は誰だろうかと考えてみたが、あまり思い浮かばない。スターリンやトロツキーには政治的・思想的興味は感じても、その日常生活から何かが浮きあがってくるようには思えない。チャーチルやルーズベルトにも、われわれの興味を引くような謎は少なそうだ。第二次大戦後は絶大な権力者と呼べる人物は少ないし、メディアによって公私ともどもイメージが作られてしまっている人物が増えてきた。あえて、挙げれば毛沢東ぐらいかとも思うが「意外な繊細さ」などもっていなかったように思える。周恩来の方が複雑そうだが、権力者とは言いにくい。金日成、金正日を題材にしたらカリカチュアになってしまう。

 そもそも、ソクーロフはヒトラー、レーニン、昭和天皇を通して何を描いたのだろうか。視点は肯定的でも否定的でもなく、歴史や人物に何らかの批評を述べているのではなさそうだ。権力者にも、一般人と同じ日常生活という内面があるという当然のことをあざとく描いただけとも言えない。神も悪魔も細部に宿り、その蓄積で歴史が作られる、という話でもなさそうだ。
 これらの映画で印象に残ったのは、権力者の周辺の人々の妙にのんびりしたちぐはぐな感じの日常性である。