ショパンについて一夜漬け勉強 ― 2026年11月02日
11月3日に「コンサート×おしばい ショパン物語」という舞台を観る予定なので、にわか勉強でショパンに関する薄い文庫本を読んだ。
『ショパン:カラー版作曲家の生涯』(遠山一行/新潮文庫)
カラー写真や図版が満載の文庫で、識者6人(三善晃、遠山慶子、佐藤允彦、若桑みどり、中田耕治、中村紘子)による見開きエッセイも挿入されている。本文はさほど長くない。門外漢の私には手頃な入門書だった。
私は音楽方面に暗いので、楽曲に関する論評はよくわからない。だが、39歳で生涯を終えた天才作曲家の相貌がおぼろに見えた気がする。
9年前、ポーランド旅行をしたとき、ワルシャワでショパンが住んだ家を見た。ショパンの心臓を埋め込んだ柱のある教会も訪れた。ポーランド生まれのショパンはパリで亡くなり、心臓だけが帰郷したと聞いた。また、高校世界史の参考書で「1830年の祖国ポーランド11月蜂起の失敗を聞いたショパンは“ピアノで悲しみを訴える”としてエチュード〈革命〉を作曲した」という記述を読んだことがある。ショパンに関する私の知識は、ほぼそれだけだった。
本書の序章「ショパンの謎」に引き込まれた。ショパンは謎の人らしい。20歳の時にポーランドから出国するが、どこに行こうとしたかのか、必ずしも明らかでないそうだ。その後、一度も祖国に戻ろうとしなかった理由も定かでない。自分の内面を他人に明かすことがない人だった。
ショパンの謎は大国のはざまで翻弄されたポーランドの歴史に関連している部分も多そうだ。ショパンの父はポーランドに移住したフランス人である。一時婚約していた女性から「ショピンスキというポーランド名でないのが残念」と言われこともある。ショパンはフランス名なのだ。
著者によれば、エチュード〈革命〉がワルシャワ蜂起と関連しているかは不明だそうだ。
ショパンは1831年(21歳)からパリ暮らしを始め、1849年(39歳)、結核で亡くなる。7月革命(1830年)の翌年から2月革命(1848年)の翌年までの18年だ。この間、ハイネ、バルザック、ドラクロワらと親交を結び、女性作家ジョルジュ・サンドと愛人関係になり長年にわたって共に暮らす。
ドラクロワとは特に親しかったが、その劇的な画風になじむことはできなかった。サロンでの交流を好んだショパンについて、著者は次のように述べている。
「自分の心を他人にあかすことを嫌ったショパンは、サロンという洗練された社交の場でこそ自分を守ることができるのを知っていた。」
本書から伝わってくるショパンの姿は、内面に深い孤独をかかえた、ニヒルとユーモアが漂う人物である。
『ショパン:カラー版作曲家の生涯』(遠山一行/新潮文庫)
カラー写真や図版が満載の文庫で、識者6人(三善晃、遠山慶子、佐藤允彦、若桑みどり、中田耕治、中村紘子)による見開きエッセイも挿入されている。本文はさほど長くない。門外漢の私には手頃な入門書だった。
私は音楽方面に暗いので、楽曲に関する論評はよくわからない。だが、39歳で生涯を終えた天才作曲家の相貌がおぼろに見えた気がする。
9年前、ポーランド旅行をしたとき、ワルシャワでショパンが住んだ家を見た。ショパンの心臓を埋め込んだ柱のある教会も訪れた。ポーランド生まれのショパンはパリで亡くなり、心臓だけが帰郷したと聞いた。また、高校世界史の参考書で「1830年の祖国ポーランド11月蜂起の失敗を聞いたショパンは“ピアノで悲しみを訴える”としてエチュード〈革命〉を作曲した」という記述を読んだことがある。ショパンに関する私の知識は、ほぼそれだけだった。
本書の序章「ショパンの謎」に引き込まれた。ショパンは謎の人らしい。20歳の時にポーランドから出国するが、どこに行こうとしたかのか、必ずしも明らかでないそうだ。その後、一度も祖国に戻ろうとしなかった理由も定かでない。自分の内面を他人に明かすことがない人だった。
ショパンの謎は大国のはざまで翻弄されたポーランドの歴史に関連している部分も多そうだ。ショパンの父はポーランドに移住したフランス人である。一時婚約していた女性から「ショピンスキというポーランド名でないのが残念」と言われこともある。ショパンはフランス名なのだ。
著者によれば、エチュード〈革命〉がワルシャワ蜂起と関連しているかは不明だそうだ。
ショパンは1831年(21歳)からパリ暮らしを始め、1849年(39歳)、結核で亡くなる。7月革命(1830年)の翌年から2月革命(1848年)の翌年までの18年だ。この間、ハイネ、バルザック、ドラクロワらと親交を結び、女性作家ジョルジュ・サンドと愛人関係になり長年にわたって共に暮らす。
ドラクロワとは特に親しかったが、その劇的な画風になじむことはできなかった。サロンでの交流を好んだショパンについて、著者は次のように述べている。
「自分の心を他人にあかすことを嫌ったショパンは、サロンという洗練された社交の場でこそ自分を守ることができるのを知っていた。」
本書から伝わってくるショパンの姿は、内面に深い孤独をかかえた、ニヒルとユーモアが漂う人物である。
『コンサート×おしばい ショパン物語』を鑑賞 ― 2026年11月03日
那覇文化劇場なはーと大劇場で『コンサート×おしばい ショパン物語』を鑑賞した。「みむみむの森」というクラシック音楽普及を目的にした音楽家団体主催の企画である。
中学生以下の子供は無料招待なので、観客の半数以上が子供だった。後期高齢者の私にとって、多くの子供との同席は稀有の体験である。少子高齢化と言うものの、子供がウジャウジャいるではないかと思った。根拠なく多少の安心を感じてしまった。コンサートの途中で子供の泣き声が聞こえたりもする。
ピアノ(三村真理)+ヴァイオリン3名、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエの9名による演奏が中心の舞台だった。
曲目はピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11で、3楽章から成る。第1楽章と第2楽章の間、第2楽章と第3楽章の間の二回、ショパンに扮した役者の独白劇が入る。計1時間の「コンサート×おしばい」だった。
ショパンは20歳でワルシャワを離れる。すでに天才と評価され国際的な活躍が期待されていた。ワルシャワを離れる直前の演奏会のために作曲したのが今回の演奏曲である。私には聴き覚えのない曲だが、クラシックの生演奏に至福の時を過ごした。
新潮文庫『ショパン』を読んだばかりなので独白劇の部分も理解しやすかった。最初の独白は、ワルシャワを離れるにあたっての躊躇や家族・友人への思いを語っている。演奏曲とシンクロする独白である。
二番目の独白はウィーン滞在中である。役者の衣装は変わっているが、最初の独白からさほど時日は経っていない。ロシアに占領されたポーランドでの蜂起の失敗、反ポーランド感情が高まったウィーンなどに関する状況や心境が語られる。
アンコールでピアニストが演奏したのはモーツァルトの『トルコ行進曲』だった。ここは『エチュード〈革命〉』を演奏してほしかった。子供の観客が多いのでポピュラーな曲でサービスしたのだと思うが。
中学生以下の子供は無料招待なので、観客の半数以上が子供だった。後期高齢者の私にとって、多くの子供との同席は稀有の体験である。少子高齢化と言うものの、子供がウジャウジャいるではないかと思った。根拠なく多少の安心を感じてしまった。コンサートの途中で子供の泣き声が聞こえたりもする。
ピアノ(三村真理)+ヴァイオリン3名、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエの9名による演奏が中心の舞台だった。
曲目はピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11で、3楽章から成る。第1楽章と第2楽章の間、第2楽章と第3楽章の間の二回、ショパンに扮した役者の独白劇が入る。計1時間の「コンサート×おしばい」だった。
ショパンは20歳でワルシャワを離れる。すでに天才と評価され国際的な活躍が期待されていた。ワルシャワを離れる直前の演奏会のために作曲したのが今回の演奏曲である。私には聴き覚えのない曲だが、クラシックの生演奏に至福の時を過ごした。
新潮文庫『ショパン』を読んだばかりなので独白劇の部分も理解しやすかった。最初の独白は、ワルシャワを離れるにあたっての躊躇や家族・友人への思いを語っている。演奏曲とシンクロする独白である。
二番目の独白はウィーン滞在中である。役者の衣装は変わっているが、最初の独白からさほど時日は経っていない。ロシアに占領されたポーランドでの蜂起の失敗、反ポーランド感情が高まったウィーンなどに関する状況や心境が語られる。
アンコールでピアニストが演奏したのはモーツァルトの『トルコ行進曲』だった。ここは『エチュード〈革命〉』を演奏してほしかった。子供の観客が多いのでポピュラーな曲でサービスしたのだと思うが。
作者の秀吉への愛が感じられる『新史太閤記』 ― 2026年11月04日
司馬遼太郎の『新史太閤記』を読んだ。
『新史太閤記(上)(下)』(司馬遼太郎/新潮文庫)
この文庫本の発行は1973年5月。数カ月前、私が近所の古書店で入手したのは2025年11月の105刷である。大河ドラマ『豊臣兄弟』を当て込んだ増刷だとしても、105刷という数字に「国民作家」の貫禄を再認識した。
私が本書を入手したのも大河ドラマが契機だ。と言っても、ドラマを観たのは「賤ケ岳」あたりまでで、その後は見逃している。
司馬遼太郎の『国盗り物語』を読んだのは数カ月前、『関ケ原』 『城塞』『覇王の家』を読んだのが9年前、『播磨灘物語』を読んだのはかなり昔だ。斉藤道三、織田信長、明智光秀、黒田官兵衛、徳川家康らを扱った司馬作品を読み、この時代の秀吉の物語が中ヌケ未読なのが少々気になっていた。
『豊臣兄弟』を契機に読んだ本書、弟の秀長はほとんど登場しない。前半の美濃稲葉城攻めの箇所で、次のような人物評がある。
「温厚で慧く、猿の補助者としては足手まといではない。豊臣政権末期、51歳で死んだが、生前豊臣一族のなかではもっとも人望があり、もしかれが生きていれば豊臣家はあのようなかたちでは亡びなかったであろうとさえいわれた。」
このように述べているが、本書には「あのようなかたちでの亡び」に関わる記述はない。上下2巻で1000頁を超える秀吉の一代記の最終章は小牧長久手の戦いの後の家康との和睦(家康の上洛)であり、その後を省略している。
物語の終盤で「この男の生涯のおわりは、家康上洛のこの時期からさほど長くもなく、わずか13年目の慶長3年の8月に死ぬ。」と述べた後、手短に辞世を紹介して幕になる。
晩年13年の記述がないこの「太閤記」には茶々(淀殿)も千利休も朝鮮出兵も登場しない。作者が描きたかった秀吉像は家康上洛の頃までだったようだ。その後の秀吉の逸脱した姿を描くのが忍びがたかったのかもしれない。
作者が描く秀吉は「秘めた暗さ」を「明るさ」で覆い隠すことができる愛嬌のある人物である。商人的価値観で世の中を先見的に見通すことができ、人を殺さないという信条・方針もある。人たらしである。たらされることのない家康も、たらされたふりをせざる得なくなる。愉快な話だ。
司馬遼太郎の歴史小説には人物評と箴言が散りばめられている。登場人物の心理描写も明解だ。なるほど、そういう見方があるのかと思わせる芸に魅力がある。秀吉の参謀になると決意する黒田官兵衛に関して「小事をなすのは力量である。大事をなすのは天運である、と官兵衛はおもっていた。」などと描写しているのに得心してしまう。
この小説で面白いのは、やはり信長と秀吉の関係である。秀吉は信長に心酔・傾倒し、信長の心中を察しながら行動する。信長は秀吉を「使える」人材と見ている。そんな関係のなかで、信長は自覚することなく秀吉から学んだ部分があり、秀吉はひそかに信長の器量より自分の方がひと桁おおきいと思っている――としている。
作者の秀吉への愛が感じられる歴史小説だ。
『新史太閤記(上)(下)』(司馬遼太郎/新潮文庫)
この文庫本の発行は1973年5月。数カ月前、私が近所の古書店で入手したのは2025年11月の105刷である。大河ドラマ『豊臣兄弟』を当て込んだ増刷だとしても、105刷という数字に「国民作家」の貫禄を再認識した。
私が本書を入手したのも大河ドラマが契機だ。と言っても、ドラマを観たのは「賤ケ岳」あたりまでで、その後は見逃している。
司馬遼太郎の『国盗り物語』を読んだのは数カ月前、『関ケ原』 『城塞』『覇王の家』を読んだのが9年前、『播磨灘物語』を読んだのはかなり昔だ。斉藤道三、織田信長、明智光秀、黒田官兵衛、徳川家康らを扱った司馬作品を読み、この時代の秀吉の物語が中ヌケ未読なのが少々気になっていた。
『豊臣兄弟』を契機に読んだ本書、弟の秀長はほとんど登場しない。前半の美濃稲葉城攻めの箇所で、次のような人物評がある。
「温厚で慧く、猿の補助者としては足手まといではない。豊臣政権末期、51歳で死んだが、生前豊臣一族のなかではもっとも人望があり、もしかれが生きていれば豊臣家はあのようなかたちでは亡びなかったであろうとさえいわれた。」
このように述べているが、本書には「あのようなかたちでの亡び」に関わる記述はない。上下2巻で1000頁を超える秀吉の一代記の最終章は小牧長久手の戦いの後の家康との和睦(家康の上洛)であり、その後を省略している。
物語の終盤で「この男の生涯のおわりは、家康上洛のこの時期からさほど長くもなく、わずか13年目の慶長3年の8月に死ぬ。」と述べた後、手短に辞世を紹介して幕になる。
晩年13年の記述がないこの「太閤記」には茶々(淀殿)も千利休も朝鮮出兵も登場しない。作者が描きたかった秀吉像は家康上洛の頃までだったようだ。その後の秀吉の逸脱した姿を描くのが忍びがたかったのかもしれない。
作者が描く秀吉は「秘めた暗さ」を「明るさ」で覆い隠すことができる愛嬌のある人物である。商人的価値観で世の中を先見的に見通すことができ、人を殺さないという信条・方針もある。人たらしである。たらされることのない家康も、たらされたふりをせざる得なくなる。愉快な話だ。
司馬遼太郎の歴史小説には人物評と箴言が散りばめられている。登場人物の心理描写も明解だ。なるほど、そういう見方があるのかと思わせる芸に魅力がある。秀吉の参謀になると決意する黒田官兵衛に関して「小事をなすのは力量である。大事をなすのは天運である、と官兵衛はおもっていた。」などと描写しているのに得心してしまう。
この小説で面白いのは、やはり信長と秀吉の関係である。秀吉は信長に心酔・傾倒し、信長の心中を察しながら行動する。信長は秀吉を「使える」人材と見ている。そんな関係のなかで、信長は自覚することなく秀吉から学んだ部分があり、秀吉はひそかに信長の器量より自分の方がひと桁おおきいと思っている――としている。
作者の秀吉への愛が感じられる歴史小説だ。
『梟の城』は「時代」を感じさせる時代小説 ― 2026年11月06日
司馬遼太郎の長編第1作を読んだ。作家36歳のときの『梟の城』である。本作で直木賞を受賞し、流行作家になった。
『梟の城』(司馬遼太郎/新潮文庫)
戦国末期の忍者を描いた本作の刊行は1959年、この文庫本の発行は1965年4月である。解説の執筆者が村松剛なのが意外だ(執筆日付:1965年3月)。
1959年は、小学生の私がテレビで「月光仮面」を観ていた頃だ。忍者が活躍する「風小僧」も観ていた。あの頃、司馬遼太郎がこんな忍者小説を書いていたのかと、不思議な感慨をいだいた。
十代、二十代の私には司馬遼太郎は関心外の作家だった(読者になったのは三十代以降)。だが、中学から高校にかけての時期、なぜか村松剛に関心があり『ナチズムとユダヤ人』『ユダヤ人』『女性的時代を排す』などを読んだ記憶がある。それ以降、村松剛の本はほとんど読んでいない。
私の頭の中で司馬遼太郎と村松剛は結びつかない。1965年時点での解説によれば、村松剛は『梟の城』をきっかけに司馬遼太郎に病みつきになったそうだ。「読者として大衆層だけではなく、気むずかしい知識人をも吸引できる知識人の時代もの作家」と評価している。
半世紀以上の年月を経た2026年、77歳になった私が『梟の城』とその解説を読んで感じたのは「時代」である。「古い」「時代は変わった」という感慨とも言える。フェミニズム的にアウトに近い箇所もある。
1959年頃、司馬遼太郎は「忍豪作家」と呼ばれ、本人はそう呼ばれることを嫌っていたそうだ。山田風太郎の忍法小説と同時期に「忍豪作家」だったことに驚き、感心した。
司馬遼太郎の忍者は山田風太郎ほど荒唐無稽かつ奔放ではない。だが、リアル忍者とも言い切れない。超人に近い忍者に近代人的心理が混入している。私にはそれが、木に竹を接いだアンバランスに感じられた。だから、登場人物たちの行動や心理に感情移入し難い部分があり、不可解な物語とも感じられた。
と言うものの、フィクションに史実を絡ませる技には面白さを感じた。
『梟の城』(司馬遼太郎/新潮文庫)
戦国末期の忍者を描いた本作の刊行は1959年、この文庫本の発行は1965年4月である。解説の執筆者が村松剛なのが意外だ(執筆日付:1965年3月)。
1959年は、小学生の私がテレビで「月光仮面」を観ていた頃だ。忍者が活躍する「風小僧」も観ていた。あの頃、司馬遼太郎がこんな忍者小説を書いていたのかと、不思議な感慨をいだいた。
十代、二十代の私には司馬遼太郎は関心外の作家だった(読者になったのは三十代以降)。だが、中学から高校にかけての時期、なぜか村松剛に関心があり『ナチズムとユダヤ人』『ユダヤ人』『女性的時代を排す』などを読んだ記憶がある。それ以降、村松剛の本はほとんど読んでいない。
私の頭の中で司馬遼太郎と村松剛は結びつかない。1965年時点での解説によれば、村松剛は『梟の城』をきっかけに司馬遼太郎に病みつきになったそうだ。「読者として大衆層だけではなく、気むずかしい知識人をも吸引できる知識人の時代もの作家」と評価している。
半世紀以上の年月を経た2026年、77歳になった私が『梟の城』とその解説を読んで感じたのは「時代」である。「古い」「時代は変わった」という感慨とも言える。フェミニズム的にアウトに近い箇所もある。
1959年頃、司馬遼太郎は「忍豪作家」と呼ばれ、本人はそう呼ばれることを嫌っていたそうだ。山田風太郎の忍法小説と同時期に「忍豪作家」だったことに驚き、感心した。
司馬遼太郎の忍者は山田風太郎ほど荒唐無稽かつ奔放ではない。だが、リアル忍者とも言い切れない。超人に近い忍者に近代人的心理が混入している。私にはそれが、木に竹を接いだアンバランスに感じられた。だから、登場人物たちの行動や心理に感情移入し難い部分があり、不可解な物語とも感じられた。
と言うものの、フィクションに史実を絡ませる技には面白さを感じた。




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