『ドン・キホーテ 後篇』は前篇以上にメタフィクション2023年08月26日

『ドン・キホーテ 後篇(1)(2)(3)』(セルバンテス、牛島信明訳/岩波文庫)
 『ドン・キホーテ 前篇』に続いて『後篇』全3冊を読んだ。

 『ドン・キホーテ 後篇(1)(2)(3)』(セルバンテス、牛島信明訳/岩波文庫)

 『後篇』の出版は『前篇』の10年後(1615年)だが、物語内の時間は連続している。『前篇』は、約2カ月にわたる遍歴からドン・キホーテが帰郷して終わっている。『後篇』では、帰郷したドン・キホーテが、約1カ月の休養の後、再びサンチョ・パンサを従えて旅立つ。遍歴は約3カ月にわたる。

 『後篇』は時間的には『前篇』と連続した物語だが、『後篇』の世界は『前篇』と大きく異なる。『ドン・キホーテ 前篇』が出版された後の世界になっているのだ。

 『後篇』の登場人物の何人かは評判の『ドン・キホーテ 前篇』をすでに読んでいる。ドン・キホーテ自身は、知人から自分の伝記が出版されていると聞いているだけで、読んではいない。騎士道物語を山ほど読んできたドン・キホーテは、自分の伝記が新たな騎士道物語として流布しているのは当然と了解している。

 『ドン・キホーテ 前篇』が評判になった頃、セルバンテスではない人物が書いた『ドン・キホーテ 続篇』が出版されたそうだ。『続編』という名の贋作である。『後篇』には、この『続編』に対する辛辣な批判も盛り込まれている。ドン・キホーテが印刷工場で『続編』を目撃したり、旅籠で『続編』の登場人物に遭遇して『続編』の誤謬を指摘したりもする。

 こんな形で『前篇』や『続篇』(贋作)を取り入れた『後篇』は『前篇』以上にメタフィクションである。17世紀初めにこんなメタフィクションが存在したことに驚くと同時に、メタフィクションは文学の原初的要素かもしれないと思った。

 『前篇』を読んでドン・キホーテの狂気を知っている人々が、この狂人を愚弄して楽しむために「高名な遍歴の騎士」として遇する――そんな悪ふざけの繰り返しが『後篇』のパターンである。手の込んだ愚弄がしつこいので、悪ふざけに邁進する人々の愚かさまでもが露呈される。

 『後篇』で目立つのがサンチョ・パンサの能弁と有能だ。ことわざを連射する饒舌も面白く、『前篇』以上に生彩がある。

 この物語は、最終的に傷心のドン・キホーテが自分の意思で帰郷、その後、正気に戻って静かに息を引き取るまでを描いている。長い物語なのにさほど長さを感じないが、長大な饒舌につきあった気分にはなる。退屈させない饒舌である。

 訳文はとても読みやすく、訳注も充実している。「遅かりし由良助よ!」なんて訳文にはシビれた。忠臣蔵は『ドン・キホーテ』から約1世紀後だが…。

 この物語を読む前、「前篇・後篇」よりは「正篇・続篇」の方が適切なのでは思った。しかし、文庫本全6冊を読み終えると、「正篇・続篇」ではなく「前篇・後篇」が適切だとわかった。『前篇』だけではドン・キホーテの面白さは半分しか伝わらない。『後篇』によって物語世界が大きくふくらむのだ。レコンキスタ後の17世紀初頭のスペインにおける改宗モーロ人(キリスト教に改宗したムーア人)の状況などを垣間見ることもできる。