小学生時代に読んだ『少年少女世界文学全集』を読み返す2017年09月21日

『少年少女世界文学全集26 フランス編(2) ああ無情、三銃士、マテオ・ファルコーネ』(講談社/1958.9)
◎59年前の講談社版『少年少女世界文学全集』

 『レ・ミゼラブル』の完訳本を読了すると、子供の頃に読んだ『ああ無情』を読み返したくなった。子供時代の本を還暦過ぎまで保管している人は珍しい。私もそんな本は散失しているが、例外的に講談社版『少年少女世界文学全集』(全50巻)だけは八ヶ岳の山小屋の物置に保管している。そんな場所に置いているのは、わが家の書架に余裕がないからだ。先日、山小屋に行った際に次の1巻を持ち帰った。

 『少年少女世界文学全集26 フランス編(2) ああ無情、三銃士、マテオ・ファルコーネ』(講談社/1958.9)

 『ああ無情』収録の巻は全50巻の26巻目となっているが、この全集の第1回配本である。私には印象深い1冊だ。奥付によれば発行は59年前の1958年9月。私がこの本を手にしたのは小学4年の時のようだ。箱入りハードカバーの立派な造本の手触りの記憶は今も残っている。収録されている全作品を読んだはずだ。

 この『少年少女世界文学全集』は1958年9月から毎月1冊ずつ書店から届けられた。私は小学4年から中学2年までの5年間、毎月この全集の新刊に接していた。全巻を読破したわけではないし、最終巻配本の頃には子供っぽい本だと感じるようになっていたようにも思うが、わが少年時代の読書のメインだったのは間違いない。この全集を私と弟に与えてくれた亡き両親に感謝する。

 わが団塊世代のかなりの人数がこの全集を愛読したと推測される。ある同世代の著名人がこの全集に言及した新聞記事を読んだことがある。34年前に結婚するとき、わが実家に『少年少女世界文学全集』が保管されていることを知った同世代の家内が、ぜひそれを1DKの新居に搬入したいと所望した。子供時代に読んだ懐かしい全集を身近に置きたいと考えたようだ。そんな経緯から『少年少女世界文学全集』全50巻はたびたびの引っ越しを耐えて、いまは山小屋の物置に収まっている。

◎短編の方が記憶に残っている

 閑話休題。『ああ無情』を読み返したついでに『少年少女世界文学全集26』収録の全作品を59年ぶりに読み返した。

 「フランス編(2)」の表題があるこの巻には次の作品が収録されている。

 長編
  『ああ無情』(ユーゴー)
  『三銃士』(デュマ)
 短編
  『マテオ・ファルコーネ』(メリメ)
  『ジュールおじさん』(モーパッサン)
  『小さい町で』(シャルル・ルイ・フィリップ)
  『朝のおはなし』(シャルル・ルイ・フィリップ)

 再読するまでもなく59年前の読書記憶が鮮明に残っているのは、長編ではなく短編である。特に『マテオ・ファルコーネ』の印象は強烈で、小学4年の時に受けた衝撃は半世紀以上を経ても薄れていない。『ジュールおじさん』『小さい町で』も話の内容はよく覚えている。『朝のおはなし』は再読しながら記憶がよみがえってきた。

 その後、数知れね小説を読んだとは思うがその大半の記憶がおぼろになっている。なのに、小学4年の時に読んだ短編の記憶は鮮明なのだ。記憶の機構の不思議を感じるとともに、営々と積み重ねてきた年月はいったい何だったのかという虚しさも感じてしまう。

◎『ああ無情』の冒頭は面白いのだが…

 短編の記憶が鮮明なのに対して長編の『ああ無情』と『三銃士』の記憶は不鮮明だ。『ああ無情』に関してはジャン・バルッジャンが司教の館から銀の食器を盗み出して赦される冒頭部分の記憶が残っているだけで、その後の展開はよく覚えていなかった。『三銃士』に至っては、主人公たちの名前以外は何も覚えていない。

 『ああ無情』は那須辰造訳、さしえは向井潤吉だ。私の概算計算では、この『ああ無情』は『レ・ミゼラブル』を10分の1以下の約9%に圧縮している。完訳版を読了した視点から、どんな形に圧縮したのか興味があった。

 ユゴーの「演説」部分を割愛しているのは当然として、冒頭部分のジャン・バルジャンがディーニュの町を去るまでの物語が意外と元版に忠実なのに驚いた。この調子で10分の1以下に圧縮できるのだろうかと懸念していると、後半は駆け足のあらすじ紹介のような形になってきた。

 子供向きに改変されている箇所があるのは仕方ないとしても、コゼットとマリユスの恋愛に関してはかなり省略され、この二人に対するジャンバルジャンの心理的葛藤は割愛されている。ジャベールの人物像も単純化されている。バリケードや地下水道の脱出シーンなどもあるが、「物語」ではなく「あらすじ紹介」だ。だから、読者にとって後半は意味をつかみにくい展開になり、あまり興が乗らない。

◎『三銃士』も駆け足のあらすじ紹介

 デュマの『三銃士』は、いまだに完訳版を読んでいない。だから、どんな物語だったかを確認する興味もあって59年ぶりに読み返した。これも駆け足のあらすじ紹介のような内容で、何を書いてあるかはわかっても、物語の楽しさに浸る気分にはなれなかった。表面的な面白さが多少はあるとしても、わけがわからない話になっているのだ。

◎抄訳は難しい

 ほぼ完訳に近いと思われる短編が記憶に残っているのに、抄訳の長編が記憶に残っていないのは、それがあらすじ紹介になっていて、物語世界に引き込まれにくかったからだと思われる。あらためて、抄訳の難しさを認識した。

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