シカの樹木攻撃がエスカレートした2014年12月01日

上はシカに齧られた3本のカイズカイブキ。下は防御用の網。
 1年半前の昨年6月、八ヶ岳南麓の山小屋の隣地との境ににカイズカイブキを15本植えた。私は境界植樹の必要性をあまり感じていなかったが、この山小屋入手の面倒を見てくれた現地の友人が、自宅に植樹するついでに一緒に植えようと勧めるので、彼に手配をまかせた。その友人は植樹の翌月、急逝してしまった。

 実際に植樹したのは友人と共通の知り合いの植木屋で、15本のカイズカイブキは無事に根付いた。だが半年ほど経った昨年末、その中の1本の中央部分の葉が消失してしまった。下部と上部は緑だが中央部は裸の幹だけになった。その写真を植木屋に見せると、「こんなの見たことないけど、動物に齧られたんじゃないですか」との見立てだった。

 その後、その木は回復しそうに見えたが、中央部に少し葉が出てきても、しばらく経つと、また中央部が裸になっている。繰り返し齧られているようだ。犯人はシカだと思われる。この木に執心しているようだ。今年の秋口には木の上部と下部の緑色が色褪せてきた。この木はダメかなと思った。

 そして先週、山小屋に行ってみると、件の木だけでなく新たに2本の中央部が裸になっている。1本だけの被害から1年経って、シカの樹木攻撃がエスカレートしてきたようだ。最近の新聞記事でも、日本中でシカが繁殖して森林被害が増大していると報じられていた。

 15本植えたカイズカイブキの1本ぐらいは枯れても仕方ないと鷹揚にかまえていたが、このまま手をこまねいていては当方の幼い樹木が全滅するかもしれない。自然界の動物をあなどってはいけない。一昨年、キツツキに2度にわたっ小屋に穴をあけられた。その後1年以上無事なので安心していたら、今年は3個目の穴をあけられた。

 樹木を防御すべく、緊急にシカ対策の網を設置した。納戸にあったありあわせの材料を使った防御策なので、この程度でシカの攻撃を防げるか否かはわからない。何もしないよりはマシだと思っている。

 実は今回の山小屋行きはダイコンの収穫が目的だった。成育状況はイマイチで、半分だけ収穫し残りはさらなる成長を待つことにした。向かいの山荘も来訪中だったので、イマイチのダイコンをおすそ分けした。向かいの人の話では、以前にダイコンを作ったがシカにやられたのでダイコン栽培をやめたそうだ。

 わが山小屋に来襲するシカはダイコンよりカイズカイブキが好物らしい。それがヘンなのかマトモなのかはわからない。

イタリア系の女性作家はコワくて魅力的2014年12月23日

『男性論:ECCE HOMO』(ヤマザキマリ/文春新書)
 『男性論 ECCE HOMO』(ヤマザキマリ/文春新書)を読んだ。『テルマエ・ロマエ』を書いたマンガ家のエッセイで、出版は約1年前だ。
 先日、たまたま点けていたラジオから流れてきたヤマザキマリさんのトークが面白かったので、このマンガ家に興味をいだき、本書を入手した。

 映画『テルマエ・ロマエ』は面白かったが、原作のマンガは読んでいない。その代わりと言うのもヘンだが、本書と並行して『モーレツ! イタリア家族』『プリニウスⅠ』の2冊のマンガを読んだ。

 本書は確かに男性論ではあるが、日本の女性や若者への苦言・提言でもあり、著者の波乱に満ちた人生の半生記でもある。それらが渾然一体となって刺激的な本になっている。

 ヤマザキマリさんは、日本の高校を中退してイタリアに留学し、シングルマザーとなり、その後14歳年下のイタリア人と結婚、これまでの居住地はイタリア、米国、ポルトガルからシリアにまでおよび、自らを「半分外国人」と見なしている。

 このバックボーンから展開される男性論は、著者が古代ローマの魅力とする「寛容性」「ダイナミズム」「増長性」をベースにしている。採り上げられる男たちは古代ローマのハドリアヌス、プリニウスに始まり、中世のフェデリーコ2世、ルネサンスのラファエロを経て現代の日本人にも及ぶ。

 そこで採り上げられている日本人が水木しげると安部公房である。これにはドキッとした。私もこの二人のファンだが、この二人が連名になっていると、トラウマ的記憶が甦ってくるのだ。

 50年近く昔の学生時代、ヘタな短篇小説を書き、著名な助教授に読んでもらう機会があった。そのときの評が「安部公房的というか…ゲゲゲの鬼太郎風かな」で、おのれの無意識が見透かされた気分になった。その後、この二人の名が並んでいるのを見ることがなかったので、本書でドキッとしたのだ。

 そんなことがあり、この二人を採り上げた著者に共感してしまった。私たち団塊世代は1960年代が青春だった。私より約20歳若い著者は「安部公房が生きていて、学生たちがいろんなものに貪欲だった1960年代の日本などに、タイムスリップして様子を見てみたい」とも述べている。こんな科白を読むと、生まれるのが遅すぎた同世代のようにも思え、手前勝手にさらに共感してしまう。

 本書は男性論の範疇を越えて、ヒラヒラした服装やアンチエージングに汲々としている日本女性を辛辣に批判し、空気を読むことにウエイトをおく日本社会を憂いている。「よく言った」と納得してしまう。無責任な年寄りの感想である。

 そんなヤマザキマリさんの文章を読んでいると、どうしても塩野七生さんを思い浮かべてしまう。ずいぶん違うタイプのお二人だが、カブる部分も多いと思う。本書ではイタリア系の作家・須賀敦子さんの魅力を述べているが、塩野七生さんへの言及は次の箇所だけだ。

「塩野七生さんには人物を通して時代を描いた作品として『わが友マキャベッリ』がありますが、わたしなら『わたしの愛したプリニウス』を書くでしょう」

 著者の対抗心が感じられる。また、フェデリーコ2世(ドイツ語読みでフリードリッヒ2世)を採り上げた本書の出版と同時期に塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』が出版されたのも、偶然ではあろうが興味深い。

 本書には「……カエサルが理想の男性像かどうかはさておき、…」という表現があり、こんな箇所にもカエサルに惚れ込んでいる(と思われる)塩野七生さんへの意識を感じてしまう。

 そんなことを思ったのは、本書を読んで、25年前に読んだ塩野七生さんの『男たちへ』を思い出したからだ。具体的な内容は忘れてしまったが、読後感とでもいうべき印象が似ているのだ。塩野七生さんには、女・司馬遼太郎的な警世家の趣があるが、ヤマザキマリさんも将来、そんな存在になるかもしれない。

 ヤマザキマリさんの「半分外国人」的な強さ、臆面のなさを感じるのは次のような表現だ。

 「手塚治虫さん、あるいは石ノ森章太郎さんはむりかもしれないけど、女版・水木しげるにはなれるかな」

 水木しげるの一ファンとしては手塚治虫と同列に扱ってもいいじゃないかと思えるが、水木しげるへの遠慮がないところがすごい。

 また、サブタイトルの「ECCE HOMO」にも日本人離れした思い切りのよさがある。ラテン語で「この人を見よ」である。空気を読む人なら、カッコ付きの邦訳を付すと思う。不親切なラテン語だけのサブタイトルに感心した。

フィールドワークの話は面白い2014年12月29日

『たけしのグレートジャーニー』(ビートたけし/新潮社)
 ある科学者についてネットで検索していて、『たけしのグレートジャーニー』(新潮社)という本を見つけた。ビートたけしと11人の科学者たちとの対談集で、その中に私が関心を抱いている科学者が複数いたので購入した。

 本書は雑誌『新潮45』に連載された対談をまとめたもので、次の11人が登場する。

  1 関野吉晴(探検の達人)
 2 西江雅之(文化人類学の達人)
 3 荻巣樹徳(植物探検の達人)
  4 山崎寿一(ゴリラの達人)
  5 松浦健二(シロアリの達人)
  6 塚本勝巳(ウナギの達人)
  7 長沼毅(辺境生物学の達人)
 8 佐藤克文(海洋動物の達人)
 9 窪寺恒己(ダイオウイカの達人)
 10 鎌田浩毅(地球の達人)
 11 村山斉(宇宙の達人)

 肩書がすべて「…の達人」となっているのは、雑誌連載のタイトルが「達人対談」だったからだろう。それにしても、何とも大らかな肩書だ。それが楽しい。読みやすくて刺激的で面白い対談集だ。うかつにも、ビートたけしがディスカバリー・チャンネルばかり見ている科学愛好者だとは知らなかった。

 ここに登場する大半の「達人」はフィールドワークをベースに研究をしている。だから、科学者であると同時に探検家だ。抽象的な知の探検ではなく体を張った具体的な探検である。10、11の「地球の達人」「宇宙の達人」はフィールドが広大過ぎるので、さすがに具体的な現地報告とはいかないが、他の人々の対談は人外魔境に赴いた探検家の冒険譚を聞く趣がある。

 私の子供時代には、アフリカ探検や南極探検の物語に心がときめいたものだ。昔は地球上に「秘境」がたくさんあったが、いまやその多くが秘境でなくなり、探検に憧れる心も失せてしまったように思える。

 本書を読んで、自分の中で色あせていた探検への憧れがかすかに甦り、探検家たちの物語に抱いた遠い昔のワクワク感を思い出した。

 科学の最前線には興味深い話題がたくさんあり、どれもが刺激的だ。頭だけで探究する分野も魅力的で好奇心を刺激されるが、つかみ所のないもどかしさも感じる。こちらの頭がついて行けないのだから仕方ない。やはり、頭と体の両方を使わなければ探究できない分野の方が感情移入しやすくて面白い。

 頭も体も衰えはじめている身で本書に接し、そんな感想を抱いた。そして、あらためて頭も体も鍛えなければと思った。やれやれ。