私が『小説 琉球処分』を読んだ3つのきっかけ2011年09月28日

『小説 琉球処分(上)(下)』(大城立裕/講談社文庫)
 大城立裕氏の『小説 琉球処分(上)(下)』(講談社文庫)を読んだ。この小説を読むには、次の3つのきっかけがあった。

(1) 今年の春、沖縄旅行をした時、那覇の書店で「菅首相が読んだ」という手書きビラを添えて本書が平積みになっているのを見て、沖縄史を知るためにも読んでおこうかなと思った(旅行の荷物になるので購入せず、帰京後しばらくして入手)。

(2) 東日本大震災を契機に、歴史変動への関心から幕末維新史の本を読むようになり、明治の「琉球処分」に関する記述に遭遇するたびに、未読のこの小説が気になった。

(3) 幕末維新の時代の琉球王国を扱ったNHK BS時代劇『テンペスト』の最終回を見て、積んだままのこの小説を読まねばと急かされる気分になった。

 読み始めると面白くて、一気に読み終えた。フィクションの部分があるとしても、歴史を短時間で体験したような気分になれるのは歴史小説の魅力だ。

 『小説 琉球処分』が出版されたのは1968年、私が大学生の頃だ。その当時から本書の存在は知っていた。タイトルが印象的だったからだ。「琉球処分」という言葉に接したのは、その時が初めてだった。当時の多くの日本人が、そうだったのではないかと思う。

 40年以上前のその頃、沖縄はパスポートがなければ行くことができない遠い地だった。1ドル360円の当時、パスポートを持っている人は少なく、海外旅行は夢だった。
 そして、「米国帝国主義」に占拠された沖縄は「奪還」の対象であり、学生運動のホットな政治テーマのひとつだった。
 いま思えば不思議な気もするが、沖縄とは米国から「解放」しなければならない虐げられた地域という気分が強かった。日本が琉球王国を併合した歴史がある、という認識はあまりなかった。

 だから、「琉球処分」という言葉に接して少し驚いたのだと思う。私たち団塊世代は高校の日本史でも琉球処分について教わっていない、と思う(昔の教科書を確認していないので不確実だが、同世代の友人数人も同意見)。当時の沖縄は「日本」史から抜け落ちていたのだろうか。

 現在の高校日本史の教科書には「琉球処分」という言葉が出ている。また、倅が使った中学社会の教科書(平成5年版)を見ると、これにも琉球が沖縄県になる経緯の記述があった。教わってこなかったのはわれわれの世代だけかと、軽いショックを覚えた。

 そんなことを考えたのは、菅直人前首相も私たちとほぼ同じ世代だからだ。この文庫本のオビには次のように書いてある。

 「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうと思っている」内閣総理大臣 菅直人 

 この文庫本には佐藤優氏の解説が載っていて、これが面白い。オビにあるコメントについての言及もある。首相が『琉球処分』を読んでいると発言したのがきっかけで、古書市場で『小説 琉球処分』の価格が高騰し、急遽、講談社文庫版(本書)が刊行されたようだ。
 『小説 琉球処分』は明治政府による「琉球王国→琉球藩→沖縄県」への移行を描いている。佐藤優氏は、この琉球処分がその後も2回反復されていると指摘している。1回目は1972年の沖縄返還であり、2回目は鳩山首相時代から迷走を始めて現在も継続中の普天間問題だという。傾聴に値する指摘だ。この3つの琉球処分は国家と地域のコミュニケーション不全の問題でもあり、安易な解決が難しい問題だ。

 『小説 琉球処分』を読んで、あらためて感じたのは、ちょっと変に聞こえるかもしれないが「国際化」ということであり、「日本も決して特殊な国ではなく、多くの異国と似たような課題を抱えているのだなあ」という感慨だ。

 民族的には沖縄人もヤマト人も同じ日本民族である。だから、琉球処分を民族問題と捉えるのは間違いかもしれないが、多くの国が抱える民族問題に似た要素もあったと思う。
 世界のあちこちに民族問題、宗教問題、部族問題などが存在し、民族自決主義が正解でないことはもはや明らかである。わが日本は単一民族国家なので、多民族国家の情況を理解しにくと言われている。
 しかし、単一民族国家の安逸は幻想である。国境を越えたコミュニケーションの増大は、さまざまな軋轢を生じながらも、やがては国家の形を変えていくだろう。本書を読み終えて、そんな未来の国家の形を望見したい気分になった。