生誕100年の安部公房と吉本隆明の接点は…2024年10月01日

 今年(2024年)は安部公房生誕100年で、吉本隆明生誕100年でもある。二人とも、半世紀以上昔のわが青春時代のスターだった。私も少なからぬ影響を二人から受けていると思う。と言っても、この二大スターは異質な存在で、接点は少なかった。

 安部公房は花田清輝に近かったから、「吉本・花田論争」で花田清輝をコテンパンにした吉本隆明にとっては「敵」に近い存在だったと思う。大昔に読んだ吉本隆明の著作のなかに安部公房を揶揄・罵倒する文章がいくつかあった。安部公房が吉本隆明に言及した文章に接した記憶はない。

 だが、先日読んだ『安部公房:消しゴムで書く』(鳥羽耕史)には吉本隆明の名が何か所か出てきた。その情報をベースに、二人の生誕100年を記念して、二人の接点を簡単に辿ってみようと思う。

 二人はともに1924年生まれだが、学年は安部公房がひとつ上だ。1945年8月の日本敗戦のとき安部公房は21歳、吉本隆明は20歳だった。安部公房は1947年に『無名詩集』を自費出版、1948年に東大医学部を卒業している。吉本隆明は1947年に東工大を卒業、1952年に自家版『固有時との対話』を出版する。

 鳥羽氏の伝記によれば、二人は1951年、27歳の頃に接触している。

 「1951年に公房と堀田善衛が春と秋に続けて芥川賞を取った時、東京工業大学で文芸部に所属していた吉本隆明と奥野健男が、二人を呼んで座談会を企画したことがある。この座談会では公房が一人で淡々と喋り、堀田はほとんど何も喋らなかったという。」

 二人の出会いが意外に早かったのに驚いた。その後、1957年に安部公房らが「記録芸術の会」を立ち上げたとき、その発起人会に吉本隆明もいたそうだ。鳥羽氏は次のように述べている。

 「発起人会では村松剛の入会可否をめぐって対立が生じて吉本隆明、武井昭夫、奥野健男らが退場したため、当初のメンバーは26名でスタートした。」

 1957年、二人は決裂したのだ。そして1960年10月、安部公房は「記録芸術の会」が準備してきた月刊誌『現代芸術』(勁草書房)の編集長になる。この雑誌の創刊号に花田清輝の巻頭詩「風の方向」が載る。この詩が60年安保闘争の吉本隆明を揶揄していて、吉本・花田論争のきっかけになる。鳥羽氏のおかげで、安部公房が吉本・花田論争のきっかけに、かなり深く関わっていたと知り、なるほどと思った。

 鳥羽氏の伝記による安部公房と吉本隆明の接点は以上の三点である。それをふまえて、吉本隆明の安部公房への言及を少し探索してみた。

 1960年刊行の『言語にとって美とはなにか』の「第Ⅳ章 表現転移論」では「戦後話体の表出が文学体への上昇過程へ向かった」作品の例として、太宰治「人間失格」、田中英光「さようなら」、安部公房「壁」、高見順「この神のへど」を挙げている。

 1958年発表の「情勢論」では、安部公房の評論「人間未来史観序説」を「マルクス主義者中の「未来バカ」が、今日のマス化現象のなかで、危機感を失い、児戯に類するタワゴトにふけっている好個のエキザンプルである」と痛烈に批判している。

 1963年発表の「「政治と文学」なんてものはない」では『砂の女』を次のように「評価」している。

 「また、安部公房のように才あって徳なしといった政治的オポチュニストが、無意識のうちに、世界の政治的解体を感受した解放感と挫折感を、はじめてわが身につまされて表現したため、過去の作品より出来がよかったというにすぎない『砂の女』や、『金閣寺』をどこまで超えたか疑わしい三島由紀夫の『美しい星』を、ことこまかく論ずる意思もない。」

 1964年発表の「いま文学に何が必要か」という文章では、現代の優れた作品の一つとして『砂の女』などを例示し、次のように述べている。

 「かれの創った作品のなかに、現在の現実社会の病根がすべて鏡になって映されているような、ほんとうの患者こそが重要なのだ。(…)そして、現在、それぞれの個性と陰影をこめて、あたうかぎりほんとうの患者でありえているのは、残念なことに、島尾敏雄、安部公房、三島由紀夫、大江健三郎らの少数の優れた知識人作家のほかにありえないのである。」

 結局は評価しているのだ。吉本隆明の安部公房への言及は他にもありそうだが、私の雑駁な探索で得たのは以上である。

 今年生誕100年を迎えた大物二人、どちらがビッグか、私には判断できない。

60年前、東京・大阪は4時間だった2024年10月03日

 一昨日(2024.10.1)は東海道新幹線開通60年の記念日だった。60年前、私は高校1年生だった。この年の夏休みに上京し、岡山の県立高校から東京の都立高校に2学期から転入した。新幹線開通3カ月前の上京だった。岡山から東京まで何時間かかったは記憶していない。随分長時間だった気がする。

 今年の初めに伯父が101歳で逝った。その遺品を整理していて、東海道新幹線開通時のパンフレットが出てきた。「新幹線電車にお乗りいただき、ありがとうございました」とあるから、当時、乗客に配ったものだと思われる。

 「夢の超特急」は東京・大阪を3時間10分で走ったという記憶が強く残っている。だが、このパンフレットの時刻表を見ると東京・大阪は4時間である。パンフレットには「開業後当分の間は超特急ひかり号は4時間、特急こだま号は5時間で走ります」とあった。

 「当分の間」とはどのくらいの期間なのか、ネットで調べてみた。3時間10分の運行開始は翌年の11月1日だった。13カ月は「ならし走行」だったのだ。

『コーヒーが廻り世界史が廻る』は高踏漫文の歴史エッセイ2024年10月05日

『コーヒーが廻り世界史が廻る:近代市民社会の黒い血液』(臼井隆一郎/中公新書)
 先日、砂糖に着目した歴史書『砂糖の世界史』を読んだ。その印象が残っているうちに、コーヒーに関する次の新書を読んだ。

 『コーヒーが廻り世界史が廻る:近代市民社会の黒い血液』(臼井隆一郎/中公新書)

 この新書を入手したのは5年前だ。榎本武揚への関心から、臼井隆一郎氏の『榎本武揚から世界史が見える』を読んだ。この本に不思議な魅力があったので同じ著者の『コーヒーが廻り世界史が廻る』を入手したが、未読棚に積んだままになっていた。

 著者はドイツ文学者である。本書はコーヒーに関わる文化論的な歴史エッセイである。『榎本武揚から世界史が見える』を読んだときにも感じたが、かなりクセのある文章である。やや衒学的な高踏漫文とも言える。波長が合う読者には面白いが、そうでない読者は辟易するかもしれない。私はその中間である。時々は「やりすぎでは…」と思いつつも面白く読了した。

 本書の前に岩波ジュニア新書の『砂糖の世界史』を読んでいたのは正解だった。ある程度の歴史知識があった方がこの歴史エッセイを楽しめる。砂糖と同様に、世界商品であるコーヒーも奴隷労働で成り立っていたのだ。

 イギリスで発展したコーヒー・ハウス文化の話題も『砂糖の世界史』と共通している。本書が紹介する珍妙なパンフレット「コーヒーに反対する女性の請願」は面白い。このパンフレットによって、イギリスの家庭ではコーヒーでなく紅茶が普及したというのは怪しいが…。

 イスラム神秘主義の修道僧、スーフィーたちが好んだコーヒーはヨーロッパに伝播していく。その歴史は「コーヒー対アルコール」の歴史だったという指摘は興味深い。と言っても、両方ともを好む人は多いと思う。

 砂糖と同様にコーヒーのプランテーションもモノカルチャーを生み出す。1931年、ブラジルは過剰生産したコーヒー豆を大量に廃棄した。廃棄量は世界のコーヒー消費量全体の2年半分だった。蒸気機関車は石炭の替わりにコーヒー豆を燃料にしたという。「コーヒー豆を動力に、香ばしいアロマを発散させながらブラジルの山河を疾走する蒸気機関車」と著者は表現している。驚くべき光景だ。

 本書はさまざまな文献を援用している。引用元はマルクスの『ドイツ・イデオロギー』や吉本隆明の『定本詩集』からレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』まで多様だ。終章はボブ・ディランで締めくくっている。

『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は不気味で面白い2024年10月07日

 吉祥寺シアターで劇団青年座公演『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』(作:別役実、演出:金澤菜乃英、出演:山路和弘、山本龍二、他」を観た。おかしくて不気味な別役ワールドを堪能した。

 舞台には「移動簡易宿泊所」の看板がある。面白い看板だ。旅人にとって、地図で確認できる灯台のような「固定宿泊所」こそが頼りだと思う。だが、考えてみれば、移動(遍歴)する人とともに移動する宿泊所の方が便利かもしれない。と言っても、どこに出現するかわからない宿泊所はあやふやで頼りない。この看板は、不思議世界に誘い込まれる秀逸な空間設定だ。

 『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は、ドン・キホーテとは大きく異なり、騎士は二人、従者も二人である。騎士はかなり年老いてヨボヨボである。そのくせに大食漢で、人殺しの技には長けている。しかも、ドン・キホーテとは逆に、従者より醒めた存在に見える。風車に突撃するのは騎士ではなく従者である。

 騎士と従者の他に、宿の亭主と娘、医師と看護婦、牧師が登場する。医師と看護婦は患者を求めてさすらい、牧師は葬儀を求めて医師たちの後を追うようにさすらっている。これらの人物が遭遇する移動宿泊所で最後まで生き残るのは、遍歴に疲れ果て、死に場所を求めているようにさえ見える騎士二人である。不条理というよりは、人の世のアイロニーが浮かび上がってくる。

田中一村の最晩年作に圧倒される2024年10月09日

 東京都美術館で開催中の田中一村展に行った。雨の平日の午前中だからゆったり鑑賞できるかなと思ったが、予想外の混雑だった。生前は無名だったこの画家の人気を再認識した。

 田中一村(1908-1977)は子供時代から画才を発揮し神童と呼ばれる。東京美術学校(現・東京芸大)日本画科に入学するが、家庭の事情で2カ月で退学し、中央画壇とは距離をおいた画家として69歳の生涯を終える。晩年の約10年は奄美大島に移住し、紬工場の染色工として生活費や絵の具代をかせぎながら画業を続ける。

 没後7年、NHKの『日曜美術館』などで取り上げられ、全国に知られるようになったそうだ。私が田中一村を知ったのは、ほんの数年前である。この展覧会のホームページの案内文に次の記述があった。

 「現在の東京藝術大学に東山魁夷等と同級で入学したものの、2ヶ月で退学。その後は独学で自らの絵を模索した一村。「最後は東京で個展を開いて、絵の決着をつけたい」と述べたその機会が訪れます。」

 没後47年にしての念願の「東京で個展」は大回顧展になった。本人は、ささやかな規模でも生前に個展を開きかっただろうなあ、との思いがよぎった。

 子供時代から晩年までの作品を時系列に並べた展示を観ると、画風の変遷がよくわかる。と同時に、後年の作品に表れる特徴の萌芽を、それ以前の作品のなかに見出すこともできる。自分の表現を探求・深化し続けた画家だと思う。

 月並みな感想だが、やはり最晩年の大作「アダンの海辺」と「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵」に圧倒される。本人が「閻魔大王への手土産」と言った大作である。最晩年の作品が最高傑作という芸術家はあまりいないと思う。早世した人なら最晩年作が最高傑作になるかもしれない。田村一村の場合は精魂尽き果てて逝ったように見える。

『外岡秀俊という新聞記者がいた』は新聞への挽歌か?2024年10月11日

 新聞というメディアの現状と将来に思いをはせざるを得なくなる本を読んだ。

 『外岡秀俊という新聞記者がいた』(及川智洋/田畑書店)

 元朝日新聞編集局長・外岡秀俊へのインタビューをまとめたジャーナリズムに関するオーラル・ヒストリーである。外岡秀俊は2011年3月に早期退職、2021年12月に心不全で死去した。享年68歳だった。彼は朝日新聞入社前から有名人だった。東大法学部在学中の1976年に『北帰行』で文藝賞を受賞して注目されたが、作家の道には進まずに朝日新聞社に入社、新聞記者として内外で活躍した。

 本書の著者は、外岡秀俊より13歳下の元朝日新聞記者である。インタビューは2015年11月から2017年5月まで18回実施したそうだ。著者は「まえがき」で次のように述べている。

 「この記録によって、外岡さんが日本のリーディングペーパーであった朝日の知性と良心を代表しうる最後の記者であったこと、また新聞が生活必需品であり民主主義の主柱とされた時代の掉尾を飾るジャーナリストであったことを証明できたと思う、」

 著者がどんな思いで「最後の」「掉尾を飾る」という言葉を使ったかはわからないが、新聞の現状への諦観が伝わってくる。

 外岡秀俊が朝日新聞社を早期退職したのは、北海道に住む親のそばで暮らすためだったそうだ。再び小説に取り組む意図もあったと思う。退職後の2014年に中原清一郎名義で発表した小説『カノン』を発表している。

 本書を読むと、必ずしも小説家に転身するために退職したのではなく、外岡秀俊は退職後もジャーナリストであり続けたことがわかる。そして、彼の真面目で誠実かつ柔軟な思考が伝わってくる。

 退職後の2014年、朝日新聞が慰安婦報道や吉田調書の問題で揺れているとき、外岡秀俊に「社長になってもらえないか」の打診があったそうだ。「せっかく苦労して辞めたのに戻るなんて考えられない」と固辞している。だが、新聞の将来を悲嘆していたわけではない。「恐らく本はこれからも残るはずですよ。新聞も残る。日本の場合は特に、文化形成にかかわっているから。」とも語っている。

 過去1世紀以上にわたって新聞が担ってきたジャーナリズムという役割はこの先どうなるのだろうか。新聞のない世界を想像するのは難しい団塊世代の私には、将来のメディアの姿がイメージできない。

歌舞伎座「夜の部」の舞台は近代と古代(近世でない)2024年10月13日

 歌舞伎座で錦秋十月大歌舞伎の夜の部を観た。演目は以下の通り。

  婦人系図(おんなけいず)
    本郷薬師縁日
    柳橋柏家
    湯島境内
  源氏物語
    六条御息所(ろくじょうみやすどころ)の巻

 泉鏡花の『婦人系図』が新派の有名作だとは知っていたが、私は新派を観たことはない。今回は仁左衛門と玉三郎の『婦人系図』である。このコンビをいつまで観られるかはわからないので、観なければと思った。

 新派という独特のレトロな雰囲気もたまにはいい。「切れろ、別れろは芸者のときにいう言葉。今の私にゃ死ねと云ってください」という有名台詞をナマで聞くことができて満足した。歌舞伎座の舞台はダイジェスト上演だが、この芝居はフルバージョンで観たいと思った。

 源氏物語は新脚本だそうだ。玉三郎監修の舞台で、六条御息所を玉三郎、光源氏を染五郎が演じる。十二単の平安王朝絵巻の舞台は、やはり絵になる。

 私は現代語訳でも源氏物語を読んでいない。かなり昔に読んだダイジェスト本の内容も失念している。だが、六条御息所の巻は三島由紀夫の『近代能楽集」の『葵上』(ベースは能の葵上)の話なので、多少の親しみがある。『近代能楽集」の『葵上』は、何年か前に美輪明宏主演で観たことがある。

 当然ながら美輪明宏の舞台と玉三郎の舞台はかなり異なる。歌舞伎座の舞台に不気味さは少ない。ハッピーエンド風なのが、とってつけたようだ。

『奏鳴曲 北里と鷗外』は「チビスケ」と呼ばれる「ぼく」の史伝小説2024年10月15日

 半年前に読んだ『北里柴三郎:雷(ドンネル)と呼ばれた男』(山崎光男)は面白い伝記小説だった。北里柴三郎に関してはこれで十分と思っていたが、書店の棚で次の本を見つけ、つい買ってしまった。

 『奏鳴曲 北里と鷗外』(海堂尊/文春文庫)

 本書のサブタイトル「北里と鷗外」に惹かれたのである。『雷と呼ばれた男』にも鷗外は登場するが脇役である。医者としての鷗外に注目するなら「脚気論争」の話だろうと推測し、その経過と顛末を再確認したくなった。

 私は36年前の1988年に『模倣の時代』(板倉聖宣)という本で脚気論争の歴史を知り、驚いた。上下2冊の厚い本だったが一気に読了し、著者に感動の手紙まで投函し、返信の葉書をもらった。読んだ本の著者に手紙を出した唯一の経験だ。

 そんな記憶があり、軍医総監・森林太郎(鷗外)には日清・日露で戦死者以上の脚気死者を出した元凶のひとりという悪役イメージが強い。鷗外の小説は数編を読んでいるだけで、あまり馴染みがない。私のいだく鷗外像は「脚気の悪者・鷗外」である。

 『奏鳴曲 北里と鷗外』の著者・海堂尊氏は医師で小説家である。その作品を読むのは本書が初めてである。エンタメ系歴史小説と思って読み始めたが、思ったほど読みやすくはない。多くの登場人名や医学的事項についての親切な説明が少なく、圧縮記述のように感じる部分もある。しかし、材料の面白さに惹かれて興味深く読了できた。

 著者は「あとがき」で次のように述べている。

 「二人の心情的な交流の記録はほとんど見当たりません。北里は自分についてはほぼ何も書き残さず、鷗外は膨大な日記や小説を残しましたが、都合の悪い部分には触れていません。」

 というわけで、本書は二人のかかわり合いや心情に関しては想像力を大胆に駆使している。ノンフィクションではなく史伝小説である。

 本書の記述は、やや異様だ。基本は三人称なのに、鷗外に関する部分だけは鷗外の一人称になっている。その一人称は「ぼく」である。北里に関する部分は三人称で、北里が鷗外を呼ぶときは一貫して「チビスケ」である。もちろん「ぼく」はこの呼称に不満である。最高位の軍医総監になっても「ぼく」は「チビスケ」と呼ばれる。

 「ぼく」という鷗外の一人称の使い方も不思議である。リアルタイムの一人称ではない。後世(死後?)の一人称のように思えるのだ。おのれの人生を俯瞰した「ぼく」という一人称は三人称に近いかもしれない。

 いずれにしても「ぼく」「チビスケ」という用語は、鷗外の小人物ぶりを表現しているように見える。同時に屈折した鷗外の人間的な姿を描いているとも言える。この史伝小説の主人公は北里ではなく鷗外だと感じた。

『野生の思考』に目を通した2024年10月17日

『野生の思考』(レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房)
 『野生の思考』(レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房)

 昨年末、来年こそはレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読もうと思った。ブリコラージュ(器用仕事。やっつけ仕事)というレヴィ=ストロースの用語に興味がわき、書架に眠っていた『野生の思考』の該当ページを拾い読みしたのが契機である。この本をいつ購入したかは憶えていないが、白い背表紙がいつも気がかりだったのだ。

 年が明け、いつの間にやら10月になった某日、ふと昨年末の気がかりを思い出し、突発的に『野生の思考』を読み始めた。かなりの難物である。途中で何度か投げ出そうと思いつつ、何とか読了した。でも、活字のうわっ面をつらをなでるように目を通しただけという気分である。「読んだ」とは言い難い。

 「訳者あとがき」は、本書を「戦後思想史最大の転換をひき起こした著作」とし、その反響を紹介したうえで次のように述べている。

 「このような(ジャーナリスティックな)見方だけで本書をとらえ、構造主義入門書のつもりで繙くとすれば、おそらく戸惑うことになるに違いない。(…)本書の読解には、その前提になっているレヴィ=ストロース自身の他の著作や、ヨーロッパやアメリカの学問、思想についての広い知識が必要なのである。」

 人類学や言語学の知識のない私が挑むのは無謀であり、難儀するのは当然であった。意味を読み取りにくい箇所は2~3回読み返してダメなら先に進む、という方針で読み進めた。だから空洞がいくつもある。読解できたわけではないので、印象に残った箇所を適当に羅列してみる。

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 「第1章 具体の科学」は比較的読みやすい。神話的思考という言葉が登場し「神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である」とし、ブリコラージュの一例として郵便配達夫シュバルの幻想建築を挙げている。10年前に読んだ『シュバルの理想宮』を思い出し、うれしくなった。

 器用人(ブリコール)に対してエンジニアが登場する。「技師が概念を用いて作業を行なうのに対して、器用人は記号を用いる」という表現にナルホドと思った。

 原著の刊行は1962年、コンピューター普及以前の時代である。第3世代コンピューター(IBM-360、UNVAC-1108)もまだ登場していない。そんな時代に、著者は次のように述べている。

 「知識が集積すればするほど、全体の図式は不明確となる。なぜならば、次元の数が多くなり座標軸の増加が一定の限度を越えると、直観的方法は麻痺してしまうからである。(…)しかしながら、いつか、オーストラリアの諸部族の社会についてのありとあらゆる資料をパンチカードにし、それらの技術・経済的、社会的、宗教的構造が全体として一つの大きな変換群に似ていることを電子計算機を用いて証明できる日を夢みることは許されよう。」

 「変換の体系」を論じた章では、性関係と食物関係の相似などを指摘したうえで「意味消失によって論理のレベルに達することができる」と述べている。

 「トーテミズムとは、弁別的特徴によって規定しうる自律的制度ではない。地球上のある特定の文明形式の特徴となる制度でもない。それは伝統的にはトーテミズムの正反対とされている社会制度〔カースト制〕のかげにも見つけ出すことができる「操作様式」である。」

 「本来の意味での下部構造の研究を発展させるのは、民勢統計学、工学、歴史地理学、民族誌の助けを借りて歴史学がやっていただきたい。下部構造そのものは私の主要な研究対象ではない。民族学はまず第一に心理の研究なのであるから。」

 「社会構造と分類範疇体系との間に弁証法的関係が存在することには疑問の余地がないけれども、後者が前者の効果ないし結果であるとするのは正しくない。それらはどちらも、めんどうな相互調整の作業を経た上で、両者共通の基層である人間と世界との関係の歴史的地域的なある様態を表示するものなのである。」

 「歴史はつねに何かのための歴史である。歴史は不偏公正たらんと努めてもなお偏向性をもつものであり、部分的であることは免れ得ない。」

 「可解性探究のゴールが歴史であるというのはとんでもない話で、歴史こそあらゆる 可解性探究の出発点である。」

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 本書には興味深く読める箇所と難解で読解できない箇所が混在している。その全体を通して、ブリコラージュなどに基づいた「野生の思考」の実態を提示しているのだと思う。それは、現代の科学技術のベースである「栽培思考」とはまったく別種の思考のようだ。本書に「構造」という言葉は出てくるが、それを解説しているわけではない。「構造主義」という用語は出てこない。私には「構造」とは何か、よくわからなかった。

 本書を全体的に把握することができていない私は、いつの日か、前提知識を仕入れたうえで再読できればと思う。だが、そんな日がくるかどうかわからない。

中沢新一氏の熱気にあふれた『100分de名著 野生の思考』2024年10月19日

『100分de名著 野生の思考』(中沢新一/NHK出版)
 『野生の思考』に目を通したものの消化不良なので関連書を検索した。100分de名著のテキストを見つけ、ネット書店で購入した。

 『100分de名著 野生の思考』(中沢新一/NHK出版)

 2016年12月号とある。8年前に放映された番組のテキストだ。8年前のテキストをまだ新本で販売しているのに驚いた。100ページ強の分量だから短時間で読了できた。

 このテキストを通読し、『野生の思考』読解のための解説本というよりは派生本に近いと感じた。もちろん、読解の手助けにはなる。

 100分de名著は25分4回の番組である。本書は次のような構成になっている。

 第1回 「構造主義」の誕生
 第2回 野生の知財と「ブリコラージュ」
 第3回 神話の論理へ
 第4回 「野生の思考」は日本に生きている

 第1回は『野生の思考』を読む準備としてのレヴィ=ストロースの紹介である。事前に、この程度のことは把握しておくべきだったと悟った。

 第4回は『野生の思考』刊行後にレヴィ=ストロースが何度も来日した話の紹介が中心で、『野生の思考』が提示した思想の新たな展開を論じている。

 というわけで、『野生の思考』の内容にに即した解説は第2回と第3回である。第3回の後半は『野生の思考』とは別の論文『火あぶりにされたサンタクロース』に関する話になっている。

 『野生の思考』に目を通した直後にこのテキストを読んだので、本文に直結した読解的な部分が意外に少ないと感じた。期待した解説本とはややズレているが、『野生の思考』を最大級に評価する中沢新一氏の熱気は伝わってくる。

 このテキストの「はじめに」で、中沢氏は19世紀の『資本論』に匹敵する起爆力をもった20世紀の本が『野生の思考』だとし、次のように述べている。

 「この本は、いまだ完全には読み解かれていない、これから新しく読み解かれるべき内容をはらんだ21世紀の書物です。」

 また、テキストの末尾では次のように語っている。

 「一筋縄ではいかない、強靭な知性によって書かれたとても難しい本ですが、そこには、日本人がこれからどうやって自分たちの世界をつくっていったらよいかを考えるためのたくさんのヒントが埋め込まれたいます。」

 たかだか100分で読み解けるような本ではない、ということである。