バビロニア捕囚が聖書とユダヤ人を作った……2024年02月10日

『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか:バビロニア捕囚』(長谷川修一/世界史のリテラシー/NHK出版)
 NHK出版から「世界史のリテラシー」というシリーズが刊行されている。教養番組のテキストのような形のムックである。そのなかの一冊を読んだ。

 『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか:バビロニア捕囚』(長谷川修一/世界史のリテラシー/NHK出版)

 薄い本だから集中すれば1日で読めると思っていたが、想定外に時間がかかってしまった。半分近くまで読んで、雑事にかまけて数日おいて再開しようとしたが、それまで読んだ内容が頭から消えかかっていた。頭に入ってなかったのだ。仕方なく、最初から読み返した。

 著者は、ユダヤ人のアイデンティティの源泉はバビロニア捕囚にあるとし、バビロニア捕囚とは何であったかを追究している(バビロン捕囚でなくバビロニア捕囚なのは歴史学的な視点)。

 本書が私にとって読みやすくなかったのは、旧約聖書の内容をほとんど知らないからである。登場する人物にも馴染みがない。古代オリエント史やバビロニア捕囚の概要は把握しているつもりだったが、旧約聖書はきちんと読んでいない。

 旧約学の専門家である著者は、本書において「旧約聖書」を「ヘブライ語聖書」と記述している。より中立的だからだ。確かに「旧約」という呼び方はキリスト教の視点だ。「新約」も「ギリシア語聖書」と呼ぶ方がいいかもしれないが、キリストがギリシア語を話したわけではないし……。

 紀元前6世紀、ユダヤ人が南レヴァント(パレスチナ)の故地からバビロニア(現在のイラク)へ移住させられたというバビロニア捕囚という出来事について、同時代史料は少ないそうだ。バビロニア捕囚を詳しく述べているのはヘブライ語聖書である。

 しかし、聖書の内容をそのまま史実と見なすことはできない。聖書を史料として参照するには史料批判が必要である。聖書の記述の背後にどんな史実があったかを、他の史料や考古学上の発見と突き合わせて推測するのだ。本書からは、聖書の史料批判的な読み方の面白さが伝わってくる。

 征服者が支配地の住人の一部を強制的に移住させるのはよくある話で、バビロニア捕囚という出来事は古代オリエント史においてワン・オブ・ゼムの小事件に過ぎない。この2500年以上前の小事件が、現代にまで続く「ユダヤ人」を作ったそうだ。人間の集団が作り出す想像力の威力と、その持続力とをあらためて認識した。