野村萬斎演出「戯曲リーディング『ハムレット』より」を観た2022年03月01日

 世田谷パブリックシアターで「戯曲リーディング『ハムレット』より」(演出:野村萬斎、出演:野村萬斎、野村裕基、吉見一豊、若村麻由美、他)を観た。一回限りの公演で、立見も出る満席だった。

 以前から『ハムレット』の舞台を観たいと思っていたし、「戯曲リーディング」が如何なるものか興味があった。役者が台本を手にして演じる立ち稽古のようなものだろうと推測した。

 今回の公演は、私が思っていた以上に本番舞台に近く、現代的なシェイクスピア世界を堪能した。台本を手に演ずる役者は普段着だが赤や白のドレープをまとってそれらしい姿に見える。シンプルな道具を用いた舞台は立体的で、照明や効果音もある。上手の袖にはエレキギターなどを奏でる生演奏の奏者もいる。かなり本格的な舞台だった。役者全員がマスク姿なの少々残念だが。

 私がハムレットの名を耳にしたのは小学校低学年の頃で、まだシェイクスピアという名は知らなかった。ハムレット=西洋の王子様というイメージだった。小学校高学年の頃にラムのシェイクスピア物語でハムレットを読み、中学生になると世界文学全集の戯曲を読んだ。以来、シェイクスピアで最初に浮かぶのがハムレットだが、未だに舞台を観ていない。他のシェイクスピア作品の舞台はそれなりに観ていると思うがハムレットを観る機会がなかった。

 今回の観劇に先立って戯曲を再読した。現代視点ではかなりヘンな話だ。上演台本は多少圧縮して2時間10分ほどの芝居になっている。能狂言風の「謡い」の科白が混じり、三味線の囃子が入ったりもするのが楽しい。

 天から降ってくる厳かな「To be or Not to be」という響きが芝居の随所に挿入されているのがユニークである。この高名なフレーズを強調することで、古典を現代に提示する輪郭をくっきりさせているようだ。

 上演の前後に野村萬斎のトークがあり、それによればこの『ハムレット』はいずれ本番上演する可能性が高いらしい。楽しみである。

いろいろな「ハムレット」2022年03月03日

「戯曲リーディング『ハムレット』より」の観劇に際して『ハムレット』(河出版『世界文学全集』の三神勲訳)を約60年ぶりに再読した。読んでいるうちに、志賀直哉の短編『クローディアスの日記』や太宰治の長編『新ハムレット』を思い出した。そんなイメージと重ねて読み進めると、ハムレットが妄想に取り憑かれた幼くて人騒がせのトンデモ人間にも見えてくる。

 で、『クローディアスの日記』と『新ハムレット』を再読した。前者は書架の古い文学全集に載っていた。後者は手元になく、新たな文庫本を入手した。

 ハムレットは、父王が叔父に殺されたという妄想を抱いている、という設定で、叔父クローディアスの日記形式で綴った『クローディアスの日記』は面白い。殺人者にされたクローディアスが、身勝手で芝居気の強いハムレットに当惑し、呪詛する話である。

 『新ハムレット』の内容はほぼ失念していた。面白かったという記憶は残っている。再読して、太宰治らしい過剰な饒舌に圧倒された。ハムレットに託した現代人(太宰自身?)の心理告白合戦のような小説で、老若対立のドタバタ劇の趣もある。この小説のクローディアスはかなりの悪人だ。

 この文庫本には奥野健男の「解説」がある。それによれば、志賀直哉や太宰治の他に小林秀雄、福田恒存、大岡昇平も『ハムレット』を素材にした魅力的な作品を書いているそうだ。『ハムレット』は、文学者たちにそれぞれ独自の観点と解釈をうながす磁力をもった古典なのだと思う。

ポンペイの落書きは生々しくて面白い2022年03月05日

『古代ポンペイの日常生活』(本村凌二/講談社学術文庫)
 東博で4月3日までポンペイ展をやっている。行くつもりだが日程は決めてない。その前に読まねばと、次の本をひもといた。

 『古代ポンペイの日常生活』(本村凌二/講談社学術文庫)

 ポンペイ遺跡に残された「落書き」紹介の書である。古今東西いろいろな場所に落書きがあっただろうが、その多くは時の流れとともに風化して消えていく。ポンペイは古代社会の落書きがそのまま残っている点でも稀有な遺跡である。

 本書は多様な落書きを紹介・考察している。古代都市に生活していた人々の息吹が生々しく伝わってきて、実に面白い。

 落書きと言っても、専門の職人が書いた選挙ポスターのようなものから、居酒屋や娼家の壁に残る片言隻句までいろいろある。品のない悪罵もあれば、書き手の教養を感じさせるものもある。社会史を研究する歴史家にとっては宝の山だと納得できる。だれが何のために書いたかを推測するのはスリリングである。

 本書の終章では「落書きのなかの読み書き能力」を考察し、エピローグでは「人類史のなかの識字率」を論じている。古代ローマの一般庶民の読み書き能力は、さほど高くはなかったかもしれないが、落書きでコミュニケーションできるレベルにあったようだ。

 著者は、少ない文字で読み書きができるアルファベットの普及は、民衆が「自分を見つめる心」を見出すきっかけになったと示唆している。それは著者の『多神教と一神教』『ローマ人の愛と性』の論考につながっている。なるほどと感心した。

 興味深い内容だったが、上野のポンペイ展とはあまり重ならないかもしれない。チラシを見る限りでは、邸宅の壁画や遺物が中心で「落書き」の展示はなさそうだ。

加藤健一と佐藤B作が演ずるニール・サイモンの「しんみり喜劇」2022年03月07日

 本多劇場で加藤健一事務所公演『サンシャイン・ボーイズ』(作:ニール・サイモン、演出:堤泰之、出演:加藤健一、佐藤B作、他)を観た。

 チラシには「ニール・サイモン追悼公演」「加藤健一事務所創立40周年、加藤健一役者人生50周年記念公演第一弾」とある。昨秋、久々に加藤健一の芝居(『叔母との旅』)を観て、私より1歳下の彼が未だに元気で若々しいのを確認したが、役者人生50周年と知り、同世代としてエールを送りたくなる。

 高名な喜劇作家ニール・サイモンの舞台を観るのは初めてである。レトロな雰囲気を楽しめる面白い舞台だった。

 加藤健一と佐藤B作は往年のヴォードヴィルの大スター、日本風に言えば老いた大御所漫才コンビの役である。二人は11年前にコンビを解消し、一人(佐藤B作)は引退、相方(加藤健一)は本人が現役のつもりでも仕事はほとんどない。この二人、実は非常に不仲で、いまでは互いに口もきかない間柄である。

 おちぶれた往年の大スターという設定は、それだけで芝居になる。テレビ局の懐メロ企画的な番組から昔ヒットしたコント再演の依頼があり、紆余曲折の末に不仲の二人が11年ぶりに再会して往年のコントのリハーサルに取り組む……という話である。まさに、コメディ的状況であり、楽しくておかしい掛け合いの末に多少しんみりした展開になる。

 人の生涯は舞台で演じられる喜劇に等しいという気分にさせられる。

半世紀以上前の『万里の長城(大世界史3)』に比較史の面白さ2022年03月09日

『万里の長城(大世界史3)』(植村清二/文藝春秋/1967.8)
 半世紀以上前に文藝春秋が刊行した『大世界史』(全26巻)を数年前に古書で安価に入手したが、気ままに読んでいるので、まだ半分も読めていない。最近、中国古代史をいくつか読んだの機に、次の巻を読んだ。

 『万里の長城(大世界史3)』(植村清二/文藝春秋/1967.8)

 著者は戦前の旧制高校の名物教授で、直木三十五の実弟だそうだ。本書刊行の1967年には66歳だった。

 中国の太古から漢滅亡までの概説書で、最近読んだ中央公論の『中華文明の誕生(世界の歴史2)』(尾形勇・平勢隆郎)や河出書房の『中国のあけぼの(世界の歴史3)』(貝塚茂樹)とほぼ同じ時代を扱っている。中公版、河出版、文春版の三つのなかでは文春版の本書が一番面白かった。

 やや古風な語り口ながら、歴史エッセイに近い概説書で、中国の王朝だけでなく西域の「異民族」にも必要十分な目配りをしている。

 本書の面白さは、中国のあれこれの事象を西洋史や日本史の似た事例をひきあいにしながら語っている点にある。浅学な私には未知の事例もあり、博学な大家の座談を拝聴するような楽しさがある。比較の例をいくつかランダムにあげてみる。

 ・呉楚七国の乱は明治の西南戦争に似ている。
 ・前漢・文帝の平和と繁栄の時代はローマ帝国のアントニウス・ピウスの治世に似ている。
 ・『韓非子』はマキャベリの『君主論』と一致する点がある。
 ・墨家の墨翟はダ・ヴィンチのような人物。
 ・孟子とプラトンは似たところがある。
 ・秦はプロシアのような国
 ・殷墟は東方のトロヤである。
 ・前漢の武帝はブルボン朝のルイ14世に似ている。
 ・武帝晩年の巫蠱の乱は豊臣秀次切腹に似ている。
 ・後漢の光武帝のとき南越独立を目指して挙兵した酋長の女・徴側はネロ帝時代にブリタニアで反抗した女王ボアヂケアに似ている。
 ・王莽の最期はヒトラーの最期に似ている。
 ・光武帝の結婚は蒋介石が財閥の娘・宋美齢と結婚したのに似ている。

 ……などなど切りがないが、中国古代史を学びながら古今の西洋史や日本史への関心もわいてくる。

世界劇団の『天は蒼く燃えているか』を観た2022年03月11日

 せんがわ劇場で世界劇団の『天は蒼く燃えているか』(原作:芥川龍之介「アグニの神」より、脚本・演出・振付:本坊由華香子)を観た。私にはまったく未知の劇団の芝居である。

 チラシを見て、この芝居を観る気になったのは、芥川龍之介の短い童話をどう料理するかが気になり、愛媛大学医学部の演劇部が母体という劇団に興味がわいたからである。上演劇場がわが家に近い(徒歩で30分、電車で行っても30分弱)のも魅力だった。

 「世界劇団」という大層な命名に意気を感じる。たしかに世界把握をテーマにした舞台だった。芥川龍之介の童話「アグニの神」がモチーフだが、より広がりのある別世界の多重的な舞踏劇になっている。原作のような上海の一角の話ではなく、「東のはずれの、ある島」の話になっている。島という言葉は何度か繰り返される。それは日本を暗示しているだけでなく、世界の暗喩である。

 この芝居、2020年2月上演予定だったのがコロナで中止になり、今回の上演になったそうだ。最近上演されている芝居にはそんなリベンジ公演が多い。この芝居には五輪の聖火と思しき「火」を目指して行列する人々が出てくる。五輪前夜の公演なら、より印象深いシーンになったろうと思われる。

 破滅に向かって行く世界、破滅を乗り越えて歩み続ける人間――そんな有様を表現した舞台だと感じた。

ハムレットは一筋縄では解釈できない人物2022年03月14日

『謎解き『ハムレット』:名作のあかし』(河合祥一郎/ちくま学芸文庫)
 先日、世田谷パブリックシアターで観た野村萬斎演出の『戯曲リーディング『ハムレット』より』の台本は河合祥一郎訳だった。上演後の野村萬斎のトークで河合祥一郎への言及があり、この人への関心がわいて次の本を読んだ。

 『謎解き『ハムレット』:名作のあかし』(河合祥一郎/ちくま学芸文庫)

 この文庫本の解説は野村萬斎で、それを読んで『ハムレット』を巡る河合祥一郎との関係がよくわかった。2003年に野村萬斎がハムレットを演じた際(演出はジョナサン・ケント)、野村萬斎が河合祥一郎に新訳を依頼したそうだ。その理由のひとつが本書(原版)の新たなハムレット解釈に惹かれたからである。

 2016年に書かれたこの「解説」で、野村萬斎は次のように述べている。

 「いつか、同じ河合氏の訳で再度『ハムレット』をとりあげ、今度は私自身が演出を手掛けてみたいと思っている。」

 この文章に続いて演出構想の一端を語っている。それは先日の「戯曲リーディング」に反映されていた。6年来の構想が日の目を見つつあるのだと知った。遠くない将来の本番上演への期待が高まった。

 閑話休題。本書は思った以上に専門的で難解だった。ハムレットが書かれたのは1600年頃で、かなり昔である。冒頭の2章では、これまでにハムレットがどのように受容されてきたかを解説している。この部分はわかりやすくて非常に面白い。フロイトやユゴーをはじめ多くの人々のハムレット解釈を取り上げていて、志賀直哉や太宰治の作品にも言及している。

 多様な解釈が生まれるのが古典の由縁であり、著者はそれらに一定の評価を与えたうえで、作品が書かれた時代の「ハムレットの原像」に迫り、それを提示する。そのハムレット像は、確かに私が抱いているイメージとはかなり異なる。著者の論旨を十分に咀嚼できたわけではないが、古典解釈のスリルが伝わってくる。ハムレットはやはり興味深い人物のようだ。

 遠くない将来、野村萬斎演出の『ハムレット』を観る機会が得られた際には、本書を再読して観劇に臨みたい。

『新訳 ハムレット』(河合祥一郎)の To be, or not to be は…2022年03月16日

『新訳 ハムレット』(シェイクスピア/河合祥一郎訳/角川文庫)
 「戯曲リーディング『ハムレット』より」を観たのを機に「謎解き『ハムレット』」(河合祥一郎)を読み、その流れで河合祥一郎訳の『ハムレット』も読んだ。

 『新訳 ハムレット』(シェイクスピア/河合祥一郎訳/角川文庫)

 訳者は本書のあとがきで「この翻訳は、野村萬斎氏より委託され、彼が主演する「ハムレット」公演のために訳し下ろしたものである」と述べている。

 訳者と役者の共同作業で「音の響きやリズムに徹底的にこだわった」のが本書の特徴だそうだ。私は先日、三神勲訳を再読したばかりで、日をおかずに『ハムレット』を別翻訳で続けて読んだ。開幕冒頭の科白は次のように違う。

 三神訳「こら、誰か?」
 河合訳「誰だ。」

 おそらく、河合訳はこの科白に劇全体のシンボルを含意させているのだと思う。

 私が驚いたのは、To be, or not to be を「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と訳したのが本邦初訳という点である。誰もが知っていると思えるこの訳は、参考書の類には載っていても作品の翻訳としては使われていないそうだ。

 では、これまでにいくつの翻訳があったのか。河合氏によれば何と先行翻訳は42点もある。そのすべての To be, or not to be 翻訳を列挙しているのが本書「あとがき」の圧巻である。数例を紹介すれば次の通りだ。

 17) 世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ(1933年 坪内逍遥)
 26) 生きる、死ぬ、それが問題だ(1951年 三神勲)
 27) 生か、死か、それが疑問だ(1955年 福田恆存)
 34) このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ(1972年 小田島雄志)
 40) 生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ(1995年 松岡和子)
 43) 生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ(2003年 河合祥一郎)

 河合氏が21世紀になってあえて「生きるべきか、死ぬべきか…」を採用したのは、既得権を勝ち得た言葉の方が解釈よりむしろ観客に与えるインパクトが強いと考えたからである。同感できる。