『ユリウス・カエサル氏の商売』(ブレヒト)のカエサルはオポチュニスト ― 2016年10月09日
小説『カエサルを撃て』(佐藤賢一)に続けて次の小説を読んだ。
『ユリウス・カエサル氏の商売』(ベルトルト・ブレヒト/岩淵達治訳/河出書房新社)
本書の存在を知ったのは塩野七生氏の『ローマ人の物語』での言及だ。塩野氏はシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』は評価していないが、ブレヒトのこの作品をかなり高く評価していた。
そんな記憶があったので、カエサルを扱った文学作品を読むなら本書を外せないだろうと思っていた。訳書は1973年刊行で古書はかなり高い。ブレヒト戯曲全集を検索しても収録されていない。仕方なく、相対的に安い古書を購入した。
本書を手にしてわかったことは、『ユリウス・カエサル氏の商売』が戯曲ではなく小説で、しかも未完の作品だということだ。ブレヒト作品だから戯曲だろうと思い込んでいた。戯曲全集にないのは当然だ。
タイトルの印象で、カエサルを戯画化した芝居を想像したが、読んでみるとなかなか重厚な歴史小説だった。未完なのが惜しい。
本書の舞台はカエサルが暗殺されて20年後のイタリア、語り手である「わたし」は伝記作家である。カエサルの伝記を書くため、カエサルと親交があった老銀行家(かつては執達吏)を訪ねる。彼がカエサルの秘書の日記を所有していると知り、その日記を借り出して読むのが目的である。
というわけで、この小説の枠組みは「わたし」と老銀行家やその周辺の人々とのやりとりである、その中でカエサルの思い出話もいろいろ出てくる。だが、この小説の大部分は「わたし」が借り出した秘書の日記そのもので、それは紀元前63年から数年間の日記である。
この日記の部分を読んでいると、本物の史料を読んでいる気分になる。三頭政治以前の時代の日記で、この日記で描かれている大事件といえばカティリナの陰謀で、ローマ史全体から見ればさほど大きな出来事ではない。しかし、そのディティールから歴史解釈が浮かび上がってくるところが面白い。
ブレヒトは当初この作品を戯曲として計画したそうだが、戯曲には収まりきれないと気づき小説として一九三八、九年頃に書き始めたが、第二次大戦の勃発による亡命や他作品の執筆などで中断し、ついに未完に終わったそうだ。
もし未完でなければ、どの時代まで書き進める予定だったのかはわからないが、三頭政治以前の短い期間を扱った本書だけでもブレヒトの意図は十分に表現されている。巻末に収録されている岩淵達治氏による詳細な解説も本書を読み解くにはとても有益だった。
ブレヒト作品だから唯物史観で独裁者カエサルを批判的に描いているのだろうとは想像していたが、それほど単純に図式化した話ではなかった。近代の視点で意図的にデフォルメしているにもかかわらず、古代ローマのひとつのリアルが感じられる小説だ。
この小説ではカエサルの膨大な借金の由来と対処に焦点をあてているのがユニークで面白い。カエサルが若い頃に海賊に捕えられた経緯の「真実」を明かす話も面白いし、カティリナの陰謀に関わる裁判におけるカエサルの有名な死刑反対演説の背景の説明も面白い。ここで表現されているカエサルは政治家であると同時にビジネスマンであり、多面的なオポチュニスト親父である。
佐藤賢一氏は『カエサルを撃て』でカエサルを小心な二流の男に描き、ブレヒトは本書でカエサルをオポチュニスト親父に描いている。もちろん、真実は不明であり、残された史料を手がかりに推測するしかない。歴史学者に比べて小説家はより奔放に自由に推測することが許されている。そんな作品を読むのも、素人にとっては歴史を知る楽しみの一つであり、歴史解釈の一端と考えてみたくなる。
歴史上の人物にとどまらず世の中のさまざまな事項にいろいろな見方があるのは当然であり、多様な見方を知った上で自分の考えを紡ぐしかない。
『ユリウス・カエサル氏の商売』(ベルトルト・ブレヒト/岩淵達治訳/河出書房新社)
本書の存在を知ったのは塩野七生氏の『ローマ人の物語』での言及だ。塩野氏はシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』は評価していないが、ブレヒトのこの作品をかなり高く評価していた。
そんな記憶があったので、カエサルを扱った文学作品を読むなら本書を外せないだろうと思っていた。訳書は1973年刊行で古書はかなり高い。ブレヒト戯曲全集を検索しても収録されていない。仕方なく、相対的に安い古書を購入した。
本書を手にしてわかったことは、『ユリウス・カエサル氏の商売』が戯曲ではなく小説で、しかも未完の作品だということだ。ブレヒト作品だから戯曲だろうと思い込んでいた。戯曲全集にないのは当然だ。
タイトルの印象で、カエサルを戯画化した芝居を想像したが、読んでみるとなかなか重厚な歴史小説だった。未完なのが惜しい。
本書の舞台はカエサルが暗殺されて20年後のイタリア、語り手である「わたし」は伝記作家である。カエサルの伝記を書くため、カエサルと親交があった老銀行家(かつては執達吏)を訪ねる。彼がカエサルの秘書の日記を所有していると知り、その日記を借り出して読むのが目的である。
というわけで、この小説の枠組みは「わたし」と老銀行家やその周辺の人々とのやりとりである、その中でカエサルの思い出話もいろいろ出てくる。だが、この小説の大部分は「わたし」が借り出した秘書の日記そのもので、それは紀元前63年から数年間の日記である。
この日記の部分を読んでいると、本物の史料を読んでいる気分になる。三頭政治以前の時代の日記で、この日記で描かれている大事件といえばカティリナの陰謀で、ローマ史全体から見ればさほど大きな出来事ではない。しかし、そのディティールから歴史解釈が浮かび上がってくるところが面白い。
ブレヒトは当初この作品を戯曲として計画したそうだが、戯曲には収まりきれないと気づき小説として一九三八、九年頃に書き始めたが、第二次大戦の勃発による亡命や他作品の執筆などで中断し、ついに未完に終わったそうだ。
もし未完でなければ、どの時代まで書き進める予定だったのかはわからないが、三頭政治以前の短い期間を扱った本書だけでもブレヒトの意図は十分に表現されている。巻末に収録されている岩淵達治氏による詳細な解説も本書を読み解くにはとても有益だった。
ブレヒト作品だから唯物史観で独裁者カエサルを批判的に描いているのだろうとは想像していたが、それほど単純に図式化した話ではなかった。近代の視点で意図的にデフォルメしているにもかかわらず、古代ローマのひとつのリアルが感じられる小説だ。
この小説ではカエサルの膨大な借金の由来と対処に焦点をあてているのがユニークで面白い。カエサルが若い頃に海賊に捕えられた経緯の「真実」を明かす話も面白いし、カティリナの陰謀に関わる裁判におけるカエサルの有名な死刑反対演説の背景の説明も面白い。ここで表現されているカエサルは政治家であると同時にビジネスマンであり、多面的なオポチュニスト親父である。
佐藤賢一氏は『カエサルを撃て』でカエサルを小心な二流の男に描き、ブレヒトは本書でカエサルをオポチュニスト親父に描いている。もちろん、真実は不明であり、残された史料を手がかりに推測するしかない。歴史学者に比べて小説家はより奔放に自由に推測することが許されている。そんな作品を読むのも、素人にとっては歴史を知る楽しみの一つであり、歴史解釈の一端と考えてみたくなる。
歴史上の人物にとどまらず世の中のさまざまな事項にいろいろな見方があるのは当然であり、多様な見方を知った上で自分の考えを紡ぐしかない。
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