歴史学の状況が垣間見える教科書の変遷2016年11月01日

『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか/新潮文庫)、『ここまで変わった日本史教科書』(高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一/吉川弘文館)
◎歴史教科書の変化を解説した2冊

 最近の歴史教科書は以前の教科書とずいぶん変わり、鎌倉時代の始まりは1192年(イイクニ)ではないし、士農工商という言葉も使わなくなっている。そんな話をテレビ番組で何度か耳にし、気になっていた。で、似たタイトルの次の2冊を読んだ。

 (A)『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか/新潮文庫)
 (B)『ここまで変わった日本史教科書』(高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一/吉川弘文館)

 (A)は2008年に東京書籍から刊行された単行本の文庫版で、著者は東京書籍の中学校教科書の編集委員だった歴史学者だ。東京書籍の中学校用歴史教科書の1972年版と2006年版を比較し、昭和の教科書と平成の教科書が三十数年を経てどう変わったかを解説している。ちなみに、中学校用歴史教科書は7~8種類あるが、東京書籍版はシャア50%以上のメジャーである。

 (B)は2016年9月発行の新刊で、著者3人はいずれも文部省の教科書調査官(一人は元調査官)、小学校・中学校・高校の教科書の日本史に関する記述の変遷を解説している。本書で知ったのだが、教科書検定のための調査をする教科書調査官は一般の国家公務員試験とは別の選考基準で採用される専門家で「学界でも評価されている著書や論文を発表している研究者」だそうだ。

 (B)が「日本史教科書」なのに(A)が「歴史教科書」となっているのは、(A)が対象としている中学の歴史教科書は日本史に簡単な世界史の記述も織り込んだ形になっているからだ。(A)が取り上げているテーマも冒頭の「人類の出現」以外はすべて日本史の話だ。

◎旧説が新説に置き換わるには30年

 教科書の記述内容が時間を経て変化するのは歴史研究の進展によって学説が変化するからだ。学界に新説が提示され、それが通説になるには相応の時間がかかり、旧説が新説に改められるにはおおむね30年ほどかかるそうだ。だから、30年も経てば教科書の内容も変わることになる。

 (B)の著者である教科書調査官の主な仕事は、提出された教科書の記述が通説から逸脱していないかどうかを判定し「検定意見」を提示することだ。通説が何かは教科書調査官の判断に委ねられるわけで、そこらに教科書検定の難しさの要因のひとつがあるようだ。私は歴史学の門外漢なので詳しいことはわからない。

◎教科書に歴史学の状況が反映されている

 難しい話は別にして2冊とも興味深い読み物で、日本史をおさらいしながら、教科書に反映されている最近の歴史学の状況を垣間見た気分になる。

 当然ながら(A)(B)で同じテーマを扱っている点も多い。(A)が特定の中学教科書の昭和版と平成版の違いを具体的に取り上げているのに対し、(B)は小中高の日本史教科書の変遷を概観したエッセイ風で、歴史研究者でもある教科書調査官のつぶやきが散りばめられていて面白い。

◎『日本の歴史をよみなおす』(網野善彦)を読んだので…

 この2冊を読んだきっかけは、テレビ番組での情報とは別に、網野善彦氏の『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)を最近読んだことにもある。20年以上前に出版された本の文庫版だが、私にとっては眼から鱗が落ちる指摘にあふれた興味深い本だった。網野善彦氏は自説について、これは通説ではないが私は確信しているといった記述を何カ所かでしている。

 20数年前に網野善彦氏が『日本の歴史をよみなおす』で指摘した事項が多少は現在の歴史教科書に採り上げられているだろうか、という興味もあったのだ。

 で、この2冊を読んで、網野善彦氏の指摘のいくつかは現在の歴史教科書に反映されているように思えた。百姓=農民ではないという話や、士農工商とは別の職能の人々の話、中世から近世までの天皇の位置付けなどなど、現在の歴史教科書は確かにリニューアルされてきているようだ。

 (B)において足利義政・富子像が一変してきていることを指摘した筆者は「いま一番ホットでおもしろいのは、室町時代だといっても過言でなはい。」と述べている。そんなことに疎かった私は「へえー」と思った。

雑草対策に挑んだが…2016年11月02日

 八ヶ岳南麓の山小屋の庭の空き地にブルーベリーを7本植えている。ブルーベリーは冬を越す前に根の周辺を木材チップで覆う。根の活動促進のための有機材マルチである。昨年まいた木材チップはかなり減少しているので追加しなければならない。

 ブルーベリーを植えている場所は元・雑草地帯なので、抜いても抜いてもすぐに雑草が生えてくる。そこで、今年は有機マルチ追加のついでに雑草対策もしようと思った。根元周辺以外の部分に防草シートを敷き、その上に木材チップをまくことにしたのだ。

 ということで、通販で購入した防草シートと木材チップを車に積み込み、先日、山小屋へ行き一仕事してきた。

 地面の雑草を根こそぎにして整地し、防草シートを敷くのは結構大変な作業だった。地面がいかに平らでないかを痛感した。

 そして、おのれの計画の杜撰さを思い知った。防草シートも木材チップも足らなくなったのだ。およその目分量で準備した材料は、実際に必要な量の半分ぐらいしかなかった。事前にきちんと計算するという当然の手順を踏まなかったことを反省した。

 材料を買い足して、近いうちにまた行かなければならない。

スー・チーさんの記者会見でミャンマーの過去・現在・未来を考えた2016年11月05日

 昨日(2016年11月4日)、ミャンマーの国家最高顧問アウン・サン・スー・チーさんの記者会見に出席した。

 私はミャンマーに3回行ったことがあり、この国に関するニュースには関心がある。私がミャンマーを訪問したのは1999年から2007年にかけてで、最後に訪れてから10年近く経っている。当時、スー・チーさんは軟禁状態だった。その後、ミャンマーは大きく変化しつつあり、いまや投資対象の最後のフロンティアとして大きな注目を集めている。

 現在のミャンマーは私が訪れた頃からさま変わりしているが、当時からミャンマーの潜在力は注目されていた。国土は日本の約2倍、人口は日本の約半分、多くの国民は勤勉で親日的だ。国民所得は非常に低く、最貧国のひとつとされていた。

 軍事政権下のミャンマーへの投資は限られていたとは言え、当時からミャンマーに進出している日本企業は少なくはなかった。ヤンゴン郊外にある日本の縫製工場を見学したことがある。交通機関などのインフラが未整備なので従業員の通勤バスも工場で運行している、などという話を日本人の責任者から聞いているとき、会議室の電気が消えた。突然の停電だったが、動じることなく話は続いた。乾期には停電が日常茶飯事だと知り、現地の苦労が了解できた。

 そんな10年近く前の状況は改善し、現地で頑張っていた人々の苦労も報われつつあるのではないかと思われる。当時は軟禁状態だったスー・チーさんが、国家の代表としてミャンマーが抱える課題を語る姿を見ていると、時間の流れを感じざるを得ない。71歳の彼女は容色衰えず貫禄もあり、とても元気そうに見えた。

 ミャンマーは女性が強くてしっかりしている国だ、というのは私がミャンマーを訪れたときの印象だった。今回の記者会見で、女性記者から日本で女性の活躍が遅れている件を訊かれたスー・チーさんの答えが印象的だった。「日本は経済が発展しているにもかかわらず、ジェンダーの問題は解決していない。経済発展が問題を解決するわけではないようだ。なぜなのか、むしろ日本人に訊ねてみたい」

 ミャンマーは今まさに経済成長のとば口に立っている。これから経済が発展するのは間違いないが、どんな経済発展が望ましいか、そのモデルが現在の先進諸国にあるわけではない。これは興味深い困難な課題だ。

忠臣蔵は史実だけでも面白い2016年11月10日

『赤穂義士』(海音寺潮五郎/講談社文庫)、『忠臣蔵:赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦/ちくま新書)、『忠臣蔵四十七士のオモテとウラがわかる本』(藤田洋/知的生き方文庫/三笠書房)、『真髄三波忠臣蔵』(三波春夫/小学館文庫)
◎忠臣蔵への関心

 わが書架の奥に忠臣蔵関連の小説や解説書が数十冊ある。大半が通俗書で史料の類いはない。30代の終わり(約30年前だ)、いっとき忠臣蔵にハマり、その後も時おり目についた関連書に手を出していた。どこにでもいるフツーの忠臣蔵ファンである。

 最近10年以上は忠臣蔵にご無沙汰だったが、国立劇場開場50周年記念『仮名手本忠臣蔵』3ヶ月連続公演(10月、11月、12月)を観ることにしたので忠臣蔵への関心が高まった。

◎忠臣蔵の常識は過去のもの?

 観劇とは別に、先日読んだ『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館)で次の記述に出会ったのも忠臣蔵への関心を喚起した。

 「綱吉時代に起きた大事件といえば、誰もが「忠臣蔵」を思い浮かべる時代は過去のものになりつつある。歌舞伎・講談・浪曲・時代劇が庶民の歴史教養の基礎をなしていた時代はもはや終わった」

 そもそも忠臣蔵は歴史の教科書で習う類いの話ではない。忠臣蔵に言及している教科書が少ないのは当然だが、忠臣蔵を知らない中高生が増えているのは残念だなと感じ、忠臣蔵の面白さを再確認してみたい気分になった。

◎忠臣蔵を面白さはどこにあるか

 私が忠臣蔵を面白いと感じる理由を自分なりに考えてみると、以下のようになる。

 ・物語の冒頭と終盤に二つのクライマックス(松の廊下と吉良邸討ち入り)があり、終盤のそれが前半を増幅している。

 ・社長が引き起こした事件で突然の倒産に直面した優良企業の社員や役員たちの状況に似た非常時対応の緊迫感が面白い。
 
 ・多数の男たちが陰謀を巡らせ紆余曲折のうえ目標を達成する共謀物語である点に普遍的面白さがある。

 ・目標達成の過程に生ずる疑心暗鬼、韜晦、残留者と脱落者などに人間ドラマがある。

 …などと考えながら、次の4冊を書架から引っ張り出してきて読んだ。

(1)『赤穂義士』(海音寺潮五郎/講談社文庫)
(2)『忠臣蔵:赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦/ちくま新書)
(3)『忠臣蔵四十七士のオモテとウラがわかる本』(藤田洋/知的生き方文庫/三笠書房)
(4)『真髄三波忠臣蔵』(三波春夫/小学館文庫)

 いずれも20年以上前に目を通しているはずだが、内容をほとんど失念しているので初読とさほど変わらない。この4冊は史実にウエイトを置いた本だ。

◎それぞれの4冊

 赤穂事件に関する史料は山ほどあり、まとまった形で整備されているらしい。だが、偽書と見なされるものも多く、偽書でなくても伝聞の記録、著者の記憶のねつ造、意図的な事実の改編などもあり、史料の山の中からどんな史実を紡ぎ出すかはさまざまである。

 海音寺潮五郎氏の『赤穂義士』はコクのある史伝で、元禄に完成した「武士道」の解説が面白い。大石内蔵助を周到なリーダーとして礼賛し、義士を高く評価する一方「不義士」には辛辣である。

 野口武彦の『忠臣蔵』は史料解釈の解説も明快で、史実追求の確度はかなり高いように思われる。著者は義士と不義士という分類は真実を見えにくくすると述べている。納得できる見解だ。討ち入り後の泉岳寺周辺の緊迫状況の記述が興味深い。

 『忠臣蔵四十七士のオモテとウラがわかる本』は早わかり的な史実解説本で、四十七士全員と主立った「不義士」たちの個別解説が全体の半分以上を占めている。それを読むと、四十七士に新参や他家との関係者が多いことがあらためてわかり、江戸時代の武士の実態の一面が見えてくる。

 浪曲歌謡の三波春夫氏の『真髄三波忠臣蔵』は浪曲風名調子と史談がないまぜの不思議な本だ。史実研究家でもある著者は、得意の名場面を語った後、それが史実と異なる点を熱い心情の蘊蓄で解説している。

◎史実にこだわってはいないが…

 私は忠臣蔵の史実にさほどこだわってはいない。赤穂事件をタネに生まれた芝居、講談、浪曲、小説、映画などが作り上げた忠臣蔵文化が面白いと考えている。赤穂事件は歴史変動に関わる事件ではなく、その史実を深掘りするのは好事家の趣味としては面白いかもしれないが、どうでもいいことのように思える。

 そう思っていたのだが、上記の4冊を読んで、忠臣蔵の面白さは赤穂事件という史実の面白さに負っているという当然のことを再認識した。忠臣蔵とは赤穂事件に尾ひれをつけた物語空間であり、尾ひれには尾ひれなりの多様な面白さがあるが。その尾ひれを取り除いても、やはり面白い。

 松の廊下の刃傷事件は史実で、その動機は不明である。そして、1年10カ月後に討ち入り事件が発生したのも史実だ。その間の赤穂浪士たちのさまざまなやりとりの記録も残っている。これらの史実には、私が忠臣蔵を面白いと感じる要素がすべてが含まれている。

「仮名手本忠臣蔵」観劇気分を盛り上げるつもりだったが…2016年11月16日

『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』(井沢元彦/新潮社)、『浅野内匠頭刃傷の秘密:精神科医の見た赤穂事件』(中島静雄/メディカル・パブリシティ)
◎歌舞伎を観て昔のミステリーを想起

 忠臣蔵の史実も面白いが当面は「仮名手本忠臣蔵」の面白さを追求したいという気分から、20数年前に読んだ次のミステリーを再読した。 

 『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』(井沢元彦/新潮社/1988.12.15)

 出版直後に読んだものの内容はほとんど失念している。だが、一箇所だけ憶えている。「仮名手本忠臣蔵」は徳川綱吉への反逆を含意した芝居だと主人公が指摘し、その証拠として「松切りの場」が「松平を切る」を意味していると主張するシーンだ。この場面以外は何も記憶に残っていない。

 先月、国立劇場の「仮名手本忠臣蔵 第一部」で「松切りの場」を観たとき、このミステリーの記憶が甦った。それがきっかけで「仮名手本忠臣蔵」観劇を盛り上げる材料を期待して再読した。

 この小説の冒頭は、昭和61年(1986年)11月、国立劇場での「仮名手本忠臣蔵」全段上演を主人公が観劇するシーンである。この上演は私も記憶してる。観劇はしていないがテレビ放映を録画した。期待が高まる書き出しである。だが、その期待は期待倒れに終わった。

 『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』は歴史上の事件の謎に挑戦する歴史ミステリーとしては面白く、それなりの論が展開されている。しかし、地の物語が安直で薄っぺらく、そのため歴史ミステリーの謎解き部分も怪しげに見えてしまう。おのれの記憶力を棚に上げて、私が内容の大部分を失念したのもむべなるかなと思えた。

◎論評小説でもある

 『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』は実在の事件と芝居を扱っているので、実在の書籍の紹介や引用が多い。たとえば前半に出てくるものは以下の通りだ。

 『忠臣蔵:その成立と展開』(松島栄一/岩波新書)
 『日本の歴史16 元禄時代』(児玉幸多/中央公論社)
 『国文学 昭和61年12月号 忠臣蔵・日本人の証明』 
 『忠臣蔵とは何か』(丸谷才一/講談社)、その後の諏訪春雄・丸谷才一論争

 この他にもいろいろな文献の引用があり、後半のメイン書籍は次の本である。

 『浅野内匠頭刃傷の秘密:精神科医の見た赤穂事件』(中島静雄/メディカル・パブリシティ)
 
 登場人物たちがこれらの書籍を読んだり論評しながら歴史の謎を追究していく展開である。芝居や赤穂事件に関する解説や推論を小説仕立ての会話で延々と記述しているので、やや煩わしくも感じる。単なる評論文にすればかなりコンパクトになる内容だ。

◎ユニークな説を提示

 この小説で展開している主張は次の二点である。

 (1) 「仮名手本忠臣蔵」の高師直は吉良上野介ではなく徳川綱吉を表している。
 (2) 松の廊下の刃傷事件の理由は浅野内匠頭の精神病にあり、吉良には何の落ち度もない。

 どちらも通説とは異なるユニークな説であり、その論証もある程度は説得的で、感心しながら読んだ。面白い謎解きだと思う。しかし、これらの説を受け容れたわけではない。

 これらのユニークな説は、本来は国文学者や歴史学者が評価するべきものだろうが、実は誰にも当否の判断ができないものに思える。

 (1)に関して、「仮名手本忠臣蔵」という創作物をどう読み解くかは、作者の意図とは関係なく受け手にゆだねられるもので、それは多様だ。受け手には誤読の自由もあり、正解があるわけでもない。高師直=徳川綱吉も一つの読み方だと思う。

◎精神科医の見た赤穂事件

 (2)の刃傷事件は創作物ではなく歴史的事件に関わる事なので、真相の追究に意味があるとは思う。私が把握している限り、刃傷事件の理由は不明でいくつかの説がある。

 精神病説についてはよく知らないので、この小説で取り上げている『浅野内匠頭刃傷の秘密:精神科医の見た赤穂事件』を古書で入手し、読んでみた。

 精神科医の書いたこの本は、1982年に発生した日航機羽田沖墜落事故(精神異常の機長が逆噴射装置を作動させたのが原因)の機長と浅野内匠頭の類似点を指摘し、松の廊下の刃傷事件の原因は浅野内匠頭が精神病を発症したことにあると結論づけている。

 この指摘を読む限り、乱心が原因に思えてくる。ただし、本書は浅野内匠頭の診断にとどまらず、赤穂事件全般にまで筆が及び、吉良への同情からか討ち入りした赤穂浪士たちへの批判なども展開していて、バイアスを感じてしまう。冷静な浅野診断書に留めておいた方が評価が得られたのではと思う。

 刃傷事件の理由は信頼できる史料をベースに判断するしかなく、多くの学者たちが検討を重ねても不明とするしかなかった案件である。精神病の蓋然性はあるだろうが一つの説でしかない。不明なものは依然として不明で、如何ともしがたいのではなかろうか。

 「仮名手本忠臣蔵」観劇の気分を盛り上げようと昔のミステリーを再読したのだ、かえって「史実」への関心の方が高まってしまった。困ったことだ。

渋谷で21世紀の『メトロポリス』を観る2016年11月19日

 大昔のSF映画『メトロポリス』が舞台化されると知り、どんな芝居になるだろうとの興味がわいた。で、11月18日、渋谷のシアターコクーンで『メトロポリス』(演出・美術:串田和美、出演:松たか子、森山未來、他)を観た。

 映画『メトロポリス』を観たのはずいぶん昔で、その内容は失念していて、あの不気味なロボットの登場シーンだけが印象に残っている。スターウォーズの金ピカロボットC-3POの先祖のようなピカピカに輝く妙に艶めかしい女性ロボットだ。

 観劇の前に500円のDVDで映画『メトロポリス』を購入し、内容を確認した。ナチス台頭前夜の1927年に制作されたドイツの無声映画で、チラツキの多いモノクロ画面は不鮮明ではあるが、大がかりなセットを多用した約2時間の大作なのにあらためて驚いた。レトロな未来都市の映像が秀逸だ。

 90年前のこの映画が21世紀の舞台でどのような形で甦るのだろうと期待して劇場に足を運んだ。松たか子がヒロインとアンドロイドの二役を演ずる舞台は、映画をふまえた展開に舞踏演劇がミックスし、60年代のアングラ演劇的雰囲気も加味された面白い芝居だった。懐かしいレトロ感と21世紀的終末観が融合した世界を感じた。また、松たか子という女優にアンドロイドのような雰囲気があることに気付いた。

 渋谷のBUNKAMURAで上演されたこの芝居には、渋谷のスクランブル交差点と東日本大震災の津波のイメージと人類の破壊衝動が反映されていて、そこに90年前の映画を21世紀に舞台化した意味があると思った。

 観劇の後、上演パンフレットを読んで知ったのだが、映画『メトロポリス』には原作の小説があり、中公文庫で翻訳されている。脚本を書いたテア・フォン・ハルボウは監督フリッツ・ラングの妻で、元女優だ。映画公開と同時期に発表された小説『メトロポリス』は映画より広がりのある内容で、今回の芝居のベースは映画ではなく小説だそうだ。

 興味深いのは、映画『メトロポリス』公開後の監督・脚本家夫妻の運命だ。監督のラングはユダヤ人で、ナチス政権になったドイツからアメリカに亡命する。夫妻は離婚し、ドイツに残ったハルボウはドイツ映画台本作家連盟会長になりナチスに入党したそうだ。詳しいことはわからないが、フィクションを超えた人の運命のドラマを感じざるを得ない。

トランプ大統領を予言した本を事後に読んだ2016年11月21日

『トランプ大統領とアメリカの真実』(副島隆彦/日本文芸社/2016.7.10)
 副島隆彦という評論家(?)はヘンテコで怪しげな人だ。その名を知ったのは30年近く昔で、研究社の英和中辞典をボロクソに批判する戦闘的な予備校教師だった。その少し後に『英語で思想を読む』(筑摩書房)という著書を購入した。それ以降の著書は読んでいない。本屋の店頭で著書を拾い読みして、あぶない方向に発展している人だとの印象をもっていた。

 数年前に読んだ『小室直樹の世界』(橋爪大三郎編/ミネルヴァ書房)で、副島隆彦氏が小室直樹と吉本隆明を師とみなしていることを知り、吉本隆明にかなりの影響を受けた世代の一人としての感慨から、奇怪な人だとの印象を深くした。

 今年の7月、本屋の店頭で『トランプ大統領とアメリカの真実』(副島隆彦/ 日本文芸社)という本を見つけた。冒頭は以下の通りだ。

《「次の米大統領はトランプで決まりだ」と、私はこの2016年5月22日に決めた。私の政治分析に基づくこの予測(予言)は、この本が出る7月の初めでも誰も公言できないことだ。私の専門は、現在のアメリカ政治思想の諸流派の研究である。》

 これを読んだ私はあきれてしまった。トランプが大統領になるとは考えていなかったからだ。トンデモ予言のキワモノだと思い、拾い読みしただけでその本を書店の書棚に戻した。

 それから4ヵ月後の11月9日、米国大統領選挙の開票結果に驚いているとき、副島氏の著書の記憶がよみがえり、どんなことを書いていたのだろうと気になり、AMAZONで注文した。その本が注文から10日以上経って届いた。さっそく読んでみた。

 自身をリバータリアンとする副島氏は、トランプに共感し期待している。そして、米国の広範な人々の思潮を分析した結果としてトランプ大統領を予言している。大方の予測を覆してトランプ大統領が現実となった現在、副島氏の状況分析をある程度は評価しないわけにはいかない。しかし、陰謀論的な見解をにわかに信ずることもできない。

 副島氏は自分は陰謀論者ではないと主張し、conspiracy は陰謀ではなく権力者共同謀議と訳すのが適切だとしている。彼が「権力者」と見なしているのはロックフェラー財閥であり、それがヒラリー支持からトランプ支持に切り替えたとしている。よくわからない話だ。

 トランプの外交政策の基本は isolationism で、これを「孤立主義」と訳してはダメで「国内問題優先主義」と訳すべきだと言い、「アメリカ・ファースト」は「アメリカ第一主義」「アメリカの国益重視」という意味ではなく「アメリカ国内問題優先主義」だと主張している。これは納得できる。

 副島氏は第二次大戦時に isolationism を主張した英雄リンドバーグを高く評価し、その息子が誘拐され殺されたのはロックフェラー財閥の陰謀だとしている。こんな話は納得できない。リンドバーグはナチス・ドイツに利用されていたと思われるし、誘拐事件に関しては『リンドバーグの世紀の犯罪』(グレゴリー・アールグレン、スティーブ・モニアー/朝日新聞社)という本に書かれている「事故死説」に信憑性を感じる。

 それはともかく、「トランプの登場はもっと冷酷に考えると、アメリカ帝国の墓堀人である」という見解には共感できる。21世紀の世界はローマ帝国衰亡史の世界にも似たアメリカ帝国衰亡史の時代に入っており、パクス・アメリカーナが終わりつつある。トランプはその速度を速める大統領だと思われる。

 パクス・アメリカーナの後にどんな世界が現れてくるか、過去の世界史を少し勉強しても未来はなかなか見えてこない。

ついに中島みゆきの『夜会』を観た2016年11月22日

 中島みゆきの『夜会』を観たいと思いながらチケットが取れず数年が経過し、やっとチケットをゲットでき、先日、赤坂ACTシアターで『夜会VOL.19 橋の下のアルカディア』を観た。

 中島みゆきのCDはかなり持っているが『夜会』のDVDを観たことはなく、勝手にコンサート風のイベントだと思っていた。しかし『夜会』は演劇に近い舞台だった。

 中島みゆきの歌詞には元から演劇的要素があると感じてはいたが、歌謡だけで演劇を組み立てているのが『夜会』なのだと、実物を観て初めて知った。うかつであった。

 今回の『橋の下のアルカディア』は『夜会VOL.18』の再演だそうだ。この手の舞台は初見だけで内容を把握するのは難しく、くり返し観た方が堪能できる。だから、予備知識なしに観た私は、中島みゆきの歌謡演劇世界のとば口の立っただけという気分である。

 それでも、「橋の下」というアンダーグラウンドのまさにアングラ的イメージを感得でき、そこからの飛翔という普遍的演劇的カタルシスを楽しむことができた。

 私は芝居が好きだがミュージカルは敬遠している。それでも、芝居を作り上げるには歌謡が重要だと思っている。芝居は芝居じみなけらば芝居にならず、そのツールに歌謡が有効だと認識している。だが、『橋の下のアルカディア』を観て、歌謡だけで芝居を作ることも可能だとはじめて知った。

 舞台で歌いあげる中島みゆきを眺めながら、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するなら、中島みゆきが日本文学大賞か谷崎潤一郎賞を受賞することもあり得るのではなどと思った。

『仮名手本忠臣蔵』の解説書2冊を読んだ2016年11月26日

『忠臣蔵』(戸板康二/創元選書/東京創元社)、『忠臣蔵の世界:日本人の心情の源流』(諏訪春雄/大和書房)
 歌舞伎鑑賞の前提のつもりで読み返した『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』が史実探求ミステリーだったので、その口直し気分で赤穂事件の史実ではなく芝居『仮名手本忠臣蔵』にウエイトを置いた次の2冊を読んだ。

(1)『忠臣蔵』(戸板康二/創元選書/東京創元社)
(2)『忠臣蔵の世界:日本人の心情の源流』(諏訪春雄/大和書房)

 (1)は1957年の初版を1968年に改訂したもの、(2)は1982年の出版、どちらもかなり昔の本だ。最近古書で入手した。

 (1)の著者・戸板康二氏は高名な演劇評論家で『名作歌舞伎全集』(東京創元社)の解説文も書いている。「仮名手本忠臣蔵」の巻の解説文末尾に「創元選書の中の小著『忠臣蔵』を参考にしていただければ幸いである」とあったので、馬鹿正直にネットで古書を検索して購入した。

 (2)の著者・諏訪春雄氏は、丸谷才一氏の『忠臣蔵とは何か』(講談社)を巡って丸谷氏と忠臣蔵論争を展開した国文学者だ。私が忠臣蔵への関心を自覚したのは1984年刊行の『忠臣蔵とは何か』がきっかけで、この論争のあらましは把握しているが、今はこの論争にさほど関心はない。文学作品の読み方は多様だと思っているからだ。

 だが、古い雑誌に載っていた諏訪氏の『忠臣蔵の世界』を紹介する文章で「研究者として丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』に疑義を呈した心境がよく納得できる」という一節に接し、本書を読みたくなった。

 『仮名手本忠臣蔵』は元禄15年の討ち入りから47年後に上演された人形浄瑠璃で、その直後に歌舞伎でも上演された。(1)も(2)も浄瑠璃と歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の解説本で、(1)は歌舞伎にウエイトを置き(2)は浄瑠璃にウエイトを置いているように思える。どちらも芝居解説にとどまらず赤穂事件の史実との対応解説にかなりのページを割いている。そこにこの芝居の特異性がある。史実のインパクトが大きく、フィクションとの融合が醸成する「文化」に引きずられざるを得ないのだ。

 討ち入りの47年後に上演された『仮名手本忠臣蔵』は史実をかなりデフォルメした芝居だから、史実との対応にこだわらなくてもいいのにと思いつつ、47年という年月を思いをはせてみた。

 現在の2016年から47年前の1969年は東大安田講堂攻防や三億円事件のあった年で、三島由紀夫事件は翌年の1970年だ。67歳の私にとっては懐かしくも記憶鮮明な過去で、歴史のかなたの遠い昔ではない。当時『仮名手本忠臣蔵』を観た人々は、いまの私たちが安田講堂攻防、三億円強奪、三島由紀夫割腹などをテーマにした演劇を観るのと同じ時間感覚で観劇したことになる。

 そう思うと、この芝居は当時の人々の事件への心情を反映した同時代演劇だとあらためて気付いた。史実ヌキにこの芝居を語ることはできないのかもしれない。

 戸板康二氏の『忠臣蔵』は『仮名手本忠臣蔵』の演出と演技を詳細に解説していて観劇の手引きになる。ただし、取り上げている役者は過去の未知の人ばかりなので具体的イメージをつかむのは難しい。

 諏訪春雄氏の『忠臣蔵の世界』は演出や演技より戯曲にウエイトをおいたわかりやすい解説書だ。私がユニークに思ったのは十段目の評価だ。「天河屋の義平は男でござる」の段で、一般にこの段の評価は高くない。戸板康二氏も「十段目は作として低調なものである」「四・六・九段目にくらべて、各段に見劣りのする十段目であり、上演度数のすくないのも、当然と思われる」と述べている。諏訪氏はこの十段目を次のように評価している。

 「当時の戯曲の作劇法の特色をよく発揮した名場面であったといえる。この場面にはいかにも日本人好みの趣向が巧みに配置されている」「この十段目には、大衆劇としての近世演劇の論理がみごとに貫徹している」「この十段目には、日本人の心性に対するみごとな洞察がある」

 私も、芝居じみたこの十段目が嫌いではない。