完全通し『仮名手本忠臣蔵』第1部を観て腑に落ちたこと2016年10月21日

 国立劇場開場50周年記念3ヶ月連続完全通し上演『仮名手本忠臣蔵』の第1部を観た。11時から16時過ぎまでで大序から4段目までの上演だ。

 国立劇場では芝居パンフレットとは別に上演台本も販売する。今回は手元の『名作歌舞伎全集』所収の台本にないシーンもある完全上演でなので、台本も買うつもりで行った。だが、なんと台本は売り切れだった。増刷中で郵送予約を受け付けていたので予約した。私の前後にも郵送予約の人が相次いでいた。

 開演の11時よりかなり早めに着席した。案の定10分ぐらい前には口上人形が登場し「エヘン、エヘン」と言いながら役者読み上げを始めた。続いて一幅の錦絵のようなファーストシーンである。人形のように固まった役者たちが浄瑠璃の紹介に合わせて順次目を開いて魂が入って行く。人形浄瑠璃へのリスペクトを込めた祝祭的な幕開けである。このシーンを観ていると、三波春夫が長編浪曲歌謡『大忠臣蔵』冒頭で朗々と歌いあげる「忠臣蔵の幕が開く」という名調子が聞こえてくる気がしてワクワクしてくる。

 今回の完全上演の内容は以下の9つの場面だ。

  (1) 大序  鶴ヶ丘社頭兜改めの場
  (2) 二段目 桃井館力弥使者の場
  (3)     桃井館松切りの場
  (4) 三段目 足利館門前の場
  (5)     足利館松の間刃傷の場
  (6)     足利館裏門の場
  (7) 四段目 扇ヶ谷塩冶館花献上の場
  (8)     扇ヶ谷塩冶館判官切腹の場
  (9)     扇ヶ谷塩冶館面門城明渡しの場

 私にとっては、この9つの場面のうち(2)(3)(6)(7)の4つのは初見だ。かつて観た「通し」と銘打った舞台は完全通しではなく抜粋だった。

 とは言え、全段の台本は一応読んでいるので、ストーリーの全貌は把握しているつもりでいた。しかし、当然のことながら台本を読むのと実際の舞台を観るのとでは大違いである。台本を読むだけでは芝居の神髄は伝わってこない。

 今回、四段目までの完全上演を観て、『仮名手本忠臣蔵』の中で漠然と感じていた「変な話だなあ」という気分のいくつかがすっきりと霧消した。四段目までを観るだけで、その後のあれやこれやの展開が腑に落ちたのだ。

 たとえば勘平とお軽である。私の中では「道行き」「山崎街道」「勘平切腹」の印象がすべてで、忠臣蔵のメインストーリーから外れた変な話だなあという感覚があった。しかし、上記(4)(6)での勘平とお軽の登場シーンを観ると、その後の展開ときちんと繋がっていることがわかる。これらのシーンが頭に残っていれば「山崎街道」から「勘平切腹」に至る話に説得性が出てくる。

 また、加古川本蔵のイメージも変貌した。刃傷の場で塩冶判官を抱き留めただけの男が後々のシーンで自ら大星力弥に討たれるのは、歌舞伎的誇張だとしても変な話だなあと感じていたが、私の間違いだった。刃傷の場で塩冶判官を抱き留める以前から伏線があり、それらが後の展開を説得的にしていることが(2)(3)の場面で理解できた。

 浅野内匠頭という人物を塩冶判官と桃井若狭之助という二人の人物像に分解して物語を面白くしているという設定も今頃になって得心でき、加古川本蔵の役回りの大きさが見えてきた。

 なお、安野光雅氏が『繪本仮名手本忠臣蔵』の中で「資料がみつからない」と述べていた「(4)花献上の場」もしっかり観ることができた。全体のストーリーとの繋がりの少ない短い場面で、省略されることが多いのもわかる。「切腹の場」という緊迫した場面が始まる前の、表面的には華やかな前奏曲のような趣きがある。この場面の上演は東京では41年ぶりだそうだ。

 歌舞伎は頭で理解したり解釈するといよりは、絵画や音楽のように感性で楽しむという要素が大きい。ただし、それを本当に楽しむ前提として、舞台世界の全貌をきちんと把握しておくことが肝心だということに気付いた。当然のことだ。それが、今回の収穫だった。