ユルスナールの小説に続いてハドリアヌスの評伝も読んだ2016年09月15日

『ローマ皇帝ハドリアヌス』(ステュワート・ペローン/暮田愛訳/前田耕作監修/河出書房新社)
◎ハドリアヌスは自己中心主義者

 小説『ハドリアヌス帝の回想』を読むと、小説でないハドリアヌス帝の評伝も読んでみたくなった。

 かなり以前に読んだ塩野七生『ローマ人の物語』にはハドリアヌスをかなり詳しく書いていたと思い出し、文庫版の第26巻(賢帝の世紀[中])から第27巻(賢帝の世紀[下])前半までの「皇帝ハドリアヌス」という項目にザーッと眼を通した。あらためて『ローマ人の物語』は塩野七生氏の男性論だなあと思った。塩野七生氏はハドリアヌスをかなりイイ男に描きながらも「一言で評せよといわれれば、徹底した自己中心主義者、と答えるしかない」と評している。けなしているのではなく、評価しているのだと思う。

◎英国人の書いた『ローマ皇帝ハドリアヌス』

 『ローマ人の物語』をめくり返した後、ネットの古書店で見つけた次の本を読んでみた。

 『ローマ皇帝ハドリアヌス』(ステュワート・ペローン/暮田愛訳/前田耕作監修/河出書房新社)

 2001年に出版された翻訳書で、原書の刊行は1960年。著者は1901年生まれの英国人、戦前にパレスティナで植民行政に携わった人だそうだ。

 本書を読んでいると、かつてパクス・ブリタニカを生み出した英国人の著作だなと感じる箇所が多い。また、キリスト教が普及する以前の多神教のローマ世界は、一神教の現代人にはわかりにくい、という前提で書かれているのが面白い。キリスト教徒でない私には思いもよらない前提だ。

 同じ英国人であるギボンについて、ローマ世界の宗教の理解が「軽薄」と決めつけているのも興味深い。ギボンの一節を紹介して、「この件(くだり)は一八世紀の『合理主義者』が古代の信仰についてどれほどまでに完璧に誤解をしていたかを示すために思い出すだけの価値があろう」とまで述べている。

 著者はローマ世界の宗教の複雑さを指摘しているのだが、ものごとを整理して単純化して眺めるという「合理主義者」的な見方も時には有効な場合があると私は感じる。本書全般において著者はキリスト教に同情的なので、キリスト教に批判的な面も多いギボンと折り合いが悪いのかと勘繰った。

 著者が英国人だからか、ブリタンニアに築かれたハドリアヌスの城壁を詳述している。この壁には随所に要塞があり、壁に沿った道路も作られていたそうだ。「この壁は部分的に情報連絡網として使用することを意図したものである。これこそこの壁がもつ有効性であったからである」という指摘には、ナルホドと納得した。

◎ハドリアヌスをコンスタンティヌスの先駆者?!

 本書は、ローマ市民や元老院とは折り合いが悪かったハドリアヌスの業績や人物像を全体として高く評価している。最終章ではハドリアヌスの三つの業績を挙げ、最初の二つは彼が意図したものだが、最後の一つは望まずして成ったものだとしている。

 第一の業績は行政と軍隊の改革であり、第二の業績は建築家でもあった皇帝が残した建造物である。

 そして、第三番目はなんとキリスト教普及である。ハドリアヌスがキリスト教に関心を示したことはなかったが、エルサレムからユダヤ人を追放したことがキリスト教発展のきっかけになったという指摘だ。キリスト教徒をエルサレムに植民させたからである。著者はハドリアヌスをコンスタンティヌスの先駆者と述べている。

 この見解には驚いた。どの程度妥当な見解か私には判断できない。背教者ユリアヌスを「安っぽい機知で知られる」と形容しているのも面白い。

◎ユルスナールと同じようにハドリアヌスに同情的

 本書はユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』の後に出版されている。古代の記録をベースにした史書なので、当然ながらユルスナールへの言及はない。本文を読み終えて「訳者あとがき」を読むと、冒頭部分に次の一節があった。

 「ユルスナールの小説『ハドリアヌス帝の回想』と併せて読んでいただければ、歴史と文学、その虚実の綾がいっそうの興趣をそそることであろう。」

 まさに、私は訳者の要望通りに「併せ読み」をしたわけだ。ユルスナールの方が「文学」的な読み応えがあるのは当然である。「歴史」に関しては、そもそも虚実の判断が難しいので比較が難しい。

 本書と『ハドリアヌス帝の回想』は基本的には似たスタンスで書かれているように思えた。皇帝就任時に反対派4人を殺害した件や同性の愛人アンティノウスの水死にまつわる経緯などは、両書ともハドリアヌスに寄り添った同情的な書き方になっている。

 早世した後継者ルキウスに関しても相応のページが割かれていて、『テルマエ・ロマエ』や『ハドリアヌス帝の回想』のウラを取った気分になれた。彼がハドリアヌスの私生児だったとう説を紹介しているのが興味深かった。

◎上野でハドリアヌスとアンティノウスに対面

 本書を読み終わりかけた某日、所用で上野へ出かけ、ついでに国立博物館で開催中の「特別展古代ギリシャ」を観た。ギリシャ文明の遺品を観ておこうという軽い気分で入場したのだが、最後の展示室は「ヘレニズムとローマ」というテーマになっていた。そこにはハドリアヌスの頭像とアンティノウスの胸像が並べて飾られていた。

 いま読み終わろうとしている本の主人公と登場人物の像に思いがけず遭遇し、感動してしまった。二つの像をまじまじと眺めつつ、悠久の時間を超えてあの時代を生きた人物のリアルに触れた気分になった。

 本書によれば、残存するハドリアヌスの頭部の彫像は250個、アンティノウスの胸像はその倍の500個ほどだそうだ。そのいくつかの写真は私も本などで観ている。同時代に作成されたと思われる実物との対面は初体験だ。じっくり対面していると、その人物が何を考えどう生きていたのかという興味が自ずとわきあがってくる。

 アンティノウス像と言えば、塩野七生氏が「知性ゼロ」と喝破していたのを想起した。「美しさならば完璧で、そのうえまことに官能的だが知力をうかがわせるものは影さえもない」と評しているのを思い出しながら、博物館のアンティノウスの胸像をしげしげと眺め、塩野説に納得した。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
ウサギとカメ、勝ったのどっち?

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://dark.asablo.jp/blog/2016/09/15/8190539/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。