本物の回想記と錯覚しそうな小説『ハドリアヌス帝の回想』2016年09月12日

『ハドリアヌス帝の回想』(マルグリッド・ユルスナール/多田智満子訳/白水社)
◎ユルスナールが1951年に発表した傑作

 ローマ帝国史の概説書を何冊か読み、頭がローマ史モードになっているのを機に、以前から気になっていた高名な次の小説を読んだ。

 『ハドリアヌス帝の回想』(マルグリッド・ユルスナール/多田智満子訳/白水社)

 フランスの女流作家ユルスナールが1951年に発表し、高い評価を受けた小説である。塩野七生氏も『ローマ人の物語』の中でこの小説について、かなりのページを割いて紹介・評価している。

 この小説は、62歳のハドリアヌス帝が死の直前にマルクス・アウレリウス(ハドリアヌスの次の次の皇帝。このとき17歳)宛てに書いた回想記という形になっている。これが、たいした代物で、小説とわかって読み進めていても、本物の回想記を読んでいるような錯覚に陥りそうになり、「そうか、そうだったのか」などと感じてしまい、つい傍線を引きながらの読書になった。

◎『テルマエ・ロマエ』の登場人物を検証

 ローマ帝国の通史を読んでいると、数多くの皇帝が次々に登場して頭の中がゴチャゴチャしてくる。そのゴチャゴチャの中で比較的鮮明な印象が残る皇帝の一人がハドリアヌス帝だ。五賢帝の真ん中の在位だから賢帝の中の賢帝のように見えるし、現代の西欧、中欧、トルコ、中近東、アフリカ北部をカバーする広大な帝国領土をくまなく巡回した「旅する皇帝」いうイメージにロマンも感じる。映画『テルマエ・ロマエ』で市村正親が演じた皇帝だから、われわれ日本人にも近しい・・・とまでは言えないか。

 私は『テルマエ・ロマエ』の原作漫画も読んでいるので、荒唐無稽に見えるこの作品が、作者ヤマザキマリ氏の古代ローマへの大いなる関心と該博な知識に裏打ちされていることに感心していた。そして、映画では北村一輝が演じたルキウスという人物(ハドリアヌスの後継に指名されるが早世した人物)が気になっていた。概説的な通史ではほとんど触れられないので、どんな人物かよくわからなかったのだ。

 今回、『ハドリアヌス帝の回想』を読んでルキウスの輪郭がわかり、北村一輝が演じた役柄が「史実」に近いことを確認できた。『ハドリアヌス帝の回想』をフィクションではなく史書と仮定したうえでの話ではあるが、そんな読み方になってしまう。

 ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』は、かなりの年月を重ねて多くの史料に基づいて書き上げられた小説なので、史書のように読む読み方もあながち間違いではないように思えるのだ。

◎自身の回顧録と後代の小説の違いは?

 ハドリアヌスは実際に回想記を書いたらしいが現存していない。その内容を断片的に伝える記録が残っているだけだ。

 仮に回想記が残っていたとしても、それが事実や真実を伝える記録になるわけではない。私自身にも言えるが、人の記憶は存外あやふやなもので、記憶違い、記憶のねつ造、記憶の美化などは常に発生する。回想記などを書こうとすれば、己れの過去の行動や考えを現在の眼で正当化しようとする気分から逃れるのは難しい。

 そう考えると、実際の回想記も後代の作家が創作した「回想記」も大きな違いがないようにさえ思えてくる。あくまで、ひとつの見方、考え方である。ただ、それがどの程度に深いのか浅いのかの違いはある。

 私が『ハドリアヌス帝の回想』を読みながら興味をもったのは、彼の生涯における二つのスキャンダラスな事件をどう扱っているかだった。一つは皇帝就任時に、政敵だった4人の元老院要人を殺害した件で、もう一つは若い同性の愛人アンティノウスがナイル川で死亡して皇帝が意気喪失した件である。

 この「小説」では、この二つを綺麗な形で回想している。ハドリアヌス自身が多少の自己正当化をまぎれこませながらも真情を込めて書いているように見えて、本当にハドリアヌスはこういうふうに回想したに違いないと思えてくる。

 『ハドリアヌス帝の回想』は、生涯の回顧録である以上にハドリアヌスの瞑想録である。瞑想の部分になると心の中の問題だから、何が事実かという問題ではなくなり、人間像の描写の問題になる。作者は丹精込めてハドリアヌスという人間像を造形している。

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