『ある通商国家の興亡』で「歴史に学ぶ」を学ばねばと思うが・・・2016年09月03日

 『ある通商国家の興亡:カルタゴの遺書』(森本哲郎/PHP文庫
◎バブル期の警世の歴史書を読む

 中央公論社版『世界の歴史⑤ ギリシアとローマ』付録月報の座談会で執筆者・本村凌二氏の次の発言が目にとまった。

 「森本哲郎さんが言うように、カルタゴは日本ですよ(笑)」

 森本哲郎氏は往年の著名な新聞記者で、学生の頃から文学・文化関連の署名記事をいくつか読んだ記憶がある。社会人になった頃、新入社員研修の一環で氏の講演を聞き、その洒脱な語りに感心した記憶もある。本村凌二氏の発言に触発され、次の本を古書で入手して読んだ。

 『ある通商国家の興亡:カルタゴの遺書』(森本哲郎/PHP文庫/1993年10月)

 この本、単行本が出版されたのが1989年6月で4年後に文庫になっている。当時、本書のタイトルを目にした記憶はある。しかし関心外だった。日々の仕事に追われていた私にカルタゴはあまりに遠い存在だった。今回、本書を読んで、バブル期の経済大国・エコノミックアニマル日本にぴったりの警世の歴史書だと思った。

◎カルタゴ側から見たポエニ戦争

 『ある通商国家の興亡』は著者のジャーナリストとしての嗅覚と発想が深い学識に裏付けされた本だ。カルタゴ興亡史(滅亡史の方が適切か)を語りながら日本の現状に警鐘を鳴らしている。

 カルタゴは三次にわたるローマ帝国とのポエニ戦争に敗れ、最期は徹底的に破壊され地上から消滅する。森本氏は本書において、通商国家カルタゴを日本、軍事大国ローマ帝国をアメリカに見立てている。

 カルタゴは第一次、第二次ポエニ戦争に敗れ、領土の一部を失い膨大は賠償金を課せられたにもかかわらず、短期間で驚異の経済復興を遂げる。それがローマの警戒心を煽り、第三次ポエニ戦争を誘発して滅亡させられてしまう。

 私はこれまで、いくつかのローマ史の本でポエニ戦争の経緯を読んでいる。それだと、ついローマ側に感情移入し、カルタゴを他者(敵)と見なしがちである。英雄ハンニバルも魅力的であっぱれで恐ろしい敵将に見えてしまう。本書でカルタゴ側から見たポエニ戦争を読んで、景色の見え方がかなり違った。これは教訓になった。

◎カルタゴで文化は育たなかった?

 では、日本はカルタゴの轍を踏まないよう留意せよという指摘は教訓になったか。これはビミョーだ。本書刊行後、日本は「失われた20年」を経験しデフレにあえいでいる。もはや、エコノミックアニマルと警戒されているとは思えない。

 森本氏によればカルタゴ人はひたすら商業にのみ関心をもち、お金を貯め込むだけでそれを使うことをしなかったという。カルタゴの街に娯楽施設などはほとんどなく、文化を生み出すこともなかった。その不気味さがローマ人に「カルタゴは滅ぼさねばならない」と決意させた。この森本説が的確か否かは私には判断できない。ただし、文化の涵養の重要性を説くところは「文化」記者・森本哲郎氏の真骨頂だ。この点は、現代にもあてはまる課題で共感できる。

 本書はバブル期に同時代の風潮に警鐘を鳴らしている。いま読むと本書にもバブル期の高揚が反映されていて、それが面白い。第二次ポエニ戦争でハンニバルが象を連れてアルプス越えした史実を検証するために、本物の象をアルプス山中に連れてきて実験をしているのだ。その写真が本書に掲載されている。TBSのテレビ番組との連携企画として実施したそうだ。アルプスに住むヨーロッパの人々は経済大国日本から来たクルーの所行に驚いたはずだ。不気味と思われていなければいいのだが・・・。

◎歴史は共同幻想か?

 
 『ある通商国家の興亡』はポエニ戦争を書いた歴史書としては秀逸で十分に読む価値がある。教訓を述べる部分では森本氏の当時の日本への懸念が色濃く反映されていて、結論を急いでいるように見える。いまの日本は「日本は滅ぶべし」と恐れられているとは思えない。20年以上経ち、全体のトーンにやや違和感が残るのはやむをえないのだろう。

 先日(2016年8月30日)の朝日新聞朝刊オピニオン面に『「縄文時代」はつくらた幻想にすぎない』という記事が載っていた。先史学者・山田康弘氏へのインタビューをまとめたものだ。戦後から現代にいたるまでの「縄文時代」観の変遷を語り、「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです。」と述べている。

 この記事を読んで、本書の読後感と響き合った。歴史記述が、それを記述した時代風潮に大きく影響されるのはわかるが、私が生まれた終戦直後から現在までの半世紀ほどの期間にも「時代の空気」が変遷し歴史記述もそれに影響されて変遷しているように見える。数千年の人類の歴史から見れば半世紀は短い。にもかかわらず歴史記述が変遷するのだ。二千年以上にわたる有史時代に記述された数多の歴史書となるタイヘンだ。歴史を知ることは、歴史に学ぶことに通じなければならないが、それは「学ぼうとする時代」の反映でもあり、その「学ぼうとする時代」を知らねばならず・・・などと考えだすと無限連鎖に陥りそうで、気が遠くなる。