山田方谷ゆかりの地を歩く(1) --- 刑部の方谷記念館 ― 2016年02月14日
◎山田方谷ゆかりの地は三カ所
岡山県新見市にある父母の墓参りに行くのを機に山田方谷ゆかりの地を訪ねることにした。
山田方谷は備中松山藩の藩政改革に活躍した幕末の陽明学者で、JR伯備線には「方谷(ほうこく)」という駅がある。人名が駅名になったのは異例だそうだ。小学生の頃、私は夏休みのたびに祖父母の住む新見へ伯備線で行っていた。だから「方谷」という駅名は子供の頃から耳になじんでいた。しかし、方谷が地名ではなく人名だと知ったのは約10年前、50代後半になってからだ。
その頃、司馬遼太郎の『峠』に山田方谷が登場すると知り、この小説を読んだ。それ以来、山田方谷についてもう少し知りたいと思いつつ月日が過ぎた。今回、久々に岡山へ行くのをきっかけに、山田方谷に関する本を何冊か読み、『おかやま歴史の旅百選』というガイドブックで山田方谷ゆかりの地を調べた。そこに紹介されている「ゆかりの地」は次の三つだ。
・備中松山城(JR伯備線備中高梁駅から車15分下車徒歩20分)
・方谷園(JR伯備線方谷駅から車10分)
・方谷庵・方谷記念館(JR姫新線刑部駅から徒歩15分)
この三つはかなり離れた位置にある。ドライブ旅行ではなく汽車の旅でこれらを巡るのは大変そうだが、2泊3日の旅行で墓参りの他にこの三つのすべてに行くことにした。
◎山村にたたずむ山田方谷記念館
最初に訪ねたのは姫新線の刑部(おさかべ)駅から徒歩15分の方谷記念館である。ネットに月火休館とあり、訪問予定日は水曜日なので大丈夫だとは思ったが、念のために事前に電話で確認した。「休館は月曜と火曜ですが、事前に連絡いただければ、休館日でもなるべく開けるようにしています」という親切な対応だった。
姫新線は姫路と新見をつなぐ鉄道で、刑部は新見の三つ手前の駅だが、姫路から新見まで行く列車はない。新幹線で岡山まで行き、津山線で津山まで行って一泊、津山発新見行きの姫新線に乗り、刑部駅で途中下車した。11時22分に下車し、次の14時2分に乗車した。1日8本のローカル線なので、乗り遅れると次は17時17分になってしまう。
刑部駅は無人駅で、駅の周辺に店などはない。人通りのない道を約15分歩き、方谷記念館にたどり着いた。私の他に客はいないだろうと思っていたが、記念館の前に三重ナンバーの車が止まっていて、4人の先客がいた。先客は私と入れ違いで出て行ったので、一人でゆっくり見学できた。
管理人らしき老夫婦がいて、まず最初にビデオ上映があり、お茶とお菓子が出た。2本立てのそこそこに長いビデオだったので、それを観ながら持参したコンビニ握り飯で昼食をとった。ビデオの後、管理人らしき亭主の展示説明もあり、いろいろお話しもできた。
その亭主は元JR職員だそうだ。「私はJRに長い間勤めていましたが、方谷駅が人名だと知ったのは60歳を過ぎてからです。地元に立派な人がいたんですねえ」と語るのが、私と似たような体験なので面白かった。
この記念館のオープンは12年前の2004年で、当初の来館者は年間数百人だったが、最近は増加して年間千人を超えたとのことだ。ということは1日平均5人前後か。のんびり見学できるのは間違いない。
◎方谷山田先生遺蹟碑の見学は断念
記念館の少し先に方谷庵があり、それは外から見学した。刑部には方谷山田先生遺蹟碑というオベリスクもある。勝海舟が題字を揮毫した石碑で、これも記念館の近所にあるのだろうと思っていたが、駅の反対側のかなり遠い所にある。そこにも行こうと思っていたが、のんびりし過ぎて時間がなくなった。徒歩でオベリスクを目指したがなかなかたどり着かず、汽車の時刻が気になり途中で引き返した。乗り過ごすと次の汽車まで3時間以上待つことになってしまうのだ。
岡山県新見市にある父母の墓参りに行くのを機に山田方谷ゆかりの地を訪ねることにした。
山田方谷は備中松山藩の藩政改革に活躍した幕末の陽明学者で、JR伯備線には「方谷(ほうこく)」という駅がある。人名が駅名になったのは異例だそうだ。小学生の頃、私は夏休みのたびに祖父母の住む新見へ伯備線で行っていた。だから「方谷」という駅名は子供の頃から耳になじんでいた。しかし、方谷が地名ではなく人名だと知ったのは約10年前、50代後半になってからだ。
その頃、司馬遼太郎の『峠』に山田方谷が登場すると知り、この小説を読んだ。それ以来、山田方谷についてもう少し知りたいと思いつつ月日が過ぎた。今回、久々に岡山へ行くのをきっかけに、山田方谷に関する本を何冊か読み、『おかやま歴史の旅百選』というガイドブックで山田方谷ゆかりの地を調べた。そこに紹介されている「ゆかりの地」は次の三つだ。
・備中松山城(JR伯備線備中高梁駅から車15分下車徒歩20分)
・方谷園(JR伯備線方谷駅から車10分)
・方谷庵・方谷記念館(JR姫新線刑部駅から徒歩15分)
この三つはかなり離れた位置にある。ドライブ旅行ではなく汽車の旅でこれらを巡るのは大変そうだが、2泊3日の旅行で墓参りの他にこの三つのすべてに行くことにした。
◎山村にたたずむ山田方谷記念館
最初に訪ねたのは姫新線の刑部(おさかべ)駅から徒歩15分の方谷記念館である。ネットに月火休館とあり、訪問予定日は水曜日なので大丈夫だとは思ったが、念のために事前に電話で確認した。「休館は月曜と火曜ですが、事前に連絡いただければ、休館日でもなるべく開けるようにしています」という親切な対応だった。
姫新線は姫路と新見をつなぐ鉄道で、刑部は新見の三つ手前の駅だが、姫路から新見まで行く列車はない。新幹線で岡山まで行き、津山線で津山まで行って一泊、津山発新見行きの姫新線に乗り、刑部駅で途中下車した。11時22分に下車し、次の14時2分に乗車した。1日8本のローカル線なので、乗り遅れると次は17時17分になってしまう。
刑部駅は無人駅で、駅の周辺に店などはない。人通りのない道を約15分歩き、方谷記念館にたどり着いた。私の他に客はいないだろうと思っていたが、記念館の前に三重ナンバーの車が止まっていて、4人の先客がいた。先客は私と入れ違いで出て行ったので、一人でゆっくり見学できた。
管理人らしき老夫婦がいて、まず最初にビデオ上映があり、お茶とお菓子が出た。2本立てのそこそこに長いビデオだったので、それを観ながら持参したコンビニ握り飯で昼食をとった。ビデオの後、管理人らしき亭主の展示説明もあり、いろいろお話しもできた。
その亭主は元JR職員だそうだ。「私はJRに長い間勤めていましたが、方谷駅が人名だと知ったのは60歳を過ぎてからです。地元に立派な人がいたんですねえ」と語るのが、私と似たような体験なので面白かった。
この記念館のオープンは12年前の2004年で、当初の来館者は年間数百人だったが、最近は増加して年間千人を超えたとのことだ。ということは1日平均5人前後か。のんびり見学できるのは間違いない。
◎方谷山田先生遺蹟碑の見学は断念
記念館の少し先に方谷庵があり、それは外から見学した。刑部には方谷山田先生遺蹟碑というオベリスクもある。勝海舟が題字を揮毫した石碑で、これも記念館の近所にあるのだろうと思っていたが、駅の反対側のかなり遠い所にある。そこにも行こうと思っていたが、のんびりし過ぎて時間がなくなった。徒歩でオベリスクを目指したがなかなかたどり着かず、汽車の時刻が気になり途中で引き返した。乗り過ごすと次の汽車まで3時間以上待つことになってしまうのだ。
山田方谷ゆかりの地を歩く(2) --- 高梁市中井の方谷園 ― 2016年02月14日
◎車でしか行けない方谷園
方谷園は山田方谷が生まれた高梁市中井西方にあり、方谷の墓も園内にある。最寄り駅は伯備線の方谷駅で、そこから車で10分かかる。周辺には何もない無人駅で、もちろんタクシー乗り場などない。
方谷園に行くとすれば、新見駅か備中高梁駅からタクシーで行くしかなさそうだ。かなりの費用になりそうだが、エイヤと決断し、新見からタクシーで往復することにした。事前に東京からタクシー会社に電話した。「方谷園」と言えばすぐ通じると思っていたが、なかなか伝わらない。ガイドブックにある住所を言って何とか伝わった。地元で山田方谷を知らない人は少ないが方谷園はあまり一般的でないようだ。
さらに驚いたことに、方谷駅から方谷園のある高梁市中井までの道路は通行止めなっていて、すぐに復旧する見込みはないそうだ。多少大回りになるが別ルートで行けるとのことなので、タクシーを予約した。
◎方谷園は閑静な墓地だった
途中下車した刑部駅から姫新線に乗り新見駅に到着したのが14時26分、駅前には予約したタクシーが待っていた。方谷園までは約50分、途中かなり細い山道を登って行った。山奥の日影の道端には残雪もある。年配の運転手も方谷園へ行くのは初めてのようで、途中2回ほど車を止めて地元の人にルートを確認していた。
方谷園は川沿いの山裾にある山田家の墓地で、その前方に小さな庭園が作られている。閑静でひなびた場所で、浮世から隔離された心地良いひとときを過ごした。
◎方谷資料展示室も見学
方谷園の近所の中井地域市民センターという施設の中には方谷資料展示室がある。入口にたたずんでいると、どこからか職員の女性が現れ展示室の照明を点けてくれた。親切にも「説明員を呼べますが…」と言ってくれたが、時間の余裕もないのでそれは断わった。方谷の筆跡やパネル展示などを一通り眺めて、タクシーで新見へ戻った。見学時間を含めて往復で約2時間、タクシー代は16,000円ほどだった。
◎方谷駅は車窓から眺めるだけ
タクシーで方谷園へ往復しようと決意した時、方谷駅で途中下車して周辺を散策したいと思った。かつて山田方谷が居住していた場所が方谷駅のあたりなのだ。方谷駅経由のルートが通行止めだったため、その散策の目論見はかなわなかった。で、翌日、新見から備中高梁へ行く途中に車中から駅の看板を撮影した。小学生時代から知っている駅だが、その時から現在に至るまでいつも通過するだけだ。いつか、下車してみたい。
方谷園は山田方谷が生まれた高梁市中井西方にあり、方谷の墓も園内にある。最寄り駅は伯備線の方谷駅で、そこから車で10分かかる。周辺には何もない無人駅で、もちろんタクシー乗り場などない。
方谷園に行くとすれば、新見駅か備中高梁駅からタクシーで行くしかなさそうだ。かなりの費用になりそうだが、エイヤと決断し、新見からタクシーで往復することにした。事前に東京からタクシー会社に電話した。「方谷園」と言えばすぐ通じると思っていたが、なかなか伝わらない。ガイドブックにある住所を言って何とか伝わった。地元で山田方谷を知らない人は少ないが方谷園はあまり一般的でないようだ。
さらに驚いたことに、方谷駅から方谷園のある高梁市中井までの道路は通行止めなっていて、すぐに復旧する見込みはないそうだ。多少大回りになるが別ルートで行けるとのことなので、タクシーを予約した。
◎方谷園は閑静な墓地だった
途中下車した刑部駅から姫新線に乗り新見駅に到着したのが14時26分、駅前には予約したタクシーが待っていた。方谷園までは約50分、途中かなり細い山道を登って行った。山奥の日影の道端には残雪もある。年配の運転手も方谷園へ行くのは初めてのようで、途中2回ほど車を止めて地元の人にルートを確認していた。
方谷園は川沿いの山裾にある山田家の墓地で、その前方に小さな庭園が作られている。閑静でひなびた場所で、浮世から隔離された心地良いひとときを過ごした。
◎方谷資料展示室も見学
方谷園の近所の中井地域市民センターという施設の中には方谷資料展示室がある。入口にたたずんでいると、どこからか職員の女性が現れ展示室の照明を点けてくれた。親切にも「説明員を呼べますが…」と言ってくれたが、時間の余裕もないのでそれは断わった。方谷の筆跡やパネル展示などを一通り眺めて、タクシーで新見へ戻った。見学時間を含めて往復で約2時間、タクシー代は16,000円ほどだった。
◎方谷駅は車窓から眺めるだけ
タクシーで方谷園へ往復しようと決意した時、方谷駅で途中下車して周辺を散策したいと思った。かつて山田方谷が居住していた場所が方谷駅のあたりなのだ。方谷駅経由のルートが通行止めだったため、その散策の目論見はかなわなかった。で、翌日、新見から備中高梁へ行く途中に車中から駅の看板を撮影した。小学生時代から知っている駅だが、その時から現在に至るまでいつも通過するだけだ。いつか、下車してみたい。
山田方谷ゆかりの地を歩く(3) --- 備中松山城 ― 2016年02月14日
◎天空の城・松山城に登城
方谷記念館と方谷園を訪れた翌日の帰京日、備中高梁駅で途中下車し、備中松山城に行った。城の登り口までは事前予約制の乗合タクシー(往復860円)を利用した。車を降りてから徒歩20分と聞いていたが、この20分の登山はかなりきつかった。寒い冬の日だが、汗だくになり途中でコートを脱いだ。
備中松山城は現存天守12城の一つで天空の城としても有名な観光地だ。訪問者もそこそこに多い。とは言え、20分の登山をしなければたどり着けない場所なので、人がひしめきあう状態ではなく、ほどよい混み具合だ。天守閣のある山頂から見下ろす高梁川沿いの城下町の景観もすばらしい。
◎昔の藩士たちはこの山道を毎日登ったのか?
それにしても、山田方谷ら備中松山藩の藩士たちはこの山道を毎日登り下りしていたのだろうかと疑問に思った。足腰の鍛錬にはなりそうだが、現代の満員電車での通勤以上に消耗するようにも思える。その疑問は帰京の新幹線車中での読書で解消した。山田方谷記念館で買った本の中に「江戸時代とはいえ、毎日山の頂上までは登っていなかった。天守閣に行くのは祭事など特別な場合のみである」という記述があった。藩主が日常的に住んでいたのは平地の御殿で、藩政はそこで行われていたそうだ。
◎山田方谷は大河ドラマになるか?
備中松山城内の展示室に、山田方谷をNHK大河ドラマへという運動の署名簿があった。この運動があることは数年前から知っていた。百万人署名を目指しているらしい。方谷園まで往復してもらったタクシーの運転手は「山田方谷を大河ドラマにしようという運動がありましたが、戦闘シーンがないのでダメになったんです」と過去形で語っていたが、まだ、署名運動は続いているようだ。山田方谷を主人公にした大河ドラマが成り立つか否か、かなりビミョーだ。私は大河ドラマのファンではないが、じっくり検討してみるのも面白そうだ。
◎土産は方谷ゆべし
乗合タクシーの乗降場である駅前観光案内所で「備中国銘菓 方谷ゆべし」という土産を売っていたので、迷わず購入した。山田方谷関連の書籍を読んでいて、方谷が藩政改革の一環としてゆべし作りを奨励したという記述が印象に残っていたからだ。ゆべし作りがどれほどの産業規模だったかは知らないが、方谷が実施した大規模な財政再建に占めるゆべしのウエイトがさほど大きかったとは思えない。ゆべしの話が言い伝えられているのは、単に方谷がゆべしを好きだったのではなかろうかと勝手に想像してしまったのだ。私はゆべしが好きなので「方谷ゆべし」という表記を見てすぐに手が伸びた。
方谷記念館と方谷園を訪れた翌日の帰京日、備中高梁駅で途中下車し、備中松山城に行った。城の登り口までは事前予約制の乗合タクシー(往復860円)を利用した。車を降りてから徒歩20分と聞いていたが、この20分の登山はかなりきつかった。寒い冬の日だが、汗だくになり途中でコートを脱いだ。
備中松山城は現存天守12城の一つで天空の城としても有名な観光地だ。訪問者もそこそこに多い。とは言え、20分の登山をしなければたどり着けない場所なので、人がひしめきあう状態ではなく、ほどよい混み具合だ。天守閣のある山頂から見下ろす高梁川沿いの城下町の景観もすばらしい。
◎昔の藩士たちはこの山道を毎日登ったのか?
それにしても、山田方谷ら備中松山藩の藩士たちはこの山道を毎日登り下りしていたのだろうかと疑問に思った。足腰の鍛錬にはなりそうだが、現代の満員電車での通勤以上に消耗するようにも思える。その疑問は帰京の新幹線車中での読書で解消した。山田方谷記念館で買った本の中に「江戸時代とはいえ、毎日山の頂上までは登っていなかった。天守閣に行くのは祭事など特別な場合のみである」という記述があった。藩主が日常的に住んでいたのは平地の御殿で、藩政はそこで行われていたそうだ。
◎山田方谷は大河ドラマになるか?
備中松山城内の展示室に、山田方谷をNHK大河ドラマへという運動の署名簿があった。この運動があることは数年前から知っていた。百万人署名を目指しているらしい。方谷園まで往復してもらったタクシーの運転手は「山田方谷を大河ドラマにしようという運動がありましたが、戦闘シーンがないのでダメになったんです」と過去形で語っていたが、まだ、署名運動は続いているようだ。山田方谷を主人公にした大河ドラマが成り立つか否か、かなりビミョーだ。私は大河ドラマのファンではないが、じっくり検討してみるのも面白そうだ。
◎土産は方谷ゆべし
乗合タクシーの乗降場である駅前観光案内所で「備中国銘菓 方谷ゆべし」という土産を売っていたので、迷わず購入した。山田方谷関連の書籍を読んでいて、方谷が藩政改革の一環としてゆべし作りを奨励したという記述が印象に残っていたからだ。ゆべし作りがどれほどの産業規模だったかは知らないが、方谷が実施した大規模な財政再建に占めるゆべしのウエイトがさほど大きかったとは思えない。ゆべしの話が言い伝えられているのは、単に方谷がゆべしを好きだったのではなかろうかと勝手に想像してしまったのだ。私はゆべしが好きなので「方谷ゆべし」という表記を見てすぐに手が伸びた。
山田方谷はローカルな偉人か? ― 2016年02月20日
◎山田方谷関連本の著者の多くは縁者たち
山田方谷ゆかりの地を歩くのを機に方谷関連の以下の5冊を続けて読んだ。
(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』(童門冬二/人物文庫/学陽書房)
(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』(矢吹邦彦/明徳出版社)
(3)『備中聖人山田方谷』(朝森要/山陽新聞社)
(4)『山田方谷』(山田琢/明徳出版社)
(5)『山田方谷の夢』(野島透/明徳出版社)
山田方谷関連の本の著者の多くは方谷や縁者の末裔や郷土史家で、その大半が明徳出版社という朱子学や陽明学が専門の出版社から出ている。
(4)の著者・山田琢氏(1910~2000年)は方谷の曾孫にあたる大学教授、(5)の著者・野島透氏(1961~)は方谷6代目直系子孫の財務省官僚、(2)の著者・矢吹邦彦氏は山田方谷と深い関わりがあった庄屋・矢吹久次郎4代目子孫の大学教授だ。(3)の著者・朝森要氏は岡山県の高校教諭を務めた研究家だ。この4人の著者たちは上記以外にも方谷関連の本を書いている。
山田方谷関連の資料リストを眺めてみると、最も基本になるのは『山田方谷全集』(山田準編/明徳出版社)と『山田方谷の詩--その全訳』(宮原信/明徳出版社)という大部な本のようだ。全集の編者・山田準氏(山田済斎 1867~1952)は方谷の孫娘の婿養子にあたる学者で、全訳の著者・宮原信氏は元・高校教諭の地元の研究者である。
このように方谷関連の書籍の大半が縁者たちによって書かれているということは、山田方谷はローカルな偉人であって全国区的な存在ではないということだろうか。
◎5冊の読み比べ
5冊の中で一番面白かったのは(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』だ。「炎の陽明学」というタイトルから連想されるような過激さはあまりない。洒脱で読みやすい語り口には歴史小説的な魅力がある。歴史背景の記述から方谷の私生活への考察まで目配りのバランスもいい。
縁者による本が多い中で(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』は歴史作家・童門冬二氏による読みやすい本だ。歴史小説というよりは、山田方谷早わかり解説書で、(3)と(4)をベースに書かれている。
童門冬二氏が参考にした(3)『備中聖人山田方谷』、(4)『山田方谷』は方谷を知るための基本図書という趣がある。
曾孫の学者が書いた(4)の伝記部分は簡略で、方谷が残した文章の解説がメインだ。方谷の文章はなかなか味わい深い。と言っても、方谷は漢字だけの漢語で書いているので私にはほとんど読めない。読み下しの現代語訳で理解するだけだ。ほんの百数十年前の人が書いた文章が読めないのは、われながら情けない。
方谷ゆかりの地を巡る旅行に持参したのは(3)だ。随所に史料を引用した丁寧な伝記で、ゆかりの写真も多く掲載されている。巻末の年譜や地図もありがたい。
方谷6代目子孫の財務省官僚の手になる(5)『山田方谷の夢』には少し驚いた。ご先祖の事跡を調べて書いた伝記と思って読んだが、かなり想像力を駆使したと推測される小説仕立てになっている。他の方谷関連の本には登場しない新選組の谷三兄弟が副主人公的役割で登場するのにもびっくりした。藩政改革に関する箇所では現役財務官僚らしい考察もあり興味深い。
これらの5冊読み比べると、著者ごとの見解に多少の食い違いもあるが、山田方谷という人物の姿がおのずと浮かびあがってくる。
◎幕末維新を疑似体験
私が山田方谷に関心をもったのは、郷土の偉人について知りたいという動機もあるが、幕末維新という歴史変動の時代にアプローチしたいと考えたからだ。一人の人物に沿って時代の動きを眺めるのは歴史の疑似体験になる。山田方谷に関する本を何冊か読み、この人の生涯をたどりながら、その時々の世の眺めを推測するのは、幕末維新の疑似体験に有効だった。
山田方谷は1805年(文化2年)に生まれ1877年(明治10年)に73歳で亡くなった。明治維新は63歳で迎えている。方谷と同じ頃に相次いで亡くなった明治の元勲・西郷隆盛(1827~1877年)、大久保利通(1830~1878年)、木戸孝允(1833~1877年)より20歳以上年長だ。幕末維新に活躍した人物の中では比較的年長で長生きした勝海舟(1823~1899年)と比べても18歳年上だ。つまり、幕末維新の激動期を成熟した中高年として体験し、明治の世への変転を見届けた人なのだ。
山田方谷は農家の生まれだ。農家にもいろいろあり、方谷の両親は教育熱心だった。方谷は幼少の頃から神童と呼ばれ、学問に励み、学問によって藩主に召し抱えられ、藩校の会頭になる。やがて、学者を超えた財政家として藩政改革を断行し、藩主に次ぐ立場に登りつめる。藩主・板倉勝静が幕閣となり江戸幕府最後の老中首座にまでなるので、方谷は板倉勝静のブレーンとして国政にも関わることになる。
方谷は学問によって立身出世した人に見えるが、その学問が単純ではない。方谷の学問とは朱子学と陽明学であり、当時の知識人に必須の重要な学問だったろうが、私はこれらの学問に不案内で、その内容を理解していない。しかし、現代の目から見ると、方谷が身につけた学識は狭い道徳ではなく、経済学・経営学・歴史学・政治哲学・経済倫理学のようなものだったと推測できる。
そう考えなければ、方谷の藩政改革成功の根拠が見えてこない。方谷が藩政改革に手をつけたとき、備中松山藩には10万両(子孫の野島透氏によれば現在の600億円)の負債があったが、7年後には10万両の黒字に転換したのだ。これは、他に例のない画期的財政再建だった。その手法は現代の財政・金融・マーケティングに通じている。
山田方谷が藩政改革をできたのは、幕藩体制という封建制度の限界を早い時点から見切った醒めた眼をもっていたからでもある。その洞察力には恐れ入る。しかし、方谷にギラギラした所はない。かの佐久間象山を論破し、彼をたしなめる漢詩を作ったというエピソードも面白い。
童門冬二氏が指摘しているように、山田方谷はスタッフとラインを兼任できた人物だったのだ。リアリストで、しかも、きわめて倫理観の高い清貧の人だったようだ。そんな人の視点で幕末の激動を眺めると、山村の農耕現場から江戸城での将軍への謁見まで、上下左右の見晴らしがよい景色が浮かんでくる。
◎坦々と成功したからローカル偉人?
山田方谷に似た立場の幕末の人物に河井継之助や横井小楠がいる。長岡藩家臣の河井継之助は山田方谷の弟子で方谷に倣って藩政改革を断行するが、むしろガトリング砲の入手と北越戦争での悲劇的最期で有名だ。山田方谷が板倉勝静のブレーンだったのと同じように横井小楠は松平慶永のブレーンだった。幕末期には松平慶永の方が板倉勝静より大物で、それなりに活躍をしている(結果が出たかどうかは疑問だ)。横井小楠は時代動向への洞察力がある学者だったようが、明治2年に暗殺される。
おそらく、河井継之助や横井小楠の方が山田方谷よりは知名度が高い。河井継之助は司馬遼太郎が『峠』の主人公として描いた影響が大きいかもしれない。山田方谷の知名度が高くないのは備中松山藩が小藩だったということもあるだろうが、彼が成功者だったことにあるようにも思える。河井継之助も横井小楠も成功者というよりは悲劇の人だった。
山田方谷は悲劇の人ではない。藩主・板倉勝静は鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜とともに大阪城を脱出し、その後は奥羽越列藩同盟に参加し、さらに函館の五稜郭に入る。そこに多少の悲劇性はある。しかしその間、山田方谷は備中松山藩にいて、官軍に対して無血開城する。しかも、方谷は策を弄して板倉勝静を五稜郭から連れ戻してしまう。これでは悲劇にならない。
備中松山藩が方谷が組織した強力な農兵によって官軍と徹底抗戦し、板倉勝静が五稜郭を死に場所として戦っていれば、彼らは悲劇の人となり後世への知名度が上がったかもしれない。しかし、方谷はそんな悲劇の道は選ばなかった。
明治になってからの方谷は山村の私塾で教育に専念し、大久保利通ら新政府からの出仕要請を固辞し続ける。
山田方谷はその生涯に多くの事も見てきただろう。激動の時代だったが、学問を究めながら坦々と成功を積み重ねてきた日々とも言える。晩年は山村の教育者として自足した生活を送っている。そこにドラマはない。それ故に、方谷の名は全国区になりにくいのかもしれない。
山田方谷ゆかりの地を歩くのを機に方谷関連の以下の5冊を続けて読んだ。
(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』(童門冬二/人物文庫/学陽書房)
(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』(矢吹邦彦/明徳出版社)
(3)『備中聖人山田方谷』(朝森要/山陽新聞社)
(4)『山田方谷』(山田琢/明徳出版社)
(5)『山田方谷の夢』(野島透/明徳出版社)
山田方谷関連の本の著者の多くは方谷や縁者の末裔や郷土史家で、その大半が明徳出版社という朱子学や陽明学が専門の出版社から出ている。
(4)の著者・山田琢氏(1910~2000年)は方谷の曾孫にあたる大学教授、(5)の著者・野島透氏(1961~)は方谷6代目直系子孫の財務省官僚、(2)の著者・矢吹邦彦氏は山田方谷と深い関わりがあった庄屋・矢吹久次郎4代目子孫の大学教授だ。(3)の著者・朝森要氏は岡山県の高校教諭を務めた研究家だ。この4人の著者たちは上記以外にも方谷関連の本を書いている。
山田方谷関連の資料リストを眺めてみると、最も基本になるのは『山田方谷全集』(山田準編/明徳出版社)と『山田方谷の詩--その全訳』(宮原信/明徳出版社)という大部な本のようだ。全集の編者・山田準氏(山田済斎 1867~1952)は方谷の孫娘の婿養子にあたる学者で、全訳の著者・宮原信氏は元・高校教諭の地元の研究者である。
このように方谷関連の書籍の大半が縁者たちによって書かれているということは、山田方谷はローカルな偉人であって全国区的な存在ではないということだろうか。
◎5冊の読み比べ
5冊の中で一番面白かったのは(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』だ。「炎の陽明学」というタイトルから連想されるような過激さはあまりない。洒脱で読みやすい語り口には歴史小説的な魅力がある。歴史背景の記述から方谷の私生活への考察まで目配りのバランスもいい。
縁者による本が多い中で(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』は歴史作家・童門冬二氏による読みやすい本だ。歴史小説というよりは、山田方谷早わかり解説書で、(3)と(4)をベースに書かれている。
童門冬二氏が参考にした(3)『備中聖人山田方谷』、(4)『山田方谷』は方谷を知るための基本図書という趣がある。
曾孫の学者が書いた(4)の伝記部分は簡略で、方谷が残した文章の解説がメインだ。方谷の文章はなかなか味わい深い。と言っても、方谷は漢字だけの漢語で書いているので私にはほとんど読めない。読み下しの現代語訳で理解するだけだ。ほんの百数十年前の人が書いた文章が読めないのは、われながら情けない。
方谷ゆかりの地を巡る旅行に持参したのは(3)だ。随所に史料を引用した丁寧な伝記で、ゆかりの写真も多く掲載されている。巻末の年譜や地図もありがたい。
方谷6代目子孫の財務省官僚の手になる(5)『山田方谷の夢』には少し驚いた。ご先祖の事跡を調べて書いた伝記と思って読んだが、かなり想像力を駆使したと推測される小説仕立てになっている。他の方谷関連の本には登場しない新選組の谷三兄弟が副主人公的役割で登場するのにもびっくりした。藩政改革に関する箇所では現役財務官僚らしい考察もあり興味深い。
これらの5冊読み比べると、著者ごとの見解に多少の食い違いもあるが、山田方谷という人物の姿がおのずと浮かびあがってくる。
◎幕末維新を疑似体験
私が山田方谷に関心をもったのは、郷土の偉人について知りたいという動機もあるが、幕末維新という歴史変動の時代にアプローチしたいと考えたからだ。一人の人物に沿って時代の動きを眺めるのは歴史の疑似体験になる。山田方谷に関する本を何冊か読み、この人の生涯をたどりながら、その時々の世の眺めを推測するのは、幕末維新の疑似体験に有効だった。
山田方谷は1805年(文化2年)に生まれ1877年(明治10年)に73歳で亡くなった。明治維新は63歳で迎えている。方谷と同じ頃に相次いで亡くなった明治の元勲・西郷隆盛(1827~1877年)、大久保利通(1830~1878年)、木戸孝允(1833~1877年)より20歳以上年長だ。幕末維新に活躍した人物の中では比較的年長で長生きした勝海舟(1823~1899年)と比べても18歳年上だ。つまり、幕末維新の激動期を成熟した中高年として体験し、明治の世への変転を見届けた人なのだ。
山田方谷は農家の生まれだ。農家にもいろいろあり、方谷の両親は教育熱心だった。方谷は幼少の頃から神童と呼ばれ、学問に励み、学問によって藩主に召し抱えられ、藩校の会頭になる。やがて、学者を超えた財政家として藩政改革を断行し、藩主に次ぐ立場に登りつめる。藩主・板倉勝静が幕閣となり江戸幕府最後の老中首座にまでなるので、方谷は板倉勝静のブレーンとして国政にも関わることになる。
方谷は学問によって立身出世した人に見えるが、その学問が単純ではない。方谷の学問とは朱子学と陽明学であり、当時の知識人に必須の重要な学問だったろうが、私はこれらの学問に不案内で、その内容を理解していない。しかし、現代の目から見ると、方谷が身につけた学識は狭い道徳ではなく、経済学・経営学・歴史学・政治哲学・経済倫理学のようなものだったと推測できる。
そう考えなければ、方谷の藩政改革成功の根拠が見えてこない。方谷が藩政改革に手をつけたとき、備中松山藩には10万両(子孫の野島透氏によれば現在の600億円)の負債があったが、7年後には10万両の黒字に転換したのだ。これは、他に例のない画期的財政再建だった。その手法は現代の財政・金融・マーケティングに通じている。
山田方谷が藩政改革をできたのは、幕藩体制という封建制度の限界を早い時点から見切った醒めた眼をもっていたからでもある。その洞察力には恐れ入る。しかし、方谷にギラギラした所はない。かの佐久間象山を論破し、彼をたしなめる漢詩を作ったというエピソードも面白い。
童門冬二氏が指摘しているように、山田方谷はスタッフとラインを兼任できた人物だったのだ。リアリストで、しかも、きわめて倫理観の高い清貧の人だったようだ。そんな人の視点で幕末の激動を眺めると、山村の農耕現場から江戸城での将軍への謁見まで、上下左右の見晴らしがよい景色が浮かんでくる。
◎坦々と成功したからローカル偉人?
山田方谷に似た立場の幕末の人物に河井継之助や横井小楠がいる。長岡藩家臣の河井継之助は山田方谷の弟子で方谷に倣って藩政改革を断行するが、むしろガトリング砲の入手と北越戦争での悲劇的最期で有名だ。山田方谷が板倉勝静のブレーンだったのと同じように横井小楠は松平慶永のブレーンだった。幕末期には松平慶永の方が板倉勝静より大物で、それなりに活躍をしている(結果が出たかどうかは疑問だ)。横井小楠は時代動向への洞察力がある学者だったようが、明治2年に暗殺される。
おそらく、河井継之助や横井小楠の方が山田方谷よりは知名度が高い。河井継之助は司馬遼太郎が『峠』の主人公として描いた影響が大きいかもしれない。山田方谷の知名度が高くないのは備中松山藩が小藩だったということもあるだろうが、彼が成功者だったことにあるようにも思える。河井継之助も横井小楠も成功者というよりは悲劇の人だった。
山田方谷は悲劇の人ではない。藩主・板倉勝静は鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜とともに大阪城を脱出し、その後は奥羽越列藩同盟に参加し、さらに函館の五稜郭に入る。そこに多少の悲劇性はある。しかしその間、山田方谷は備中松山藩にいて、官軍に対して無血開城する。しかも、方谷は策を弄して板倉勝静を五稜郭から連れ戻してしまう。これでは悲劇にならない。
備中松山藩が方谷が組織した強力な農兵によって官軍と徹底抗戦し、板倉勝静が五稜郭を死に場所として戦っていれば、彼らは悲劇の人となり後世への知名度が上がったかもしれない。しかし、方谷はそんな悲劇の道は選ばなかった。
明治になってからの方谷は山村の私塾で教育に専念し、大久保利通ら新政府からの出仕要請を固辞し続ける。
山田方谷はその生涯に多くの事も見てきただろう。激動の時代だったが、学問を究めながら坦々と成功を積み重ねてきた日々とも言える。晩年は山村の教育者として自足した生活を送っている。そこにドラマはない。それ故に、方谷の名は全国区になりにくいのかもしれない。
『大聖堂』全3冊に続けて続編全3冊も読むはめになったワケ ― 2016年02月29日
◎読書人・児玉清氏に誘われて
『大聖堂』という小説を購入したのは、故・児玉清氏のテレビでのトークを観たのがきっかけだから5年以上前だ。海外小説を原書で読む児玉清氏は、ハードカバーで1,000ページ近いこの小説を読んでいる途中で海外旅行に行くことになり、本書を持参しようとしたが、かさばるので断念したそうだ。ところが旅行中にも小説の続きが気になってしかたないので、旅先の書店で本書を購入し、続きを読んだそうだ。
あの坦々とした調子でそんなエピソードを語る児玉清氏の姿を観て、そんなに面白い小説なら読んでみたいと思った。ネット書店で調べると翻訳は文庫版全3冊で出ていたので、それを注文した。届いた3冊の文庫本はどれも600ページほどの厚さで、かなりのボリュームだ。カバーの紹介文で大聖堂を建築する物語だとの見当はついたが、厚さに圧倒され、これは気合を入れて取り組まねばならない本だと判断し、とりあえずは未読本の棚に積み上げた。著者のケン・フォレットは私には未知の作家だった。
◎読み出したらやめられないが----
そのまま数年が経過し、先日、ふとした気まぐれから『大聖堂(上)』を読み始めた。これが、じつに面白い。読む前は晦渋で重厚な中世の建築ウンチク物語を予想していたのだが、そうではなかった。波乱万丈ハラハラドキドキの壮大な物語で、すぐにその世界に引きずり込まれてしまった。児玉清氏が旅先で続きを読みたくて本書を購入したのも納得できる。
そんなわけで、かなりのスピードで『大聖堂(上)』を読了し、『大聖堂(中)』に移った。それを読んでいる途中でちょっと気になることがあり、三冊目の下巻を手にした。そして、私は重大なミスを犯したことに気づき愕然とした。
私が手にしている三冊目の文庫本は、いま私が読んでいる『大聖堂(中)』の続きである『大聖堂(下)』ではなく、『大聖堂』の続編『大聖堂 ― 果てしなき世界』の下巻だったのだ。『大聖堂(下)』と間違えて『大聖堂 ― 果てしなき世界(下)』を購入していたのだ。
下巻にだけ「果てしなき世界」というサブタイトルがあることには当初から気づいていたが、本書を購入する時には『大聖堂』に続編があるなどとは知らなかったので、何の疑いも抱かなかった。最終巻にのみサブタイトルを付ける趣向なのだろうと思っていたのだ。
◎間違えて購入した「(下)」をゲット
何はともあれ、読み出したらやめられない面白本の下巻がないというのは重大問題である。早急に『大聖堂(下)』を入手しなければならない。5年以上前に購入した本なの多少の不安があったが、ネット書店で在庫を確認し安心した。『大聖堂(下)』を注文するのは当然だが、それだけでは続編の(下)が宙に浮いてしまう。続編を読むか否かは本編を読み終えて判断するべきだが、行きがかり上しかたないと考え、続編の(上)(中)も同時に注文した。
ありがたいことに注文の翌日には手元に本が届き、『大聖堂(中)』を読み終えてすぐに『大聖堂(下)』に取り組めた。この手の小説は後半になるほど盛り上がり、息もつかせぬ展開になるので、購入ミスがあったにもかかわらず中断せずに波乱万丈の物語を読了できたのは幸いだった。
購入ミスに気づかずに下巻に突入していたらと思うとゾッとする。登場人物や時代背景が急に転換するのだから、かなり違和感を抱くはずだ。別の小説だと気づかず最後まで読むことはなかろうが、どの時点で気づくかはわからない。ミスに気づき、ハラハラドキドキしながら読んできた物語の先がすぐには読めないとわかった時、児玉清氏の海外での気分を切実に推測できたとは思う。また、続編を読みたいと思っても、(下)の冒頭部分の記憶を頭から消すのは至難だから興をそがれるのは間違いない。
◎日本語のタイトルに難あり
購入ミスは私の責任だが、翻訳版のタイトルにも問題がある。『大聖堂』の原題は『The Pillars of the Erth』で、『大聖堂 ― 果てしなき世界』の原題は『World without End』である。後者が前者の続編なのは確かだが、原題のタイトルはまったく異なっている。
本編に『大聖堂』という日本語タイトルを付けるのは悪くはないが、続編の『大聖堂 ― 果てしなき世界』が問題だ。サブタイトルだけで区別するのでは紛らわしい。せめて『続・大聖堂 ― 果てしなき世界』か『果てしなき世界 ― 続・大聖堂』とでもしてくれれば、私のような間違いは防げるだろう。
ただし、続編はそれ自体で独立した物語で、本編を読んでいなくても十分に楽しめるので、営業的には『続・大聖堂』は好ましくないかもしれない。そもそも「大聖堂」というタイトルは続編の内容を反映しているとは言い難いのだ。
◎続編より本編の方が面白い
そんなわけで『大聖堂(上)(中)(下)』(ケン・フォレット/矢野浩三郎訳/ソフトバンク文庫)、『大聖堂 ― 果てしなき世界(上)(中)(下)』(ケン・フォレット/戸田裕之訳/ソフトバンク文庫)を続けて読んで寝不足になった。長大な小説をノンストップのアクション映画を観るような気分で一気読みしたのでフラフラである。もう60代後半なのだから、睡眠時間を削るような読書時間を排除し、ゆったりとした読書時間を過ごすべきだと思う。
『大聖堂』の舞台はイギリス中世、1123年から1174年までの約50年間の物語である。大聖堂建築を基調に波乱万丈のさまざまな出来事が展開していく。その過程でばらまかれたあれこれの伏線が最終的に収拾されていくのも心地よい。
『大聖堂 ― 果てしなき世界』の地理的舞台は『大聖堂』と同じで、時代は1327年から1361年までの34年間、『大聖堂』の約200年後で英仏百年戦争の時代の物語だ。主な登場人物は『大聖堂』の登場人物の末裔たちで、基調は大聖堂建築ではなく黒死病(ペスト)である。少年少女たちが中年になるまでの群衆劇の趣きもあり、波乱万丈的な物語の面白さは本編に劣る。だが、続編の方が中世の社会の猥雑さが迫真的になっている。
本編、続編に共通している面白さは、修道院という世界の精神性と俗物性、職人たちの技術(建築・医学)、商人たちの経済などが絡み合う世界を巧みに描き出している点にある。
◎フィクションと歴史の実相
本書を読むまでこの小説の舞台となったイギリスの中世には不案内だった。そもそもヨーロッパの中世にあまり関心がなかった。だが、この物語世界に引きずりこまれ、主人公たちの人生を疑似体験することで、中世の社会のあれやこれやに触れた気分になり、この時代への興味がわいてきた。この壮大なフィクションに描かれた猥雑な世界が歴史の実相をどの程度まで反映しているのか知りたくなる。と言っても、歴史の本を読んで容易に確認できることではない。不可知なことだとはわかっているが――
『大聖堂』という小説を購入したのは、故・児玉清氏のテレビでのトークを観たのがきっかけだから5年以上前だ。海外小説を原書で読む児玉清氏は、ハードカバーで1,000ページ近いこの小説を読んでいる途中で海外旅行に行くことになり、本書を持参しようとしたが、かさばるので断念したそうだ。ところが旅行中にも小説の続きが気になってしかたないので、旅先の書店で本書を購入し、続きを読んだそうだ。
あの坦々とした調子でそんなエピソードを語る児玉清氏の姿を観て、そんなに面白い小説なら読んでみたいと思った。ネット書店で調べると翻訳は文庫版全3冊で出ていたので、それを注文した。届いた3冊の文庫本はどれも600ページほどの厚さで、かなりのボリュームだ。カバーの紹介文で大聖堂を建築する物語だとの見当はついたが、厚さに圧倒され、これは気合を入れて取り組まねばならない本だと判断し、とりあえずは未読本の棚に積み上げた。著者のケン・フォレットは私には未知の作家だった。
◎読み出したらやめられないが----
そのまま数年が経過し、先日、ふとした気まぐれから『大聖堂(上)』を読み始めた。これが、じつに面白い。読む前は晦渋で重厚な中世の建築ウンチク物語を予想していたのだが、そうではなかった。波乱万丈ハラハラドキドキの壮大な物語で、すぐにその世界に引きずり込まれてしまった。児玉清氏が旅先で続きを読みたくて本書を購入したのも納得できる。
そんなわけで、かなりのスピードで『大聖堂(上)』を読了し、『大聖堂(中)』に移った。それを読んでいる途中でちょっと気になることがあり、三冊目の下巻を手にした。そして、私は重大なミスを犯したことに気づき愕然とした。
私が手にしている三冊目の文庫本は、いま私が読んでいる『大聖堂(中)』の続きである『大聖堂(下)』ではなく、『大聖堂』の続編『大聖堂 ― 果てしなき世界』の下巻だったのだ。『大聖堂(下)』と間違えて『大聖堂 ― 果てしなき世界(下)』を購入していたのだ。
下巻にだけ「果てしなき世界」というサブタイトルがあることには当初から気づいていたが、本書を購入する時には『大聖堂』に続編があるなどとは知らなかったので、何の疑いも抱かなかった。最終巻にのみサブタイトルを付ける趣向なのだろうと思っていたのだ。
◎間違えて購入した「(下)」をゲット
何はともあれ、読み出したらやめられない面白本の下巻がないというのは重大問題である。早急に『大聖堂(下)』を入手しなければならない。5年以上前に購入した本なの多少の不安があったが、ネット書店で在庫を確認し安心した。『大聖堂(下)』を注文するのは当然だが、それだけでは続編の(下)が宙に浮いてしまう。続編を読むか否かは本編を読み終えて判断するべきだが、行きがかり上しかたないと考え、続編の(上)(中)も同時に注文した。
ありがたいことに注文の翌日には手元に本が届き、『大聖堂(中)』を読み終えてすぐに『大聖堂(下)』に取り組めた。この手の小説は後半になるほど盛り上がり、息もつかせぬ展開になるので、購入ミスがあったにもかかわらず中断せずに波乱万丈の物語を読了できたのは幸いだった。
購入ミスに気づかずに下巻に突入していたらと思うとゾッとする。登場人物や時代背景が急に転換するのだから、かなり違和感を抱くはずだ。別の小説だと気づかず最後まで読むことはなかろうが、どの時点で気づくかはわからない。ミスに気づき、ハラハラドキドキしながら読んできた物語の先がすぐには読めないとわかった時、児玉清氏の海外での気分を切実に推測できたとは思う。また、続編を読みたいと思っても、(下)の冒頭部分の記憶を頭から消すのは至難だから興をそがれるのは間違いない。
◎日本語のタイトルに難あり
購入ミスは私の責任だが、翻訳版のタイトルにも問題がある。『大聖堂』の原題は『The Pillars of the Erth』で、『大聖堂 ― 果てしなき世界』の原題は『World without End』である。後者が前者の続編なのは確かだが、原題のタイトルはまったく異なっている。
本編に『大聖堂』という日本語タイトルを付けるのは悪くはないが、続編の『大聖堂 ― 果てしなき世界』が問題だ。サブタイトルだけで区別するのでは紛らわしい。せめて『続・大聖堂 ― 果てしなき世界』か『果てしなき世界 ― 続・大聖堂』とでもしてくれれば、私のような間違いは防げるだろう。
ただし、続編はそれ自体で独立した物語で、本編を読んでいなくても十分に楽しめるので、営業的には『続・大聖堂』は好ましくないかもしれない。そもそも「大聖堂」というタイトルは続編の内容を反映しているとは言い難いのだ。
◎続編より本編の方が面白い
そんなわけで『大聖堂(上)(中)(下)』(ケン・フォレット/矢野浩三郎訳/ソフトバンク文庫)、『大聖堂 ― 果てしなき世界(上)(中)(下)』(ケン・フォレット/戸田裕之訳/ソフトバンク文庫)を続けて読んで寝不足になった。長大な小説をノンストップのアクション映画を観るような気分で一気読みしたのでフラフラである。もう60代後半なのだから、睡眠時間を削るような読書時間を排除し、ゆったりとした読書時間を過ごすべきだと思う。
『大聖堂』の舞台はイギリス中世、1123年から1174年までの約50年間の物語である。大聖堂建築を基調に波乱万丈のさまざまな出来事が展開していく。その過程でばらまかれたあれこれの伏線が最終的に収拾されていくのも心地よい。
『大聖堂 ― 果てしなき世界』の地理的舞台は『大聖堂』と同じで、時代は1327年から1361年までの34年間、『大聖堂』の約200年後で英仏百年戦争の時代の物語だ。主な登場人物は『大聖堂』の登場人物の末裔たちで、基調は大聖堂建築ではなく黒死病(ペスト)である。少年少女たちが中年になるまでの群衆劇の趣きもあり、波乱万丈的な物語の面白さは本編に劣る。だが、続編の方が中世の社会の猥雑さが迫真的になっている。
本編、続編に共通している面白さは、修道院という世界の精神性と俗物性、職人たちの技術(建築・医学)、商人たちの経済などが絡み合う世界を巧みに描き出している点にある。
◎フィクションと歴史の実相
本書を読むまでこの小説の舞台となったイギリスの中世には不案内だった。そもそもヨーロッパの中世にあまり関心がなかった。だが、この物語世界に引きずりこまれ、主人公たちの人生を疑似体験することで、中世の社会のあれやこれやに触れた気分になり、この時代への興味がわいてきた。この壮大なフィクションに描かれた猥雑な世界が歴史の実相をどの程度まで反映しているのか知りたくなる。と言っても、歴史の本を読んで容易に確認できることではない。不可知なことだとはわかっているが――
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