『戦後入門』を読んで『宇宙大戦争』を思い出した2016年01月05日

『戦後入門』(加藤典洋/ちくま新書)
 『戦後入門』(加藤典洋/ちくま新書)という本を紹介する新聞記事で著者・加藤典洋氏へのインタビューを読んだ。自衛隊を国連の指揮下におくように憲法9条を改訂することを提言している本と知り、ビミョーな気分になった。9条を活かす立場からの改憲案らしいが、あまり魅力的な提言とは思えない。昔、加藤典洋氏の『敗戦後論』に感心した記憶がある。と言っても内容はほとんど失念している。

 書店で『戦後入門』を手に取り、その分厚さにびっくりした。普通の新書の3冊分だ。冒頭部分を拾い読みすると「戦後について、タラの丘(全方位的に草原を見渡せる丘)からの眺望のようなものを作ろうと考えました。(…)それを新書に値する速度で読めるものにした結果が、この限界まで厚い一冊の書物となりました」とある。著者の気合に押されて購入した。

 「新書に値する速度で読めるもの」を意識した文体のおかげで読みにくくはない。退屈せずに読了できた。だが、ゴチャゴチャした箇所やくどい部分もあり、著者の思考にアチコチ引きまわされて少し疲れた。戦後の思潮を分析・整理して紹介し、それをふまえて提言するだけならもう少しコンパクトにできそうに思える。

 600ページを超える厚さになったのは、本書の内容を説得力あるものに裏打ちするには少なくともこの分量が必要だと著者が考えたからだろう(元の原稿を三分の二に圧縮してこの量になったそうだ)。そのせいか、著者が本書で展開している見解の大半に私は納得してしまった。読む前には違和感があった「自衛隊を国連の指揮下へ」という提言についても、その根拠はとりあえず理解できた。

 ただし、著者が本書で提示している憲法改訂案の文章は、やはりゴチャゴチャしていてくどい。このままの改訂案を多数の国民が受け容れるとは思いにくい。

 この提案の一番の難点は、現代の国連の実態が魅力少ないものになっているという点だと思う。本書でも述べられているように、そもそもUnited Nationsは第二次大戦の「連合国」で、それを戦後の日本の外務省が「国連」と訳したものだ。日本などに対する敵国条項もある。かつて国連職員だった人に「日本は敗戦国だから…」というボヤキを聞いたこともある。

 加藤典洋氏の提案は、日本が率先して国連を改革していくことを前提としているようだが、国連中心主義を貫徹するには、われわれが日本人というアイデンティティと同時に世界市民ともいうべき国連人(?)というアイデンティティをもつことが必要になるだろう。その実現の困難さは、あまりに理想主義的で非現実的と加藤氏が切り捨てている世界連邦運動に近いようにも思えてくる。

 そんなことを考えながら、最近はほとんど目にすることのなかった「世界連邦」という言葉を懐かしく思い出した。著者は私と同じ1948年生まれである。子供の頃は「世界連邦」という不思議な響きをもつ言葉に心がときめいたものだ。祖父から「世界連邦の会員になった」と聞かされた記憶があるし、「世界連邦宣言都市」という碑文をあちこちで見かけたものだ。今でもあるのだとは思うが…

 加藤典洋氏の戦後社会の分析を読みながら、随所に同世代を感じた。そして、子供の頃にに観た『宇宙大戦争』という東宝の特撮映画を思い出した。東京などの大都市が宇宙人から攻撃を受け、国連のような所に各国の代表が集まって対策会議をする。そして、日本の科学者を中心にした国際的な部隊が2台のロケットで月にある宇宙人基地の攻撃に向かう話だった。日本人の優れた科学者が国際社会をリードする姿がカッコよかった。

 あの頃、私たち子供は、日本が率先して国連の場で活躍するというイメージにワクワクする憧れを感じていたのだ。加藤典洋氏が『宇宙大戦争』を観たかどうかはわからないが、そんな思いが『戦後入門』に反映されているのかもしれない。

高坂正堯の『一億の日本人』で戦後史のおさらい2016年01月13日

『大世界史 26 一億の日本人』(高坂正堯/文藝春秋)
『戦後入門』(加藤典洋/ちくま新書)を読んだのきっかけに『大世界史 26 一億の日本人』(高坂正堯/文藝春秋)を読んだ。約半世紀前に文藝春秋が刊行した叢書『大世界史』の最終巻である。『大世界史』は日本史も含めたユニークな構成で、全26巻中6巻を日本史に割り当てている。1969年7月に刊行された『一億人の日本人』は日本の戦後史で、1945年年8月から1969年初頭までの24年間を概説している。

 『一億の日本人』を読もうと思ったのは、加藤典洋氏が『戦後入門』の中で高坂正堯を次のように高く評価していたからだ。

  「吉田政治の意義を最初にあきらかにしたのは、政治学者の高坂正堯でした。卓抜な頭脳をもつ彼はそれを1968年、高度成長のさなか、吉田の後継者たちがはっきりとその基礎のうえに新しい政治路線を樹立していく時期をとらえて、発表しました。保守本流の吉田政治の完成期に、その意義を解明したのです。」

 20年前に62歳で早世した高坂正堯をテレビ番組「サンデープロジェクト」で見たことはあったが、その著作を読んだことはなかった。加藤氏の高坂氏への言及を読んだのを機会に、戦後史を復習する気分で書架に眠っている『大世界史』の最終巻に手が伸びた。

 戦後70年の時点で書かれた加藤典洋氏の『戦後入門』は、この70年間を「対米従属」ととらえ、70年も経ったのになぜ「戦後」が終わらないのかという問題意識からスタートしている。『一億の日本人』は戦後24年に書かれた戦後史だから、現時点から見れば戦後70年の初期24年しか扱っていない不完全な通史である。しかし、本書を読み終えて、この24年に戦後史の本質のほとんどすべてが詰まっていると思えた。その後の46年間にさまざまな出来事や世界史的激動があったにもかかわらず、日本の戦後史の基本課題は変化せずに持続している。あらためて、70年経っても「戦後」が続いていることに気づかされた。

 現代のわれわれの中に「対米従属」という意識は希薄だと思うが、戦後史を検証していくと、現在の安保法制や辺野古の問題の背景に「対米従属」という戦後状況から脱却できない日本の自縄自縛的とも言えるおかしな姿が見えてくる。独立国のはずなのに占領状態の米軍基地が存続し、日本国憲法へのねじれた国民意識が消えないという日本の特殊な現状の淵源は「戦後」にある。そこからの脱却は困難な課題だ。

 『一億の日本人』を読むことで、『戦後入門』が提示している課題が少し鮮明になった。『一億人の日本人』にも「対米従属」という言葉は随所に出てくるが、戦後24年間の日本の政治や社会を坦々と語る全般的印象はなぜか明るい。この本が高度成長期に書かれたせいかもしれない。終戦直後の日本人の軽薄さ無責任さ節操のなさを指摘し、誰も戦争責任をとろうとしなかったことを慨嘆しつつも、そこに「日本人の柔軟な適応力と強靭な生命力が存在した」という指摘が印象に残った。そこに、戦後の成功の要因と同時に課題の根もあるように思える。

 本書を読んで驚いたのは、1960年代後半の「大学紛争」にまで言及し、分析している点だ。本書が刊行された1969年7月は全共闘まっさかりで世情騒然としていた時代だ。当時私は大学生だった。35歳の京大助教授・高坂正堯は現在進行形の「大学紛争」を次のように述べている。

  「学生たちの叛乱は「現代文明への反抗」という側面をもっている。(…)彼らは資本主義にも、ソ連のような官僚主義にも反対し、ただ現在の体制の破壊を叫ぶ。つまり彼らは、匿名の機構が有効に管理し運営する現在の巨大で複雑な社会そのものに反撥しているのである。」

 大学人だった高坂正堯は、学生たちとは距離をおいた別次元から「大学紛争」を「高度産業社会以前の病弊と高度産業社会の病弊の複合」と見なしている。いまの私には、かなり的確な見方に思える。おそらく、当時はそう思わなかっただろうが。

地球温暖化問題はやっかいだ2016年01月23日

『気候変動とエネルギー問題:CO2温暖化論争を超えて』(深井有/中公新書)、『地球はもう温暖化していない:科学と政治の大転換へ』(深井有/平凡社新書)
 人為的CO2排出が地球温暖化を招いているのでないと主張する物理学者の次の2冊の新書本を続けて読んだ。

『地球はもう温暖化していない:科学と政治の大転換へ』(深井有/平凡社新書/2015.10.15)
『気候変動とエネルギー問題:CO2温暖化論争を超えて』(深井有/中公新書/2011.7.25)

 『地球はもう温暖化していない』は、昨年末『週刊朝日』(2015年11月27日号)の書評欄で斉藤美奈子が「数年後にはこっちが正論になるにちがいないと私は確信しちゃったよ」と紹介していたので興味をもった。文芸評論の斎藤美奈子が科学に強いとは思わないが、多岐にわたる本を読破しているであろう評者に「確信」とまで言わせた本書を読みたくなった。

 同じ著者の『気候変動とエネルギー問題』は東日本大震災の年に出た本で、その折にパラパラと読んではいたが、『地球はもう温暖化していない』を読んだのを機に再読した。著者も書いているように後者は前者を全面的に更新したもので、その論旨はほぼ共通している。

 著者の深井有氏は1934年生まれの金属物理学専攻の物理学者で気候学の専門家ではない。とは言え、元々は東大地球物理学科で気象学を学んでいて大学院の頃に金属物理学に移ったそうだ。若い頃からの関心領域である気象学の現状に口を挟まざるを得ない止むにやまれぬ気持ちから本書2冊を執筆したようだ。

 著者はIPCCに批判的だが、以下についてはIPCCの見解との相違はあまりない。

 ・最近約300年の間、地球の平均気温は上昇してきた。
 ・人為的CO2排出により地球の大気に占めるCO2の割合は上昇している。
 ・CO2は温室効果ガスの一つであり、CO2増加は温暖化の要因になる。

 上記3点を認めるなら、CO2排出を削減することで地球温暖化を抑制する蓋然性があるように素人目には思える。だが、地球の平均気温上昇の主因はCO2増加ではなく、CO2排出の抑制は資源節約の意味はあっても温暖化抑制にはならないというのが著者の見解だ。

 『地球はもう温暖化していない』の主旨を私なりにまとめると以下の通りだ。

 ・地球は温暖化と寒冷化をくり返してきた。その原因は解明途上だ。
 ・最近20年はCO2が増えているにも関わらず温暖化は止まっている。
 ・地球温暖化の主因は太陽活動と宇宙線の可能性が高い。
 ・最近の太陽活動の観測から推測すると、今後は寒冷化すると思われる。
 ・IPCCはCO2排出による温暖化を前提とした組織で、科学的解明には適合せず、政治化している。
 ・CO2排出削減に温暖化抑制の効果は期待できず、莫大なコストをかけるのは無駄だ。
 ・CO2が増えるのはさほど問題ではなく、植物育成などにプラスの効果がある。

 地球温暖化の主因が温室効果ガスではなく太陽活動と宇宙線だという主張が科学的に妥当か否かは、門外漢である私には判断できない。2014年からは再び地球の平均気温が上昇し始めたと聞いたこともある。だが、本書にはある程度の説得力を感じ、いわゆるトンデモ本とは思えなかった。現在、大多数の人が地球温暖化を抑止するためのCO2削減を当然の施策と考え、それを地球環境保全のための崇高な使命とすら捉えている。そんな風潮の中で、本書はおかしな学者が書いたヘンな本と見なされるだけなのだろうか。

 『地球はもう温暖化していない』がどのように評価されているか知りたくてネットを検索してみたが、あまり有用な情報は得られなかった。環境科学の学者が「素人が書く誤りだらけの扇動本」と批判している文章があったが、この学者が他の人から福島の子供たちの放射線リスクを過小に評価するトンドモナイ人と批判されていて「CO2排出抑制論=原発推進論」が連想され、よくわからなくなる。

 地球物理学や気候学の専門家が純粋にサイエンスの目で『地球はもう温暖化していない』の深井氏の議論をどう評価しているのかを知りたいと思ったのだが、そのような記事は発見できなかった。専門家にとっては論評に値しない無視するべき見解なのだろうか。あるいは、深井氏が主張するように多くの専門家は「温暖化ムラ」に取り込まれているのだろうか。

 この世には専門家である科学者の他に、その世界を追っている科学ジャーナリストも多いはずだ。彼らにとってはCO2起因の地球温暖化懐疑論を追うのは邪道なのだろか。私が知らないだけで、この分野で目配りのいい立派な仕事をしている人もいるかもしれないが、よくわからない。

 そもそも地球温暖化問題は科学に政治や経済がからまざるを得ないところがやっかいなのだ。純粋に科学の問題として解明できればいいのだが、事象の解明と対策案がからみあい、政治や経済から純粋なサイエンスを切り離すのが難しい。

 また、純粋なサイエンスと言っても、「真実」に辿り着くには長い道のりがある。もちろん、サイエンスは多数決で決まるものではない。少数意見が正しいわけでもない。最初は異端であってもいずれは大多数の人が認知する「真実」になる見解も多い。それがサイエンスだと思うが、その過程にはかなりの紆余曲折があり得る。

 それは、まさにわれれの歴史と同じだ。尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末、ナチス台頭期のドイツ、鬼畜米英・八紘一宇の時代の日本、はたまた1960年代の熱気に包まれたわが青春時代などを思い起こすと、大勢という流れの中で「真実」を得ることの困難をあらてめて感じる。地球温暖化問題にも同様のやっかいさを感じる。