久しぶりの路地裏経済学は壮大な文明論だった2013年08月19日

『経済学の忘れもの』(竹内宏/日経プレミアシリーズ/2013.2)
 竹内宏氏の新著『経済学の忘れもの』(日経プレミアシリーズ)の新聞広告を見て、すでに過去のエコノミストだと思っていたが人がまだ元気に本を書いているのだと驚き、すぐに購入した。半年近く前のことだ。奥付によれば竹内氏は1930年生まれ。今年83歳になる。

 竹内氏の著書を最後に読んだのは『長銀はなぜ敗れたか』(PHP研究所/2001年5月)だった。調査畑とは言え、長銀の専務取締役にまでなった人だから、長銀の破綻にはそれなりの責任を負う人だと思っていたが、被害者意識の強い内容の本で少しがっかりした記憶がある。優秀なエコノミストが将来を見通せるわけでも、政策に影響力を行使できるわけでもないことは、よくわかった。

 290ページほどの新書『経済学の忘れもの』は、読了するのにずいぶん時間を費やしてしました。空いた時間や他の読書の合間に少しずつ読み進めるチョボチョボダラダラ読みになったので、時間がかかったのだ。

 一気読みに誘われるほどエキサイティングな内容ではないが、つまらなかったわけではない。つまらなければ、途中で投げ出している。かなり面白い内容である。しかし、いろいろな内容が詰まっていて中身が濃すぎるので一気に読めなかったのだ。教科書や参考書の一気読みが難しいのに似ている。

 『経済学の忘れもの』の「はしがき」で竹内氏は次のように述べている。

 「私の過去の仕事を大まかに分析すると、産業調査15年、マクロ経済調査15年、地域調査5年、海外調査20年になる。20年間で約40カ国の現地調査を行った。こうした体験から、国の経済の成長や衰退は、宗教や倫理と深い関係にあるという確信を持っている。」

 人間、年を取って枯れてくると抹香臭くなって「宗教や倫理」に関心が移っていくのかとも思われるが、そんな視点で本書を読むのは失礼だろう。
 かつて、竹内氏は「経済学は、社会科学の一種とされ、科学の装いをしているが、私は、本来、経済学とは文学だと思っている。大学でも経済学とは、文学部のセクションに属するべきものだというのが、私の意見だ」と述べたことがある(『経済とつきあう法』新潮文庫/1984.11)。
 現場感覚を重視する路地裏経済学の竹内氏にとって、経済活動の分析は人間の思考と行動の考察に他ならず、文学や宗教や倫理の援用に至るのは必然なのだろう。

 『経済学の忘れもの』は「宗教や倫理」という視点で世界各国の歴史と現状を総括した本であり、新書ではあるがその内容は壮大だ。路地裏の虫の目と時空を俯瞰する鳥の目と戦後日本経済史に重なる竹内氏の自分史がないまぜになっている。
 1冊の新書にアメリカ、ロシア、中国、中東諸国および日本の文明史を宗教にからめて詰め込んでいるのだから、教科書のように圧縮された内容にならざるを得ない。と言って、概説本ではなく、竹内氏の「思い」が随所に散りばめられている。
 本書を呼んでいると、歴史にも海外事情にも詳しい路地裏横町のご隠居さんの遺言めいた警世講義を聞いているような気分になる。

 要は、宗教や倫理があれば人間は強くなり、その国の人間が強くなければ経済は発展せず、国家は衰退する、というのが竹内氏の考えである。間違った考えではないと思う。
 そして、竹内氏は今後の世界は宗教(キリスト教、ロシア正教、イスラム教、中国の儒教・陰陽思想など)の影響がいっそう強くなっていくと見ている。やや不気味な見解だが、そうかもしれないという気がしてくる。私には明るい未来とは思えないが。

 本書で面白いのは、世界三大宗教のうちのキリスト教とイスラム教についてはかなり論じているのに、仏教についてはあまり論じていない点だ。インドも中国も日本も仏教思想を基盤にした国家ではない。竹内氏は「日本の仏教は、人生の悩みに答えたり、貧しい人を救ったりはしてくれない。生きている人に関心はないのだ」と切り捨てている。

 で、竹内氏が見る日本を支えてきた宗教は「イエ宗教」であり、衰退過程に入った日本経済を再興させるには「イエ宗教」の復活が必要なのだと説いている。
 「日本の強みは、国民にイエ国家の一員であるという潜在意識があり、危機のとき、それが蘇ることである。」とうのが竹内氏の見解だ。
 用語はともかく、考え方の大筋にはあまり違和感がない。これが本当の処方箋なのかどうかは不明だが、身近な生活実感をベースに経済をとらえる竹内流路地裏経済学の魅力(魔力?)は健在なようた。

 本書を読んで、やや違和感をもつのは、中国を「儒教・陰陽思想」でとらえようとしている独特の視点だ。文化大革命によって儒教の倫理が断絶しているのが現代中国の問題点だという中国人エコノミストの意見を聞いたこともある。大国への道の精神的よりどころが何なのか、興味深いテーマではある。

 それにしても、キリスト教やイスラム教に対抗する日本の倫理が「イエ宗教」というのは、チマチマしていて情けない気がしないではない。本書では、日本におけるマルクス主義の影響について次のように述べている。

 「それ(マルクス主義)は、哲学から歴史、経済、芸術まで、すべての社会的活動を唯物論に基づく運動体系として把握した壮大な思想である。西田哲学や白樺派は、マルクス主義と比較すると、まるで私小説のような小型の思想である。私たち日本人は、マルクス主義のスケールの大きさに圧倒された。」

 竹内氏のいう「イエ宗教」とは、まさに私小説のような小型の宗教であり、そこに基盤を求めるところが路地裏経済学の真骨頂だと思われた。

没後20年の安部公房の生涯に注目2013年08月29日

『安部公房とはだれか』(木村陽子/笠間書院)、『安部公房とわたし』(山口果林/講談社)
 安部公房が亡くなったのは1993年1月、もう没後20年になる。私にとっては学生時代に愛読した同時代作家だが、時代は移り、時間が「同時代」をどんどん過去に押し流していく。若い人々にとって安部公房はすでに歴史上の作家かもしれない。

 最近、安部公房に関する本が増えてきた気がする。その中から次の本を続けて読んだ。

 『安部公房とはだれか』(木村陽子/笠間書院/2013.5.15)
 『安部公房とわたし』(山口果林/講談社/2013.8.1)

 『安部公房とはだれか』の著者・木村陽子氏は1972年生まれの研究者、私から見れば娘の世代だ。安部公房の活躍した時代のあれこれをずいぶん調べあげたものだと感心した。研究者としては当然の作業なのだろうが。

 著者が「あとがき」で述べているように、研究論文をベースにした本書には≪安部公房入門書≫的なおもむきもある。私は、安部公房の「評伝」として楽しめた。
 著者が描いた安部公房の生涯は、大きな成功に続く小さな挫折、そして孤高の焦燥で終わる物語である。

 安部公房はある時期から安部システムを標榜した演劇活動に入れ込んでいくが、満足のいく評価は得られなかった。そして、安部スタジオを休眠して執筆活動に専念するも、ノーベル文学賞を意識しすぎて極端に寡作になり、結局はノーベル文学賞の受賞に至らず生涯を終えた。そんな事情が安部公房の後半生を苦いものにしている。
 やや単純化した見方ではある。だが、同時代作家として安部公房の小説を読み、演劇を観てきた私には、納得できるとらえ方だ。マイナスの意味ではなく、このような視点から安部公房世界の全体像を眺望するのは興味深い。

 『安部公房とわたし』は告白本である。女優・山口果林が安部公房の愛人であり、安部公房は山口果林のマンションで倒れて病院に搬送されて死んだ、という噂は死の直後から流れていた(公式発表は自宅で倒れたとされている)。
 その山口果林が、没後20年たって初めて安部公房との関係を語ったのが『安部公房とわたし』である。予感した以上に衝撃的な内容だった。
 本書を読んでいると、2年前に安部公房の娘・安部ねりが上梓した『安部公房伝』がオーバーラップしてくる。『安部公房伝』には山口果林は一切登場しないが、その欠落故に隔靴掻痒的なわかりにくさがあったと、いま思う。

 私が高校生の頃の1966年、俳優座養成所を発展的に解消した形で桐朋学園大学短期大学演劇科がスタートし、千田是也、安部公房、田中千禾夫が教授に就任した。山口果林はその第1期生である。
 桐朋学園大学での安部公房の教え子だった山口果林は、デビュー当時から、安部公房の秘蔵っ子と報道されていた。「果林」という芸名の名付け親が安部公房であることもよく知られている。
 当時、私の友人の一人が「秘蔵っ子」という言葉を誤読して、山口果林を安部公房の娘だと勘違いしていたことがある。私より一つ上の山口果林は1947年生まれで、1914年生まれの安部公房とは23歳違いだから、親子でもおかしくない年回りではある。ちなみに、安部公房の本当の娘・ねりは1954年生まれだ。

 『安部公房とわたし』で驚いたのは、二人の関係の深さだ。山口果林と安部公房との関係は果林のデビュー前の1969年から始まり、安部公房が亡くなるまで24年間続いた。1980年から夫人の安部真知と別居状態になった安部公房は、真知と離婚し果林と結婚したいと考えていたが、懇意の編集者から「ノーベル賞を取るまではスキャンダルはだめ」と言われていて、離婚できなかったそうだ。果林側からの証言なので真実は定かではないが、二人の関係がそこまで深かったとは思わなかった。

 安部ねり(1954年生まれ)の『安部公房伝』には、安部夫妻は一緒にいることが不可能な状態になり、安部公房は箱根の山荘で一人暮らしをするようになったと淡々と書かれている。この箱根の山荘は事実上、山口果林と一緒に過ごす場だったようだ。
 安部ねりは、父親の山荘生活を「男の子らしい生活を満喫した」と描写している。愛人である女優と過ごす時間も含めて「男の子らしい生活」とまとめてしまうのは技ではあるが、娘としては父親の愛人の存在を公にしたくないという強い意志があったようだ。

 山口果林が『安部公房とわたし』を書いたのは、安部ねりの『安部公房伝』がきっかけではなかろうかと思えてくる。『安部公房伝』で存在を無視されたので、告白本を書きたくなったのかもしれない。『安部公房とわたし』には「透明人間にされた自分の人生」という言葉も出てくる。

 『安部公房とわたし』は単なる暴露本ではなく、作家・安部公房の全体像をとらえる上での重要な資料になるのは間違いないだろう。本書をふまえて『箱男』や『密会』などを読み返すと、従来とはちがう読後感が得られそうな気がする。

 『安部公房とわたし』には、安部真知が夫の愛人と対峙する安部公房夫人として登場する。だが、美術家としての安部真知への言及はほとんどない。また、安部ねりの『安部公房伝』では、娘と対立する母親としての安部真知の姿が印象的で、美術家・安部真知の影は薄い。
 だが、『安部公房とはだれか』では、美術家・安部真知をかなり大きく扱い、高く評価している。著者は、小説家として大きな成功をおさめていた安部公房が1970年以降、演劇活動に深入りして行った要因の一つを「舞台美術家としての妻・真知の成長」としている。また、安部スタジオに関わっていたプロデューサ・戸田宗宏氏の次のような証言も紹介している。

 「安部先生の作品において、真知さんの影響力ってすごく大きいんですよ。真知さんがいたから安部先生はあそこまで行ったんだと思います。」

 若い時からの芸術的同志だった妻・真知の存在が大きくなっていくに従って、安部公房はその妻から逃げたくなったのだろうか。わからないでもない心理だ。

   山口果林の『安部公房とわたし』を安部ねりの『安部公房伝』と重ねあわせると、夫であり父である一人の男を巡る妻と愛人の確執、愛人と娘の確執、妻と娘の確執などが浮かび上がってくる。どこにでもありそうな光景である。
 この2冊にさらに『安部公房とはだれか』を重ねてみると、少しスケールが拡大し、「溢れんばかりの想像力と野心のみを武器に」大きな成功を収めた男の、その後の孤高と焦燥の「亡命生活」のような姿が見えてくる。これも、ありがちな姿かもしれない。

 安部公房の生涯は、どこにでもありそうではない世界を描き出そうとしていた安部公房の作品世界とは重なりあうわけではない。このギャップに、安部公房世界の面白さと魅力を見出すことができそうな気がする。