『ユダヤ人の歴史』でユダヤ人集団の多様性を認識 ― 2026年04月11日
2026年新書大賞第2位の『ユダヤ人の歴史』を読んだ。刊行は昨年(2025年)1月だ。
『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)
旧約聖書からナチスに至るまで、世界史関連の本にはユダヤ人が随所に登場する。以前読んだ『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』(長谷川修一)はバビロン捕囚の史実を解説していた。ローマ史の本にもユダヤ戦争などの記述がある。『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄)は、ナチス登場の背景となった近代反ユダヤ主義詳述していた。何となく、ことさらにユダヤ人の歴史を勉強しなくもいいかという気がして、書店で本書を見かけてもスルーしていた。
だが、新たなカバーを装着した本書の平積みを店頭で見て気が変わった。本書を読了し、これまでの自分の理解が浅かったと自覚した。本書を読んで認識を新たにしたのはユダヤ人の複雑な多様性である。考えてみれば、マルクスもフロイトもカフカもプルーストもユダヤ人だから多様なのは当然だ。
本書は、多様なユダヤ人集団がそれぞれの環境に「カスタマイズ」しつつ生き延びてきたさまを「主体と構造」「組み合わせ」というキーワードで解説している。多様なユダヤ人集団が、時代や地域によって繁栄したり迫害されたりしてきた事情を明快に解説している。
国を持たないユダヤ人が二千年間、その居住地の人々に同化・溶解することこなく「ユダヤ人という意識」を持続したのは驚異だと思う。それを可能にしたユダヤ人のアイデンティティが不思議だ。本書を読み終えても「ユダヤ人とは何か」の疑問は残る。「民族とは何か」「国民とは何か」以上の難問に思える。
本書によれば、英語のJewをはじめ諸言語(ヘブライ語も含む)は「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」両方の意味を兼ねているそうだ。「ユダヤ人」と「ユダヤ教徒」を区別して表記する日本語が例外らしい。驚いた。ローマのハドリアヌス帝の時代、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人はエルサレムから追放され、最終的な離散(ディアスポラ)となる。このとき追放されたのはユダヤ教徒だけだったと読んで納得した記憶がある。だが、「ユダヤ教徒でないユダヤ人」という概念がないとすると、ユダヤ人全員が追放されたのだろうか。
おそらく、日本語の「ユダヤ教徒」という概念の問題だろう。キリスト教やイスラム教に改宗したユダヤ人は少なくない。ヴェニスの商人のシャイロックも最終段階でキリスト教への改宗を余儀なくされる(架空の人物だが)。改宗したユダヤ人がユダヤ人でなくなるわけではない。自分をユダヤ人だと意識している限り、改宗者であっても心の奥底に「ユダヤ教徒である意識」が残っている――そういうことだと思う。
本書でナルホドと思ったのは、ユダヤ人にとっては近代になって住みにくい過酷な時代になったという指摘だ。国民国家という平準化圧力が異質な集団を圧迫するからである。
また本書は、ロシアや東欧で発生したポグロム(ユダヤ人迫害)について「世界史級の出来事であるのは間違いない」として詳述している。その大きな原因が「想像の民族対立」だったとの指摘も興味深い。いつの時代も人の抱く幻想が歴史を動かしてしまうことが多い。
あらためて熟読したい書である。
『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎/中公新書)
旧約聖書からナチスに至るまで、世界史関連の本にはユダヤ人が随所に登場する。以前読んだ『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』(長谷川修一)はバビロン捕囚の史実を解説していた。ローマ史の本にもユダヤ戦争などの記述がある。『ヒトラー:ナチズムの誕生』(村瀬興雄)は、ナチス登場の背景となった近代反ユダヤ主義詳述していた。何となく、ことさらにユダヤ人の歴史を勉強しなくもいいかという気がして、書店で本書を見かけてもスルーしていた。
だが、新たなカバーを装着した本書の平積みを店頭で見て気が変わった。本書を読了し、これまでの自分の理解が浅かったと自覚した。本書を読んで認識を新たにしたのはユダヤ人の複雑な多様性である。考えてみれば、マルクスもフロイトもカフカもプルーストもユダヤ人だから多様なのは当然だ。
本書は、多様なユダヤ人集団がそれぞれの環境に「カスタマイズ」しつつ生き延びてきたさまを「主体と構造」「組み合わせ」というキーワードで解説している。多様なユダヤ人集団が、時代や地域によって繁栄したり迫害されたりしてきた事情を明快に解説している。
国を持たないユダヤ人が二千年間、その居住地の人々に同化・溶解することこなく「ユダヤ人という意識」を持続したのは驚異だと思う。それを可能にしたユダヤ人のアイデンティティが不思議だ。本書を読み終えても「ユダヤ人とは何か」の疑問は残る。「民族とは何か」「国民とは何か」以上の難問に思える。
本書によれば、英語のJewをはじめ諸言語(ヘブライ語も含む)は「ユダヤ人」「ユダヤ教徒」両方の意味を兼ねているそうだ。「ユダヤ人」と「ユダヤ教徒」を区別して表記する日本語が例外らしい。驚いた。ローマのハドリアヌス帝の時代、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人はエルサレムから追放され、最終的な離散(ディアスポラ)となる。このとき追放されたのはユダヤ教徒だけだったと読んで納得した記憶がある。だが、「ユダヤ教徒でないユダヤ人」という概念がないとすると、ユダヤ人全員が追放されたのだろうか。
おそらく、日本語の「ユダヤ教徒」という概念の問題だろう。キリスト教やイスラム教に改宗したユダヤ人は少なくない。ヴェニスの商人のシャイロックも最終段階でキリスト教への改宗を余儀なくされる(架空の人物だが)。改宗したユダヤ人がユダヤ人でなくなるわけではない。自分をユダヤ人だと意識している限り、改宗者であっても心の奥底に「ユダヤ教徒である意識」が残っている――そういうことだと思う。
本書でナルホドと思ったのは、ユダヤ人にとっては近代になって住みにくい過酷な時代になったという指摘だ。国民国家という平準化圧力が異質な集団を圧迫するからである。
また本書は、ロシアや東欧で発生したポグロム(ユダヤ人迫害)について「世界史級の出来事であるのは間違いない」として詳述している。その大きな原因が「想像の民族対立」だったとの指摘も興味深い。いつの時代も人の抱く幻想が歴史を動かしてしまうことが多い。
あらためて熟読したい書である。

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