歌とダンスに圧倒される『天保十二年のシェイクスピア』 ― 2024年12月21日
日生劇場で『天保十二年のシェイクスピア』(作:井上ひさし、音楽:宮川彬良、演出:藤田俊太郎、出演:浦井健治、大貫勇輔、唯月ふうか、瀬奈じゅん、土井ケイト、木場克己、中村梅雀、他)を観た。チラシに「絢爛豪華 祝祭音楽劇」と謳っている。その通りの華やかで楽しい舞台だった。登場人物はほとんど死んでしまうが…。
『天保十二年のシェイクスピア』の初演は50年前の1974年である。私は25歳のとき、初演を観ている。オープンしたばかりの西武劇場(現・PRCO劇場)での公演だった。当時、新潮社が出していた「書下ろし新潮劇場」という叢書の一冊として出版された戯曲も読んだはずだ。しかし、内容の大半は失念している。
50年前に観た舞台で記憶にあるのは「賭場の場、ボサノバ」という大合唱の賭場の場面だけだ。にぎやかな舞台だったとの印象が残っている。
50年ぶりの観劇に先立って戯曲を再読した。冒頭の献辞に「宝井琴凌の『天保水滸伝』をはじめとする侠客講談を父とし、シェイクスピアの全作品を母として、この戯曲は生まれた」とある。そのまま上演すれば4時間を超える大作である。
戯曲を読んでまず感じたのは、井上ひさしの「若さと元気」だ。この戯曲を書いたのは、直木賞を受賞した直後の三十代後半である。ダジャレや言葉遊びが機関銃のように発射され、当時の世相を取り込んだ台詞(歌詞)も頻発する。性的で卑猥な表現もドンドドン飛び出す。シェイクスピアの時代も天保の世も、そんな台詞を楽しむおおらかさがあったのだろうが、臆することのない作者は実にエネルギッシュだ。
この芝居は、シェイクスピアの切り張りパロディを天保の侠客劇に移し替えた音楽劇である。曲は初演とは異なり宮川彬良が担当し、舞台2階奥で生演奏している。楽団の姿がセットの向こうに見え隠れする。
初演の記憶はあいまいだが、初演よりは音楽とダンスにウエイトを置いた舞台だと思う。タイムスリップして50年前の観客の前で上演したら、観客はダンスと歌の迫力に圧倒されポカーンとするのでは、と空想した。
今回の上演時間は3時間15分(休憩時間を除いた正味)である。多少圧縮したようだ。観劇後に戯曲をチェックしてみると、時代に合わなくなった部分などをカットしている。「立教助教授 大場/まさぐる教え子の 穴場/結婚迫られ 責め場/殺す決心 土壇場」などは現代の若い観客には何のことかわからないだろう。カットして当然だ。「くりはらこまき さわたまき」がカットされているのは時間の残酷か。「もしもシェイクスピアがいなかったら/創作劇に貧しく乏しい/新劇界はほとほと弱ったろう」をカットしているのは仕方ない。いまや「新劇界」は死語では…。
削除するだけではなく、追加した箇所もある。この芝居には「To be, or not to be …」の歴代の翻訳を次々に紹介する秀逸な場面がある。そこで、真っ先に出てくるのが、最も一般的と思しき「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」だった。これは元の戯曲にはない。21世紀になってからの河合祥一郎の新訳だからである。
あらためてシェイクスピアを読み返したくなる芝居である。
『天保十二年のシェイクスピア』の初演は50年前の1974年である。私は25歳のとき、初演を観ている。オープンしたばかりの西武劇場(現・PRCO劇場)での公演だった。当時、新潮社が出していた「書下ろし新潮劇場」という叢書の一冊として出版された戯曲も読んだはずだ。しかし、内容の大半は失念している。
50年前に観た舞台で記憶にあるのは「賭場の場、ボサノバ」という大合唱の賭場の場面だけだ。にぎやかな舞台だったとの印象が残っている。
50年ぶりの観劇に先立って戯曲を再読した。冒頭の献辞に「宝井琴凌の『天保水滸伝』をはじめとする侠客講談を父とし、シェイクスピアの全作品を母として、この戯曲は生まれた」とある。そのまま上演すれば4時間を超える大作である。
戯曲を読んでまず感じたのは、井上ひさしの「若さと元気」だ。この戯曲を書いたのは、直木賞を受賞した直後の三十代後半である。ダジャレや言葉遊びが機関銃のように発射され、当時の世相を取り込んだ台詞(歌詞)も頻発する。性的で卑猥な表現もドンドドン飛び出す。シェイクスピアの時代も天保の世も、そんな台詞を楽しむおおらかさがあったのだろうが、臆することのない作者は実にエネルギッシュだ。
この芝居は、シェイクスピアの切り張りパロディを天保の侠客劇に移し替えた音楽劇である。曲は初演とは異なり宮川彬良が担当し、舞台2階奥で生演奏している。楽団の姿がセットの向こうに見え隠れする。
初演の記憶はあいまいだが、初演よりは音楽とダンスにウエイトを置いた舞台だと思う。タイムスリップして50年前の観客の前で上演したら、観客はダンスと歌の迫力に圧倒されポカーンとするのでは、と空想した。
今回の上演時間は3時間15分(休憩時間を除いた正味)である。多少圧縮したようだ。観劇後に戯曲をチェックしてみると、時代に合わなくなった部分などをカットしている。「立教助教授 大場/まさぐる教え子の 穴場/結婚迫られ 責め場/殺す決心 土壇場」などは現代の若い観客には何のことかわからないだろう。カットして当然だ。「くりはらこまき さわたまき」がカットされているのは時間の残酷か。「もしもシェイクスピアがいなかったら/創作劇に貧しく乏しい/新劇界はほとほと弱ったろう」をカットしているのは仕方ない。いまや「新劇界」は死語では…。
削除するだけではなく、追加した箇所もある。この芝居には「To be, or not to be …」の歴代の翻訳を次々に紹介する秀逸な場面がある。そこで、真っ先に出てくるのが、最も一般的と思しき「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」だった。これは元の戯曲にはない。21世紀になってからの河合祥一郎の新訳だからである。
あらためてシェイクスピアを読み返したくなる芝居である。

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