サイパンに咲く南洋桜が目に浮かぶ『楽園の犬』2023年10月27日

『楽園の犬』(岩井圭也/角川春樹事務所/2023/8)
 戦時中のサイパンを舞台にしたエンタメと知って次の小説を読んだ。

 『楽園の犬』(岩井圭也/角川春樹事務所/2023/8)

 10年前に亡くなった私の義母(妻の母)はサイパンで生まれで、日本統治時代のサイパンの思い出を語ることがあった。当時のサイパンの写真や市街図も見せてもらった。だから、何となくサイパンは身近に感じられる。

 9年前、2回にわたって妻とサイパンの戦跡巡りをした。亡き義母の生まれ育った地を偲ぶ旅行だった。現在の光景に資料などで得た往時の情景を重ねて眺めたりもした。小さな島なのでほぼ全域を踏破した気がする。

 そんなサイパンが舞台の小説なので、興味深く読んだ。真珠湾攻撃までの約1年間の物語である。私が知っているサイパンとは時代が違うが、小説に登場する地名を懐かしく感じた。往時のサイパンにタイムスリップした気分の読書時間だった。

 やや異色のスパイ小説である。主人公は一高・東大を出た喘息もちの英語教師、妻と幼い息子もいる。喘息で失職の瀬戸際にあり、官僚になった友人の伝手で南洋庁サイパン支庁庶務係の職を得る。その就職には条件があった。庶務係は表向きで、実際の仕事は現地の海軍少佐の手足となって情報収集すること、つまりスパイである。南洋の気候は喘息によさそうということもあり、主人公は単身サイパンに赴任する。

 海軍少佐の「犬」となった主人公は諜報活動を嫌悪している。イヤイヤながらスパイをやっているにもかかわらず成果をあげ、優秀なスパイと評価される――そんな設定の話である。

 人物像や状況がやや図式的である。もう少し掘り下げて書き込めは説得力が増すと思えた。傑作まであと一歩の佳作と感じたが、懐かしさとあいまって十分に堪能できた。

 この小説には南洋桜と呼ばれた鳳凰木が象徴的に登場する。真っ赤な花が咲く樹木で、火炎樹(フレームツリー)の別名もある。本書の表紙が南洋桜だ。私もサイパンで満開の南洋桜を見た。那覇でも見たことがある。亜熱帯の空気を感じる印象的な樹木だ。当初、なぜこの真っ赤な樹木を「桜」と呼ぶのだろうと不思議な気がした。だが、次第に「南洋桜」と呼ぶ感性が納得できる気がしてきた。「桜」と「南洋桜」には呼応するものがある。この小説『楽園の犬』はそれを表現している。