国立能楽堂で初めての狂言観劇 ― 2023年03月26日
千駄ヶ谷の国立能楽堂で野村萬斎主宰「狂言ござる乃座」の公演(狂言3本)を観た。
国立能楽堂に初めて足を踏み入れた。本格的な能舞台を目にするのも初めてだ。能は高校生のときに授業の一環で観に行っただけだと思う。狂言は、遠い昔に一般の劇場で観た記憶がかすかにある。
先日、野村萬斎演出『ハムレット』を観たときに手にしたチラシの束の中にあった「狂言ござる乃座」の案内を眺めて、ふと後ろめたさを感じた。
私は、野村萬斎が演じた『ハムレット』や『子午線の祀り』を観劇したときに能・狂言の要素を感じた。彼が出演する映画にも狂言の反映を感じた。だが、彼の本職である狂言を観たことがない。そんな観客は少なくないかもしれないが、何となく役者へのリスペクトが足らない気がしてきた。で、今回の狂言を観ることにしたのである。
今回の演しものは『膏薬煉』『二人大名』『花折』の3本、冒頭に萬斎の解説があった。どれも、わかりやすくて面白い。『二人大名』は三代(万作、萬斎、裕基)共演の三人芝居で、役者の年齢と役の年齢は無関係、伝統芸能の強引な力を感じた。
狂言の舞台を眺めていて、はるか昔の中学生の頃に狂言集を面白く読んだことを思い出した。古典は難しいという先入観があったのに、狂言は読んでわかる面白い古典だと発見し、うれしかった。しかし、内容はほとんど失念している。
能・狂言は演しものによって舞台装置が変わるわけではなく、どれも同じあの老松の舞台である。だからか、上演中以外は撮影もOKだ。
狂言に大道具などないと思っていたが、『花折』には1本の「桜の木」が登場する。この「桜の木」、大道具だとは思うが登場人物のようでもある。冒頭、黒子のような人が「桜の木」を抱えて通路(橋掛かり)から登場し、本舞台に設置する。役者が演じ終ると、「桜の木」も通路から退場し、そこで拍手になる。なるほどと感心した。
国立能楽堂に初めて足を踏み入れた。本格的な能舞台を目にするのも初めてだ。能は高校生のときに授業の一環で観に行っただけだと思う。狂言は、遠い昔に一般の劇場で観た記憶がかすかにある。
先日、野村萬斎演出『ハムレット』を観たときに手にしたチラシの束の中にあった「狂言ござる乃座」の案内を眺めて、ふと後ろめたさを感じた。
私は、野村萬斎が演じた『ハムレット』や『子午線の祀り』を観劇したときに能・狂言の要素を感じた。彼が出演する映画にも狂言の反映を感じた。だが、彼の本職である狂言を観たことがない。そんな観客は少なくないかもしれないが、何となく役者へのリスペクトが足らない気がしてきた。で、今回の狂言を観ることにしたのである。
今回の演しものは『膏薬煉』『二人大名』『花折』の3本、冒頭に萬斎の解説があった。どれも、わかりやすくて面白い。『二人大名』は三代(万作、萬斎、裕基)共演の三人芝居で、役者の年齢と役の年齢は無関係、伝統芸能の強引な力を感じた。
狂言の舞台を眺めていて、はるか昔の中学生の頃に狂言集を面白く読んだことを思い出した。古典は難しいという先入観があったのに、狂言は読んでわかる面白い古典だと発見し、うれしかった。しかし、内容はほとんど失念している。
能・狂言は演しものによって舞台装置が変わるわけではなく、どれも同じあの老松の舞台である。だからか、上演中以外は撮影もOKだ。
狂言に大道具などないと思っていたが、『花折』には1本の「桜の木」が登場する。この「桜の木」、大道具だとは思うが登場人物のようでもある。冒頭、黒子のような人が「桜の木」を抱えて通路(橋掛かり)から登場し、本舞台に設置する。役者が演じ終ると、「桜の木」も通路から退場し、そこで拍手になる。なるほどと感心した。

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