2冊のモンゴル史概説書を読みくらべた2019年05月28日

『蒼き狼の国(大世界史8)』(村上正二/1968.1/文藝春秋)、『大モンゴルの時代(世界の歴史9)』(杉山正明・北川誠一/1997.8/中央公論社)
◎昔の本と最近の本

 杉山正明氏の遊牧民関連の本を数冊読んで、モンゴル史(中央アジア史)の見方が昔とはかなり違ってきていると知り、この分野への関心が高まった。昔の本と最近の本の違いを確かめてみたいと思い次の2冊を読みくらべた。

①『蒼き狼の国(大世界史8)』(村上正二/1968.1/文藝春秋)
②『大モンゴルの時代(世界の歴史9)』(杉山正明・北川誠一/1997.8/中央公論社)

 2冊とも一般向け歴史叢書の1冊である。②の刊行は①の約30年後で、著者の歴史家は30歳以上離れた別世代だから、①は昔の本②は最近の本と見なした。②の刊行は20年以上前なので最近の本とは言い難いが、杉山正明氏の著作なので比較に適していると考えた。

◎どちらも面白い

 2冊を読み終えて、かなりのテイストの違いがあるものの、どちらも面白いと感じた。②がモンゴル中心視点なのに比べて、①はモンゴルなどの遊牧民国家を「征服諸王朝」と表現しているように漢民族視点のようにも見えるが、そうとも言い切れない。

 ①の冒頭では、モンゴルがうんだ『元朝秘史』とラシード・ウッディーンの『年代記集成』(『集史』)に記述されている「森の民」「ステップの民」「城の民」を比較紹介し、鮮卑族からはじまる遊牧民国家の発生を解説している。基本的は遊牧民視点の記述だと感じた。

 この2冊で単純に面白く感じたのはチンギス・カンからオゴタイ、グユク、モンケを経てフビライ・カンに至る13世紀ユーラシアの虚々実々の歴史である。歴史物語の面白さとも言える。そこだけに面白さを感じるのは歴史書の本質からズレた読み方だろうが…

 チンギス・カンの前半生は史料では確認できないそうだ。①は伝説などを紹介したうえで井上靖の『蒼き狼』にも言及している。わが世代には懐かしい小説である。①が紹介するテムジン伝説は面白い。

 ②は「チンギスという個人も、かれが出身したモンゴル部という小集団も、確たる政治権力に浮上するまでの素性や来歴については、どちらも闇のなかにある。それを真剣にあれこれ論じても、しょせんは小説とは大きくは変わらない」として、彼の前半生への言及を避けている。①と②のテイストの違いである。

◎見解の違いは多い

 当然ながら、①と②の見解の違いは多い。そのひとつがモンゴル帝国における四つの種族別社会層、つまり「モンゴル人」を支配層とし「色目人」「漢人」「南人」と連なる階層分けである。人口は南人が最大で、上の階層ほど少なくなる。①はこれを同心円の図解で解説している。

 この階層について②は次のように切り捨てている。

 「歴史の教科書では、モンゴル治下の中華地域では、モンゴル、色目、漢人(北中国の人びと)、南人(江南の人びと)という四段階の身分が厳重にしかれたなどと記述されるが、本当は、そんな枠や身分制度は、ほとんど限りなく薄く、かすかだった。七〇年ちかくまえ、ある元代研究者がいいだした単純な謬説が踏襲され、訂正されないままに、イメージだけがひとり歩きして、誤解が誤解を呼んで、どんどん拡大再生産されているにすぎない。」

◎「民族」の扱いはむつかしい

 ①と②の大きな違いは「民族」という言葉の扱いである。杉山正明氏は他の著作でも、近代以前の歴史に「民族」という概念を適用することに疑念を呈している。とは言え、近代以前を扱う歴史書にも「民族」という言葉は頻出する。

 ①にも「民族」「民族意識」という言葉が多用されている。例えば次のような使い方である(文章は原文を要約)。

 「遊牧民国家は、王朝成立から時間が経つと漢文化に同化され『民族としての活力』を失った」

 「宋朝は、夷狄からの侵攻とそれに対する敗退と屈辱的盟約によって『民族的抵抗意識』を熾烈なものとした」

 「南宋の遺民のあいだには、宋学でつちかわれた『漢民族の民族意識』が、いつのまにかめばえており、それがつよく成長していたのかもしれぬ」

 ②では「漢民族」について次のように述べている。

 「長い歴史時代、「漢民族」の名で近現代の史家から呼ばれがちな存在は、じつはずっと、輪郭・中身ともに、ふわふわと柔らかで、多分に融通性と曖昧さをのこした状態でありつづけた。(…)すくなくとも、モンゴル時代が過ぎ去って、だいぶたってのちに、「民族」へのはるかななる道のりを辿りはじめたといっていい。」

 また、杉山氏の持論に近い次のような記述もある。

 「王朝が、モンゴルから漢族出身者にかわったからといって、国家や社会の全体が、すっかり、ある「民族国家」から、別の「民族国家」にガラリとすりかわるわけでは、もちろんない。この手の固定観念は、王朝時代の華夷思想と、近現代の「国民国家」(ネーション・ステート)という幻想が混ざりあった一種独特の「民族主義」にもとづく。」

 「「民族」ならざるものを、「民族」の目で決めつけて眺めることは、政治上の思惑ですることならともかくも、事実においては、歴史を創作することになりかねない。それによるズレ、誤解がおそろしい。」

 「民族」という言葉に何をイメージするかは人それぞれだろうが、近代以前の歴史記述に「民族」に代わる別の用語はないのだろうか。

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