クセになるカズオ・イシグロの世界2017年12月10日

『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ/小野寺健訳/ハヤカワepi文庫)、『浮世の画家』(カズオ・イシグロ/飛田茂雄訳/ハヤカワepi文庫)、『日の名残り』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)、『充たされざる者』(カズオ・イシグロ/古賀林幸訳/ハヤカワepi文庫)、『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ/入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)
◎付和雷同でイシグロの本を買う

 本日(12月10日)はノーベル賞授賞式だ。カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞のニュースの接したときは少し驚いた。名前や評判を知っているだけで作品を読んだことはなかった。比較的若い作家と思っていたが、私より若いというだけで、単に当方が年を取ったにすぎないと気づいた。

 受賞ニュースの翌日、都心の大型書店に立ち寄ったがイシグロの本は品切だった。11月下旬になると、わが駅前の本屋の店頭にもイシグロの本が平積みになった。すべて早川書店(日本語版翻訳権を独占しているようだ)の文庫本で全8点。それがうず高く積まれているのは壮観だ。

 自分が付和雷同の俗人だと自覚しつつ代表作と報道されている次の2点を購入した。

 『わたしを離さないで』(土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)
 『日の名残り』(土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)

◎SF仕立ての記憶語り小説『わたしを離さないで』

 まず『わたしを離さないで』を読んだ。臓器提供のために育成されているクローン人間が主役のSF仕立てだとは聞いていた。坦々とした語り口の端正な小説だった。事前知識なしに読むと衝撃を受けるかもしれないが、状況を明に告発する内容ではなく、主人公たちは運命を受け容れながら日々を生きているように見える。それを記憶語りの形で描出した不思議な世界だ。数年前に読んだ清冽な小説『火山のふもとで』(松家仁之)を連想した。

◎『日の名残り』は繊細な懐旧談…

 続いて『日の名残り』を読んだ。ナチス台頭の時代から現代までのヨーロッパ史を背景にした繊細な懐旧談で、過ぎ去った時代への郷愁と感慨がわき出てくる。

 『わたしを離さないで』も『日の名残り』も静謐な一人称小説で、語りの大半は回想である。語っている「今」と回想の往復に妙味があり、その回想が本当の記憶かねつ造された記憶かが不分明だ。私たちが感得している世界とはこのようにあいまいで異形であり、それこそが人間社会だと感じさせられる。

◎小津映画のような『浮世の画家』

 代表作2つを読めば十分だろうと思っていたが、2作を読み終えると、やはり日本を扱った作品も読んでみたくなった。日本が舞台の小説は次の2作だ。

 『浮世の画家』(飛田茂雄訳/ハヤカワepi文庫)
 『遠い山なみの光』(小野寺健訳/ハヤカワepi文庫)

 少し迷った末、カバー裏の紹介文から『浮世の画家』を選択した。戦時中の画業のせいで戦後には批判の対象になった画家の話とのことで、もしかして藤田嗣治がモデルかなとの興味がわき、この小説に手が伸びたのだ。読んでみると、老画家の一人称の小津安二郎の映画のような話で、フジタとの関連は感じなかった。

 『浮世の画家』に、ないものねだりの多少の期待外れも感じ、読了前には『遠い山なみの光』の方も読まなねばという気分になり、駅前に行ったついでに『遠い山なみの光』も購入した。この時にはイシグロの一人称世界に中毒になりかかっていたようだ。

◎『遠い山なみの光』はシュール

 長崎出身でイギリス在住の日本人女性が長崎で過ごした遠い過去を回想する『遠い山なみの光』はかなり異様で面白かった。人生の回想のようでありながら肝心な所をサラリと省略し、断片だけで全体を想像させる手法に感心した。

 語り手の女性とその回想に登場する友人の女性がオーバラップしていて、実はこの二人は同一人物だというシュールな話にも思えてくる。記憶にはそのような不思議な作用もありそうな気がする。

◎溶融と可塑の『充たされざる者』

 当初は2冊のつもりが4冊になり、これで十分のはずだったが、4冊読了すると、当初から気がかりだった『充たされざる者』(古賀林幸訳/ハヤカワepi文庫)を購入してしまった。ノーベル賞のテレビニュースで一人の評論家が「不条理小説『充たされざる者』が一番いい」と語っていたのが記憶に残り、当初はこの1作だけを読もうとも思っていた。だが、本屋の店頭でその厚さに圧倒され敬遠していたのだ。

 『充たされざる者』は900ページ以上あり、他の長編の3倍ほどの長さだ。確かにカフカ世界か夢日記のようだが、この大長編はほんの数日の話で読みにくくはない。長さも感じなかった。

 他の長編と同様に回想の多い一人称だが、これはかなり不思議な一人称だ。語り手ではなく語られる人間の記憶や心象までが一人称で語られているのだ。登場人物の多くは語り手の分身に近く人々の心象や記憶や溶融している。さらに時間や空間も溶融していて、世界の不思議な可塑性を描いているように思える。

◎探偵登場の『わたしたちが孤児だったころ』

 分厚い『充たされざる者』で打ち止めにしようと思いつつ、それでは終わらず、続いて『わたしたちが孤児だったころ』(入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)も読んでしまった。

 『わたしたちが孤児だったころ』は上海で少年期を過ごしたイギリス人の一人称で、主人公の両親は太平洋戦争前夜の上海で行方不明になっている。両親の失踪後、主人公はイギリスで教育を受け「探偵」になる。坦々とした一人称にかかわらずホームズを彷彿とさせる社交界の名士の探偵という設定はかなりシュールだ。ミステリー仕立ての終盤には引き込まれた。

◎全体で一つの世界

 私が読んだ6つの長編を発表順に並べると次のようになる。

  1982年『遠い山なみの光』
  1986年『浮世の画家』
  1989年『日の名残り』
  1995年『充たされざる者』
  2000年『わたしたちが孤児だったころ』
  2005年『わたしを離さないで』

 私はイシグロが23年にわたって発表してきた6作品を1カ月足らずの間に読んだわけだ。作家のデビュー当時から作家と足並みをそろえて読み継いできた読者にとっては、イシグロは多彩な変貌を遂げてきた作家に見えるかもしれない。舞台は多様に広がり、作風も郷愁譚から不条理世界、探偵小説、SFと様々だ。

 だが、短時間でまとめ読みすると、これらの小説が独立した別々の小説ではなく全体で一つのイシグロ・ワールドを語った一つの壮大な小説に見えてくる。それは、主人公が一人称で坦々と語る静謐で切ない記憶の世界である。

 本屋の店頭に積まれている未読のイシグロ本は『忘れられた巨人』(2015年)と『夜想曲集』(短編集)の2冊だ。クセになる中毒性のある作家なので、いずれこの2冊も読みそうな予感はある。だが年内は別の本に移ろうと思っている。

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