映画『ハイドリヒを撃て!』を観て小説『HHhH』を読んだ2017年12月07日

 ナチス統治下のプラハでナチス高官ハイドリヒが暗殺され、その報復としてヒトラーがチェコの一つの村をせん滅したという話はどこかで読んだ記憶がある。だが、その詳細はおぼろだった。下高井戸シネマで『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』という映画が上演されていると知り興味がわき、観に行った。

 『ハイドリヒを撃て!』は迫力のあるいい映画で、1942年に発生したハイドリヒ暗殺という史実への関心が高まった。この事件が第二次大戦史やナチス・ドイツ史の中でどの程度のウエイトを占めているかはよくわからないが、チェコの人々にとっては記憶にとどめるべき歴史的大事件だったようだ。

 映画のパンフレットで、ハイドリヒ暗殺はすでに過去2回映画化されていると知った。『死刑執行人もまた死す』(1943年)、『暁の7人』(1975年)という映画だ。前者は事件発生翌年の映画で脚本はブレヒトだそうだ。

 ハイドリヒ暗殺はロンドンのチェコスロバキア亡命政府から送り込まれたパラシュート部隊の戦士によって実行される。パラシュート部隊の戦士たちは教会の納骨堂に潜伏し、ナチスとの壮絶な銃撃戦のすえ水攻めによって全滅(7人)する。

 映画を観たあと、わが本棚に次の未読本があることを思い出した。
 
 『HHhH プラハ、1942年』(ローラン・ビネ/高橋啓訳/東京創元社)

 今年5月のアウシュヴィッツ訪問を前に何冊かの関連本に目を通した。その折に人に薦められて購入したが、冒頭の数ページを読んだだけで放り出していた。

 この本を読み通せなかったのは、アウシュヴィッツが直接のテーマでないということもあるが、私が想定したような普通のノンフクションではなく私小説的でわかりにくい語り口に馴染めなかったからだ。

 映画でハイドリッヒ暗殺の概要を知ってから本書に再び取り組むと、その面白さに引き込まれ一気に読了できた。

 この本は「ハイドリヒ暗殺の事実に迫る本を書く」ということを語る「小説」で、メタノンフクションとでも言うべき不思議な本だ。司馬遼太郎の長大なエッセイ風歴史小説とも異なり、1972年生まれの著者の一人称は翻訳では「僕」であり、僕の私生活への言及も随所に織り込まれている。

 にも関わらず、ハイドリッヒ暗殺を扱った立派なノンフィクションにもなっている。「HHhH」という不思議なタイトルは「Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)」という意味らしい。ハイドリヒがヒムラーの頭脳と呼ばれるナチス・ナンバー3の存在だったことは事実かもしれないが、それが本書のメインテーマとは思えない。なぜこんなタイトルをつけたのかは謎だ。

 本書読了後、ネット検索をしていてこの小説が今年映画化され、日本でも来年公開予定だと知った。タイトルは『HHhH』のようだ。ハイドリヒ暗殺をテーマにした4本目の映画だ。ハイドリヒ暗殺は、それほどに人々の興味を引き付け続ける事件なのだとあらためて認識した。

クセになるカズオ・イシグロの世界2017年12月10日

『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ/小野寺健訳/ハヤカワepi文庫)、『浮世の画家』(カズオ・イシグロ/飛田茂雄訳/ハヤカワepi文庫)、『日の名残り』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)、『充たされざる者』(カズオ・イシグロ/古賀林幸訳/ハヤカワepi文庫)、『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ/入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)
◎付和雷同でイシグロの本を買う

 本日(12月10日)はノーベル賞授賞式だ。カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞のニュースの接したときは少し驚いた。名前や評判を知っているだけで作品を読んだことはなかった。比較的若い作家と思っていたが、私より若いというだけで、単に当方が年を取ったにすぎないと気づいた。

 受賞ニュースの翌日、都心の大型書店に立ち寄ったがイシグロの本は品切だった。11月下旬になると、わが駅前の本屋の店頭にもイシグロの本が平積みになった。すべて早川書店(日本語版翻訳権を独占しているようだ)の文庫本で全8点。それがうず高く積まれているのは壮観だ。

 自分が付和雷同の俗人だと自覚しつつ代表作と報道されている次の2点を購入した。

 『わたしを離さないで』(土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)
 『日の名残り』(土屋政雄訳/ハヤカワepi文庫)

◎SF仕立ての記憶語り小説『わたしを離さないで』

 まず『わたしを離さないで』を読んだ。臓器提供のために育成されているクローン人間が主役のSF仕立てだとは聞いていた。坦々とした語り口の端正な小説だった。事前知識なしに読むと衝撃を受けるかもしれないが、状況を明に告発する内容ではなく、主人公たちは運命を受け容れながら日々を生きているように見える。それを記憶語りの形で描出した不思議な世界だ。数年前に読んだ清冽な小説『火山のふもとで』(松家仁之)を連想した。

◎『日の名残り』は繊細な懐旧談…

 続いて『日の名残り』を読んだ。ナチス台頭の時代から現代までのヨーロッパ史を背景にした繊細な懐旧談で、過ぎ去った時代への郷愁と感慨がわき出てくる。

 『わたしを離さないで』も『日の名残り』も静謐な一人称小説で、語りの大半は回想である。語っている「今」と回想の往復に妙味があり、その回想が本当の記憶かねつ造された記憶かが不分明だ。私たちが感得している世界とはこのようにあいまいで異形であり、それこそが人間社会だと感じさせられる。

◎小津映画のような『浮世の画家』

 代表作2つを読めば十分だろうと思っていたが、2作を読み終えると、やはり日本を扱った作品も読んでみたくなった。日本が舞台の小説は次の2作だ。

 『浮世の画家』(飛田茂雄訳/ハヤカワepi文庫)
 『遠い山なみの光』(小野寺健訳/ハヤカワepi文庫)

 少し迷った末、カバー裏の紹介文から『浮世の画家』を選択した。戦時中の画業のせいで戦後には批判の対象になった画家の話とのことで、もしかして藤田嗣治がモデルかなとの興味がわき、この小説に手が伸びたのだ。読んでみると、老画家の一人称の小津安二郎の映画のような話で、フジタとの関連は感じなかった。

 『浮世の画家』に、ないものねだりの多少の期待外れも感じ、読了前には『遠い山なみの光』の方も読まなねばという気分になり、駅前に行ったついでに『遠い山なみの光』も購入した。この時にはイシグロの一人称世界に中毒になりかかっていたようだ。

◎『遠い山なみの光』はシュール

 長崎出身でイギリス在住の日本人女性が長崎で過ごした遠い過去を回想する『遠い山なみの光』はかなり異様で面白かった。人生の回想のようでありながら肝心な所をサラリと省略し、断片だけで全体を想像させる手法に感心した。

 語り手の女性とその回想に登場する友人の女性がオーバラップしていて、実はこの二人は同一人物だというシュールな話にも思えてくる。記憶にはそのような不思議な作用もありそうな気がする。

◎溶融と可塑の『充たされざる者』

 当初は2冊のつもりが4冊になり、これで十分のはずだったが、4冊読了すると、当初から気がかりだった『充たされざる者』(古賀林幸訳/ハヤカワepi文庫)を購入してしまった。ノーベル賞のテレビニュースで一人の評論家が「不条理小説『充たされざる者』が一番いい」と語っていたのが記憶に残り、当初はこの1作だけを読もうとも思っていた。だが、本屋の店頭でその厚さに圧倒され敬遠していたのだ。

 『充たされざる者』は900ページ以上あり、他の長編の3倍ほどの長さだ。確かにカフカ世界か夢日記のようだが、この大長編はほんの数日の話で読みにくくはない。長さも感じなかった。

 他の長編と同様に回想の多い一人称だが、これはかなり不思議な一人称だ。語り手ではなく語られる人間の記憶や心象までが一人称で語られているのだ。登場人物の多くは語り手の分身に近く人々の心象や記憶や溶融している。さらに時間や空間も溶融していて、世界の不思議な可塑性を描いているように思える。

◎探偵登場の『わたしたちが孤児だったころ』

 分厚い『充たされざる者』で打ち止めにしようと思いつつ、それでは終わらず、続いて『わたしたちが孤児だったころ』(入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)も読んでしまった。

 『わたしたちが孤児だったころ』は上海で少年期を過ごしたイギリス人の一人称で、主人公の両親は太平洋戦争前夜の上海で行方不明になっている。両親の失踪後、主人公はイギリスで教育を受け「探偵」になる。坦々とした一人称にかかわらずホームズを彷彿とさせる社交界の名士の探偵という設定はかなりシュールだ。ミステリー仕立ての終盤には引き込まれた。

◎全体で一つの世界

 私が読んだ6つの長編を発表順に並べると次のようになる。

  1982年『遠い山なみの光』
  1986年『浮世の画家』
  1989年『日の名残り』
  1995年『充たされざる者』
  2000年『わたしたちが孤児だったころ』
  2005年『わたしを離さないで』

 私はイシグロが23年にわたって発表してきた6作品を1カ月足らずの間に読んだわけだ。作家のデビュー当時から作家と足並みをそろえて読み継いできた読者にとっては、イシグロは多彩な変貌を遂げてきた作家に見えるかもしれない。舞台は多様に広がり、作風も郷愁譚から不条理世界、探偵小説、SFと様々だ。

 だが、短時間でまとめ読みすると、これらの小説が独立した別々の小説ではなく全体で一つのイシグロ・ワールドを語った一つの壮大な小説に見えてくる。それは、主人公が一人称で坦々と語る静謐で切ない記憶の世界である。

 本屋の店頭に積まれている未読のイシグロ本は『忘れられた巨人』(2015年)と『夜想曲集』(短編集)の2冊だ。クセになる中毒性のある作家なので、いずれこの2冊も読みそうな予感はある。だが年内は別の本に移ろうと思っている。

大竹しのぶの存在感あふれる『欲望という名の電車』2017年12月12日

 BUNKAMURAのシアターコクーンで大竹しのぶ主演の『欲望という名の電車』(演出:フィリップ・ブリーン)を観た。北村一輝、鈴木杏らも出演している。

 あまりにも有名なテネシー・ウィリアムズ名作で戯曲を読んだのはかなり昔だ。何となく、すでにどこかで舞台を観たことがあるように感じていたが、よく考えてみるとそれは記憶のねつ造であって、舞台で観るのは今回が初めてのはずだ。

 約3時間の舞台にほとんど出ずっぱりの大竹しのぶの存在感には圧倒された。熱の入った緊張感が持続する3時間を体験し、観劇後には心地よい疲労を感じた。

 戯曲と役者は演劇の二大要素であり、いい役者と優れた戯曲の出会いは役者vs戯曲の格闘技のようでもあり、それが面白い舞台を作りあげる。そんな当然のことを再認識した。

市川中車と坂東玉三郎の『瞼の母』を観ながら思い出したこと2017年12月13日

 歌舞伎座の「十二月大歌舞伎」は3部制で、その第3部を観た。長谷川伸の『瞼の母』と舞踊劇『楊貴妃』の2本で、どちらも市川中車と坂東玉三郎がメインだ。

 『楊貴妃』は夢枕獏が玉三郎のために書き下ろした作品だと知り、レパートリーの広い作家だと驚いた。

 「瞼の母」という言葉や「番場の忠太郎」という名前はずいぶん昔から知っているが、舞台を観るのは初めてだ。初めてにも関わらず観劇しながら既視感がわき出す。有名な話だから子供の頃からインプットされたいろいろな情報が記憶の底に沈んでいるのだろう。カズオ・イシグロの小説を読んでから、つい記憶の不思議を考えてしまう。

 『瞼の母』を観ていて、ふいに『瞼のチャット』という小説が頭によみがえってきた。これは明確な記憶だ。清水義範が1989年10月号の『小説現代』に発表した短編で、当時はまだ珍しかったパソコン通信で肉親が出会う横書きの小説である。当時、私はパソコン通信をやっていて、この小説を読んだ知人から「あなたの書いたメッセージがパスティーシュされている」とのメールをもらった。本屋に行って確認するとその通りで、清水義範ファンだった私は何か誇らしい気分になった。

 そんな遠い記憶をなつかしみながら中車と玉三郎の舞台を堪能した。

来年の大河を機に『翔ぶが如く』を読んだが…2017年12月24日

『翔ぶが如く』(司馬遼太郎/文春文庫)
◎西郷隆盛は苦手

 私は日本史では幕末維新に関心があるが、西郷隆盛は苦手である。評価が難しい人物なので、遠ざかりたいという気分がある。だから、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は、いつかは読まねばと思いつつ敬遠していた。文庫本で10冊と長大なうえに題材が西郷隆盛だから手を出しかねていた。

 その『翔ぶが如く』(文春文庫)全10冊をこの年末に古書で入手し、半月足らずで読み終えた。きっかけもちろん来年の大河ドラマだ。私は大河のファンではなく大半は観ていない。だが、年末になって来年の大河関連本が書店の店頭に並ぶと多少は気になる。

 来年の大河ドラマ『西郷どん』の原作は林真理子で、『翔ぶが如く』は何年か前にすでに大河ドラマになったそうだ。でも、年末の本屋の店頭には『翔ぶが如く』も平積みになっている。いつかは読むなら、いまがチャンスだと思った。『西郷どん』を観るか否かはわからない。主人公の鈴木亮平はいい役者なので多少は観るかもしれない。

◎西郷隆盛とは何者か

 『翔ぶが如く』は歴史エッセイに近いので、読了しても大長編を読んだという気分ではなく、司馬遼太郎の蘊蓄に富んだ長時間の座談につきあったという気分になる。毎日新聞に4年にわたって連載された作品で、同じような話や見解の繰り返しもあるが、それがさほど気にならないのも座談だからであり、それによって当方の理解が多少は定着する。

 読後感は『坂の上の雲』に近い。扱っている時代の前後関係から『坂の上の雲』の前に発表した作品かと思ったが、調べてみると『翔ぶが如く』の方が後だった。明治時代に誕生した軍隊が昭和の硬直した軍閥へと変貌するさまへの苦い見解は二つの作品に共通している。

 『翔ぶが如く』は明治5年頃から西南戦争終結の明治10年までを扱っていて、西郷隆盛が最も活躍した幕末は遠景になっている。だから、西郷の伝記ではない。

 本書を読んで、薩摩の国柄、征韓論、明治の太政官政府の様子、台湾出兵などについての理解が深まり、西南戦争の詳細を知ることができた。その意味では有益だった。しかし、西郷隆盛とは何者であるかは依然としてよくわからない。

◎把えがたい人物

 本書の始めの方で作者は西郷隆盛とは何者か、なぜ人気があるのかと自問し「会ってみなけらばわかない」という不思議な述懐をしている。それは、この小説は「西郷隆盛に会う」ことを目指しているという宣言にも思えた。

 しかし、終盤になっても次のように書かれている。

 「要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇所がある(…)。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接してみなければその重大な部分がわからない」

 そう述べる作者は西郷隆盛をもてあましているようにも思える。カリスマのカリスマ性を信者でない人間が論理の言葉で説明するのは難しい。わかりやすさとわかりにくさが混在しているのでややこしい。

 かつて半藤一利氏が「西郷隆盛は毛沢東のような人」と述べているのを読んで、ナルホドと感じたことがある。だが、それは幕末までの西郷隆盛であって、明治以降には当てはまりにくい。

 坂本竜馬が西郷隆盛を評した「釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。」という言葉がある。この例えで言えば、私は西郷を大きく叩くことができないようだ。

 そんなことを考えていると来年の大河ドラマが心配になってきた。「後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇所」をドラマで表現できるだろうか。

原作読了から半年経って映画『関ケ原』を観た2017年12月26日

 下高井戸シネマで映画『関ケ原』を観た。封切りは今年の8月で、その1カ月程前に司馬遼太郎の原作を読んだ。読みでのある小説を読了すると映画はどうでもいいという気分になり、封切り時にはなんとなくスルーした。

 その後、この映画では小早川秀秋の扱いが原作と異なり、原田眞人監督の独自の見解が取り入れられていると知り、映画への興味がわいた。夏・秋が過ぎ年末になって映画を観る機会を得た。

 映画が原作を超えることは稀れである。『関ケ原』のような長大な小説を数時間の映画に収めるのは至難であり、映画『関ケ原』も小説のダイジェストの趣になるのはやむを得ない。それでも、かなりメリハリのある映像に仕上がっていて、『関ケ原』とはこんな話であったかとあらためて想起し、映画を観終えると原作を再読したくなった。

 小早川秀秋は確かに原作とは違う。原作では魯鈍のようなキャラクターだったが、それが悩める貴公子になっている。歴史解釈の妙だ。原作をリスペクトしながらも改変する映画監督の心意気=創造性に感服した。

 原作で感じた島左近 vs 本多正信の謀臣のドロドロは映画では表現されていなかったが、福島正則、大谷刑部らは映像化によって私にとっては印象が深まった。

 この映画には司馬遼太郎の肉声を思わせるナレーションが所々に挿入されている。司馬遼太郎の小説のメインは人物評であり、その映像化は難しいが、ナレーションで押し通すのも一つの手だ。ナレーションの部分をもっと増やすと俯瞰の面白さが出たのでは思う。劇映画ではなくエッセイ映画になってしまうかもしれないが。