サイパン訪問記(1): 二つの敗戦を感じた観光旅行2014年04月02日

旧日本軍の戦跡(サイパン)
◎義母の生まれ育った地へ

 昨年90歳で亡くなった義母(カミさんの母親)はサイパン生まれだった。当時のサイパンは日本の委任統治領で、義母の父親はサイパンで手広く商売をやっていたそうだ。
 何不自由なくサイパンで育った義母は、晩年になってもサイパンを懐かしんでいた。しかし、戦後のサイパンを訪れることはなかった。サイパン旅行をした姉から「いまのサイパンはすっかり変わってしまい、昔の面影は残っていない」と聞き、再訪の意欲がわかなかったようだ。

 義母が亡くなり、カミさんが自分の母親が生まれ育った土地を見たいと言い出した。カミさんが計画を作り、夫婦に娘と孫(小学生二人)の5人でサイパンに行ってきた。3泊の短い旅だったが、戦跡など往時を偲ぶ場所をいろいろ巡った。

◎サイパンは米国の自治領

 100年前の第一次世界大戦で日本の委任統治領になったサイパンは、1944年に米軍に占領され、ここから日本本土を空襲するB29が飛び立った。終戦後は国連の信託統治領になり、1981年から米国の自治領になっている。
 成田からサイパンに行く直行便はデルタ航空しかない。

◎到着初日、サイパンの過疎化におどろく

 いまのサイパンはマリンスポーツの観光地になっていて、戦跡を訪れる人は多くはない。市販のガイドブックを見ても、楽しそうなマリンスポーツの記事が中心だ。
 だから、南国のリゾート地に行く気分で足を踏み入れた。しかし、予想はかなりはずれた。確かにリゾート地ではあるが、さほど賑やかではない…と言うか、過疎化しているのだ。

 私たちが宿泊したのはハファダイビーチホテルだ。1977年に日本からの戦没者慰霊団の宿泊施設としてオープンし、その後、クリスタルタワー(14階)、タガタワー(18階)を増設した大規模ホテルである。
 ネットの口コミ情報には「古い本館はカビ臭い」という投稿が多かった。私たちが予約しているのは比較的新しいタガタワーの部屋だったので大丈夫だろうと思っていた。しかし、残念なことに、やはりカビ臭かった。しばらくの時間、窓を開けっ放しにしておいて、何とか過ごすことができた。

 小さな子連れだったので、念の為に到着日の夕食だけはホテルの展望レストランを日本から予約しておいた。予約した18時にレストランに行くと他に客はいなかった。海に沈む夕日が眺望できる大きなレストランだったが、私たちが席を立つ19時過ぎまで他の客は来なかった。

 ホテルはサイパンで一番の繁華街であるガラパン地区にある。義母の父親の店もかつてはこの地区のどかにあったそうだ。街を歩いてみると、シャッターを下ろした店が目立つ。営業中であっても、古びた商品がホコリを被っている店もある。

 ホテルや街の様子から、サイパンは盛りを過ぎた観光地なのだと気付いた。清里や熱海に似ているのかもしれない。

 ホテルの窓からは別棟を望める。夜になっても灯り消えている部屋が多い。空室のままの期間が長いので部屋がカビ臭くなっていくようだ。ホテルのサービスに特に問題は感じなかったが、スタッフは少なそうだった。空室の管理にまでは手が回らないのだと思われる。

◎中国人と韓国人の多さにおどろく

 二日目、日本人ガイドの案内で戦跡をメインにサイパンの各地をドライブした。面積が淡路島の五分の一程度の小さな島なので、半日でほぼ全域を回れる。

 朝一番に行ったのは、最高峰のタポチョ山(標高473m)である。出発の時、日本人ガイドが「まず、朝一番でタポチョ山に行きます。9時を過ぎると中国人観光客が大勢来てうるさくなるからです」と言った。こんな所にまで中国人が押し寄せているのかとおどろいた。

 タポチョ山に行くには、舗装されていない難路を激しく揺られながら登らなければならない。本来は四駆でなければ危ないそうだ。私たちの車(シボレーのSUV)は四駆ではなかったが無事に登りきり、山頂に一番乗りできた。

 山頂には大きなキリスト像があり、サイパン島全体を一望できる。映画『太平洋の奇跡:フォックスと呼ばれた男』で有名になった大場大尉の部隊が潜んでいた場所も眼下に見ることができる。米軍基地からこんなに近い場所に潜んで17カ月間も抵抗し続けたのかとおどろかされた。

 私たちが下山する頃には、ガイドの言ったとおり、中国人観光客が数名現れた。下り道では登って来る何台もの車とすれ違った。

 タポチョ山に限らず、旧日本軍野戦病院跡の聖母マリアの祠、バードアイランド、スーサードクリフ、バンザイクリフなどにも多くの中国人や韓国人が来ていた。これらの戦跡では日本人をほとんど見かけなかった。
 もちろん、ビーチや街中には多くの日本人がいるが、中国人や韓国人の方がはるかに多い。
 
◎敗戦の索漠たる情景

 なぜ、サイパンは過疎化しつつあるのか。なぜ、日本人観光客が減っているのか。にもかかわらず、なぜ、中国人や韓国人の観光客が多いのか。それらの疑問はガイドの話で氷解した。

 かつては、日本の企業がサイパンの観光開発の担い手だった。しかし、その多くが破綻して撤退し、日本資本に代わって中国資本や韓国資本が進出してきているのだ。
 サイパンのホテルの多くは日本企業が建てたものだ。しかし、いまではその大半が中国や韓国の企業に売却されている。それを象徴するのがJALの撤退だ。

 かつてサイパンへの定期便を運航していたJALは、1988年に大規模なホテル・ニッコー・サイパンを開業した。今の天皇夫妻がサイパン訪問したときに宿泊したホテルだ。しかし、天皇夫妻宿泊の4カ月後の2005年10月、JALのサイパン便は廃止された。その後、ホテル・ニッコー・サイパンは中国資本に売却され、パームス・リゾート・サイパンという名に変わった。そのホテルも数年前から休業したままになっている。ドライブの車中からその巨大な建物を眺め、索漠たる気持になった。

 日本のバブル崩壊に連動したサイパンの観光事情は、ちょっと調べればわかることだったが、うかつにもサイパンを訪れるまでは知らなかった。

 サイパンは太平洋戦争の犠牲者が多い島で、戦没者慰霊に訪れる日本人は多かったはずだ。遺族や戦争経験者の高齢化にしたがって戦跡を訪れる日本人が減少しているだろうとは容易に想像できる。それを補って、マリンスポーツを楽しむ若者やゴルフをやるオジサンなどの観光客が多いのだろうと思っていた。
 しかし、この目で見たサイパンは、太平洋戦争での日本敗北の残骸に経済戦争で敗退した日本資本の残滓が重なっている姿だった。

 サイパンでは思った以上に日本語が通じるのがうれしかった。看板やレストランのメニューも日本語が多い。しかし、それに加えて中国語やハングルもあふれている。日本語が通じる時代がいつまで続くのか心もとない限りである。
 かつてサイパンでマリンスポーツを楽しんだ日本の若者たちが、年を経て、生前の義母と同じように「いまのサイパンはすっかり変わってしまい、昔の面影は残っていない」という時代に入りつつあるように思える。