生誕100年の安部公房と吉本隆明の接点は… ― 2024年10月01日
今年(2024年)は安部公房生誕100年で、吉本隆明生誕100年でもある。二人とも、半世紀以上昔のわが青春時代のスターだった。私も少なからぬ影響を二人から受けていると思う。と言っても、この二大スターは異質な存在で、接点は少なかった。
安部公房は花田清輝に近かったから、「吉本・花田論争」で花田清輝をコテンパンにした吉本隆明にとっては「敵」に近い存在だったと思う。大昔に読んだ吉本隆明の著作のなかに安部公房を揶揄・罵倒する文章がいくつかあった。安部公房が吉本隆明に言及した文章に接した記憶はない。
だが、先日読んだ『安部公房:消しゴムで書く』(鳥羽耕史)には吉本隆明の名が何か所か出てきた。その情報をベースに、二人の生誕100年を記念して、二人の接点を簡単に辿ってみようと思う。
二人はともに1924年生まれだが、学年は安部公房がひとつ上だ。1945年8月の日本敗戦のとき安部公房は21歳、吉本隆明は20歳だった。安部公房は1947年に『無名詩集』を自費出版、1948年に東大医学部を卒業している。吉本隆明は1947年に東工大を卒業、1952年に自家版『固有時との対話』を出版する。
鳥羽氏の伝記によれば、二人は1951年、27歳の頃に接触している。
「1951年に公房と堀田善衛が春と秋に続けて芥川賞を取った時、東京工業大学で文芸部に所属していた吉本隆明と奥野健男が、二人を呼んで座談会を企画したことがある。この座談会では公房が一人で淡々と喋り、堀田はほとんど何も喋らなかったという。」
二人の出会いが意外に早かったのに驚いた。その後、1957年に安部公房らが「記録芸術の会」を立ち上げたとき、その発起人会に吉本隆明もいたそうだ。鳥羽氏は次のように述べている。
「発起人会では村松剛の入会可否をめぐって対立が生じて吉本隆明、武井昭夫、奥野健男らが退場したため、当初のメンバーは26名でスタートした。」
1957年、二人は決裂したのだ。そして1960年10月、安部公房は「記録芸術の会」が準備してきた月刊誌『現代芸術』(勁草書房)の編集長になる。この雑誌の創刊号に花田清輝の巻頭詩「風の方向」が載る。この詩が60年安保闘争の吉本隆明を揶揄していて、吉本・花田論争のきっかけになる。鳥羽氏のおかげで、安部公房が吉本・花田論争のきっかけに、かなり深く関わっていたと知り、なるほどと思った。
鳥羽氏の伝記による安部公房と吉本隆明の接点は以上の三点である。それをふまえて、吉本隆明の安部公房への言及を少し探索してみた。
1960年刊行の『言語にとって美とはなにか』の「第Ⅳ章 表現転移論」では「戦後話体の表出が文学体への上昇過程へ向かった」作品の例として、太宰治「人間失格」、田中英光「さようなら」、安部公房「壁」、高見順「この神のへど」を挙げている。
1958年発表の「情勢論」では、安部公房の評論「人間未来史観序説」を「マルクス主義者中の「未来バカ」が、今日のマス化現象のなかで、危機感を失い、児戯に類するタワゴトにふけっている好個のエキザンプルである」と痛烈に批判している。
1963年発表の「「政治と文学」なんてものはない」では『砂の女』を次のように「評価」している。
「また、安部公房のように才あって徳なしといった政治的オポチュニストが、無意識のうちに、世界の政治的解体を感受した解放感と挫折感を、はじめてわが身につまされて表現したため、過去の作品より出来がよかったというにすぎない『砂の女』や、『金閣寺』をどこまで超えたか疑わしい三島由紀夫の『美しい星』を、ことこまかく論ずる意思もない。」
1964年発表の「いま文学に何が必要か」という文章では、現代の優れた作品の一つとして『砂の女』などを例示し、次のように述べている。
「かれの創った作品のなかに、現在の現実社会の病根がすべて鏡になって映されているような、ほんとうの患者こそが重要なのだ。(…)そして、現在、それぞれの個性と陰影をこめて、あたうかぎりほんとうの患者でありえているのは、残念なことに、島尾敏雄、安部公房、三島由紀夫、大江健三郎らの少数の優れた知識人作家のほかにありえないのである。」
結局は評価しているのだ。吉本隆明の安部公房への言及は他にもありそうだが、私の雑駁な探索で得たのは以上である。
今年生誕100年を迎えた大物二人、どちらがビッグか、私には判断できない。
安部公房は花田清輝に近かったから、「吉本・花田論争」で花田清輝をコテンパンにした吉本隆明にとっては「敵」に近い存在だったと思う。大昔に読んだ吉本隆明の著作のなかに安部公房を揶揄・罵倒する文章がいくつかあった。安部公房が吉本隆明に言及した文章に接した記憶はない。
だが、先日読んだ『安部公房:消しゴムで書く』(鳥羽耕史)には吉本隆明の名が何か所か出てきた。その情報をベースに、二人の生誕100年を記念して、二人の接点を簡単に辿ってみようと思う。
二人はともに1924年生まれだが、学年は安部公房がひとつ上だ。1945年8月の日本敗戦のとき安部公房は21歳、吉本隆明は20歳だった。安部公房は1947年に『無名詩集』を自費出版、1948年に東大医学部を卒業している。吉本隆明は1947年に東工大を卒業、1952年に自家版『固有時との対話』を出版する。
鳥羽氏の伝記によれば、二人は1951年、27歳の頃に接触している。
「1951年に公房と堀田善衛が春と秋に続けて芥川賞を取った時、東京工業大学で文芸部に所属していた吉本隆明と奥野健男が、二人を呼んで座談会を企画したことがある。この座談会では公房が一人で淡々と喋り、堀田はほとんど何も喋らなかったという。」
二人の出会いが意外に早かったのに驚いた。その後、1957年に安部公房らが「記録芸術の会」を立ち上げたとき、その発起人会に吉本隆明もいたそうだ。鳥羽氏は次のように述べている。
「発起人会では村松剛の入会可否をめぐって対立が生じて吉本隆明、武井昭夫、奥野健男らが退場したため、当初のメンバーは26名でスタートした。」
1957年、二人は決裂したのだ。そして1960年10月、安部公房は「記録芸術の会」が準備してきた月刊誌『現代芸術』(勁草書房)の編集長になる。この雑誌の創刊号に花田清輝の巻頭詩「風の方向」が載る。この詩が60年安保闘争の吉本隆明を揶揄していて、吉本・花田論争のきっかけになる。鳥羽氏のおかげで、安部公房が吉本・花田論争のきっかけに、かなり深く関わっていたと知り、なるほどと思った。
鳥羽氏の伝記による安部公房と吉本隆明の接点は以上の三点である。それをふまえて、吉本隆明の安部公房への言及を少し探索してみた。
1960年刊行の『言語にとって美とはなにか』の「第Ⅳ章 表現転移論」では「戦後話体の表出が文学体への上昇過程へ向かった」作品の例として、太宰治「人間失格」、田中英光「さようなら」、安部公房「壁」、高見順「この神のへど」を挙げている。
1958年発表の「情勢論」では、安部公房の評論「人間未来史観序説」を「マルクス主義者中の「未来バカ」が、今日のマス化現象のなかで、危機感を失い、児戯に類するタワゴトにふけっている好個のエキザンプルである」と痛烈に批判している。
1963年発表の「「政治と文学」なんてものはない」では『砂の女』を次のように「評価」している。
「また、安部公房のように才あって徳なしといった政治的オポチュニストが、無意識のうちに、世界の政治的解体を感受した解放感と挫折感を、はじめてわが身につまされて表現したため、過去の作品より出来がよかったというにすぎない『砂の女』や、『金閣寺』をどこまで超えたか疑わしい三島由紀夫の『美しい星』を、ことこまかく論ずる意思もない。」
1964年発表の「いま文学に何が必要か」という文章では、現代の優れた作品の一つとして『砂の女』などを例示し、次のように述べている。
「かれの創った作品のなかに、現在の現実社会の病根がすべて鏡になって映されているような、ほんとうの患者こそが重要なのだ。(…)そして、現在、それぞれの個性と陰影をこめて、あたうかぎりほんとうの患者でありえているのは、残念なことに、島尾敏雄、安部公房、三島由紀夫、大江健三郎らの少数の優れた知識人作家のほかにありえないのである。」
結局は評価しているのだ。吉本隆明の安部公房への言及は他にもありそうだが、私の雑駁な探索で得たのは以上である。
今年生誕100年を迎えた大物二人、どちらがビッグか、私には判断できない。
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