フリードリヒ2世は「ルネサンスの先駆者」ではなかった…2024年06月07日

『フリードリヒ2世:シチリア王にして神聖ローマ皇帝』(藤澤房俊/平凡社/2022.3)
 大型書店の歴史書の棚で次の本を見つけたので、さっそく購入して読んだ。

『フリードリヒ2世:シチリア王にして神聖ローマ皇帝』(藤澤房俊/平凡社/2022.3)

 私はフリードリヒ2世(フェデリコ2世)に関心がある。「世界の驚異」「最初の近代人」と呼ばれた13世紀の神聖ローマ皇帝である。関心があると言っても、評伝は塩野七生氏の『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を読んだだけだ。他には、いくつかの歴史概説書で彼に触れている箇所に着目して読んできたにすぎず、2年前に出た本書の存在も知らなかった。

 著者・藤澤房俊氏は1943年生まれ、イタリア近現代史が専門の研究者である。「あとがき」で「本書はフリードリヒ2世の研究書ではない。長年にわたって買いためていた多くの先行研究をもとにまとめた、フリードリヒ2世の評伝である」と述べている。

 私は藤澤氏の『地中海の十字路=シチリアの歴史』を数カ月前に読んだ。その中でフリードリヒ2世について約20ページを費やして語っていた。「桁外れの人物だっただけに、神話が数多く生まれた」「稀有な人物だったので、伝説が広く流布した」との指摘が印象に残った。本書は、『地中海の十字路』で軽く触れていたフリードリヒ2世の「神話」「伝説」について詳述している。

 フリードリヒ2世を「玉座についた最初の近代人」と評したのは19世紀の歴史家ブルクハルトである。著者は「ブルクハルトの理解とは異なり、時代を先取りしたフリードリヒ2世の近代性が独り歩きすることになった」と指摘し、次のように述べている。

 「最近の研究では、フリードリヒ2世はルネサンスの先駆者ではなく、中世の頂点と凋落を具現する皇帝とみなされている」

 「今日の歴史研究では、フリードリヒ2世が、母方のノルマン朝の法律、統治体制を継承し、父方の祖父フリードリヒ1世(赤髭王)の帝国理念を追求した中世の皇帝であることに異議を唱える人はいない」

 著者によれば、フリードリヒ2世はシチリア王&神聖ローマ皇帝を追求した中世の人物であり、卓越した魅力的な人物ではあるが近代人とは言えない、ということである。

 当時、ローマ教皇が最も恐れていたのは、北方のドイツ(神聖ローマ帝国)と南イタリア・シチリアが統合されて挟み撃ち状態になることだった。そして、フリードリヒ2世が秘めていた真の目的は、まさに北方と南方の統合だった。いかに面従腹背であっても教皇との対立が顕在化するのは避けられない。本書のサブタイトル「シチリア王にして神聖ローマ皇帝」は、そんなフリードリヒ2世の姿を端的に表している。

 少年時代のフリードリヒ2世は複合文化の街パレルモを一人で歩き回って市井の人々に接していた、という話がある。また、八ヵ国語を自由に操る語学の天才だったと言われている。著者によれば、これらの話は「伝説」に過ぎない。

 少年時代のフリードリヒ2世が護衛なしにパレルモの街を歩き回ることはあり得ず、王宮のなかで帝王学を学んでいたそうだ。語学に関しては、ラテン語を学んだとは推測でき、ドイツに赴いた際にドイツ語を習得したと思われるが、アラビア語などを習得したかは不明だそうだ。彼を実際に目にした同時代の年代記作家は「彼は多くのさまざまな言語を知っていた」と書き残している。

 フリードリヒ2世は「無神論者」「アンチキリスト」と呼ばれることがある。だが、彼は「皇帝の地位は神から授けられた。それゆえに皇帝と神は一体」と考えており、晩年は自分自身をキリストになぞらえたそうだ。

 中世と言えば異端審問が思い浮かぶ。フリードリヒ2世にとっては神と一体の皇帝に逆らう者こそが異端であり、シチリアにおいて謀反を起こす者を政治色の強い異端審問で処罰した。ロンバルディーアの都市同盟との抗争においても、都市同盟を異端とみなしていた。もちろん、中央集権を目指す政治的動機がベースだった。かなり苛烈な皇帝だったようだ。

 著者は、フリードリヒ2世を「多面的な人物で、とりわけ当時においておそらく最も学識ある王であったことは論をまたない」と評価している。

 フリードリヒ2世が亡くなって32年後、「シチリアの晩禱」事件が発生する。フランス王族支配に対するシチリア人の暴動である。本書の結語は、この事件に関する次のコメントである。

 「その主たる要因は北イタリアにおける戦費を賄うためにフリードリヒ2世がおこなった過度な課税、都市の自治の否定、シチリア人とは無関係の終わることのない戦いなどで、長期にわたってシチリア人に鬱積した不満の爆発という側面があった。」