山田方谷はローカルな偉人か? ― 2016年02月20日
◎山田方谷関連本の著者の多くは縁者たち
山田方谷ゆかりの地を歩くのを機に方谷関連の以下の5冊を続けて読んだ。
(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』(童門冬二/人物文庫/学陽書房)
(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』(矢吹邦彦/明徳出版社)
(3)『備中聖人山田方谷』(朝森要/山陽新聞社)
(4)『山田方谷』(山田琢/明徳出版社)
(5)『山田方谷の夢』(野島透/明徳出版社)
山田方谷関連の本の著者の多くは方谷や縁者の末裔や郷土史家で、その大半が明徳出版社という朱子学や陽明学が専門の出版社から出ている。
(4)の著者・山田琢氏(1910~2000年)は方谷の曾孫にあたる大学教授、(5)の著者・野島透氏(1961~)は方谷6代目直系子孫の財務省官僚、(2)の著者・矢吹邦彦氏は山田方谷と深い関わりがあった庄屋・矢吹久次郎4代目子孫の大学教授だ。(3)の著者・朝森要氏は岡山県の高校教諭を務めた研究家だ。この4人の著者たちは上記以外にも方谷関連の本を書いている。
山田方谷関連の資料リストを眺めてみると、最も基本になるのは『山田方谷全集』(山田準編/明徳出版社)と『山田方谷の詩--その全訳』(宮原信/明徳出版社)という大部な本のようだ。全集の編者・山田準氏(山田済斎 1867~1952)は方谷の孫娘の婿養子にあたる学者で、全訳の著者・宮原信氏は元・高校教諭の地元の研究者である。
このように方谷関連の書籍の大半が縁者たちによって書かれているということは、山田方谷はローカルな偉人であって全国区的な存在ではないということだろうか。
◎5冊の読み比べ
5冊の中で一番面白かったのは(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』だ。「炎の陽明学」というタイトルから連想されるような過激さはあまりない。洒脱で読みやすい語り口には歴史小説的な魅力がある。歴史背景の記述から方谷の私生活への考察まで目配りのバランスもいい。
縁者による本が多い中で(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』は歴史作家・童門冬二氏による読みやすい本だ。歴史小説というよりは、山田方谷早わかり解説書で、(3)と(4)をベースに書かれている。
童門冬二氏が参考にした(3)『備中聖人山田方谷』、(4)『山田方谷』は方谷を知るための基本図書という趣がある。
曾孫の学者が書いた(4)の伝記部分は簡略で、方谷が残した文章の解説がメインだ。方谷の文章はなかなか味わい深い。と言っても、方谷は漢字だけの漢語で書いているので私にはほとんど読めない。読み下しの現代語訳で理解するだけだ。ほんの百数十年前の人が書いた文章が読めないのは、われながら情けない。
方谷ゆかりの地を巡る旅行に持参したのは(3)だ。随所に史料を引用した丁寧な伝記で、ゆかりの写真も多く掲載されている。巻末の年譜や地図もありがたい。
方谷6代目子孫の財務省官僚の手になる(5)『山田方谷の夢』には少し驚いた。ご先祖の事跡を調べて書いた伝記と思って読んだが、かなり想像力を駆使したと推測される小説仕立てになっている。他の方谷関連の本には登場しない新選組の谷三兄弟が副主人公的役割で登場するのにもびっくりした。藩政改革に関する箇所では現役財務官僚らしい考察もあり興味深い。
これらの5冊読み比べると、著者ごとの見解に多少の食い違いもあるが、山田方谷という人物の姿がおのずと浮かびあがってくる。
◎幕末維新を疑似体験
私が山田方谷に関心をもったのは、郷土の偉人について知りたいという動機もあるが、幕末維新という歴史変動の時代にアプローチしたいと考えたからだ。一人の人物に沿って時代の動きを眺めるのは歴史の疑似体験になる。山田方谷に関する本を何冊か読み、この人の生涯をたどりながら、その時々の世の眺めを推測するのは、幕末維新の疑似体験に有効だった。
山田方谷は1805年(文化2年)に生まれ1877年(明治10年)に73歳で亡くなった。明治維新は63歳で迎えている。方谷と同じ頃に相次いで亡くなった明治の元勲・西郷隆盛(1827~1877年)、大久保利通(1830~1878年)、木戸孝允(1833~1877年)より20歳以上年長だ。幕末維新に活躍した人物の中では比較的年長で長生きした勝海舟(1823~1899年)と比べても18歳年上だ。つまり、幕末維新の激動期を成熟した中高年として体験し、明治の世への変転を見届けた人なのだ。
山田方谷は農家の生まれだ。農家にもいろいろあり、方谷の両親は教育熱心だった。方谷は幼少の頃から神童と呼ばれ、学問に励み、学問によって藩主に召し抱えられ、藩校の会頭になる。やがて、学者を超えた財政家として藩政改革を断行し、藩主に次ぐ立場に登りつめる。藩主・板倉勝静が幕閣となり江戸幕府最後の老中首座にまでなるので、方谷は板倉勝静のブレーンとして国政にも関わることになる。
方谷は学問によって立身出世した人に見えるが、その学問が単純ではない。方谷の学問とは朱子学と陽明学であり、当時の知識人に必須の重要な学問だったろうが、私はこれらの学問に不案内で、その内容を理解していない。しかし、現代の目から見ると、方谷が身につけた学識は狭い道徳ではなく、経済学・経営学・歴史学・政治哲学・経済倫理学のようなものだったと推測できる。
そう考えなければ、方谷の藩政改革成功の根拠が見えてこない。方谷が藩政改革に手をつけたとき、備中松山藩には10万両(子孫の野島透氏によれば現在の600億円)の負債があったが、7年後には10万両の黒字に転換したのだ。これは、他に例のない画期的財政再建だった。その手法は現代の財政・金融・マーケティングに通じている。
山田方谷が藩政改革をできたのは、幕藩体制という封建制度の限界を早い時点から見切った醒めた眼をもっていたからでもある。その洞察力には恐れ入る。しかし、方谷にギラギラした所はない。かの佐久間象山を論破し、彼をたしなめる漢詩を作ったというエピソードも面白い。
童門冬二氏が指摘しているように、山田方谷はスタッフとラインを兼任できた人物だったのだ。リアリストで、しかも、きわめて倫理観の高い清貧の人だったようだ。そんな人の視点で幕末の激動を眺めると、山村の農耕現場から江戸城での将軍への謁見まで、上下左右の見晴らしがよい景色が浮かんでくる。
◎坦々と成功したからローカル偉人?
山田方谷に似た立場の幕末の人物に河井継之助や横井小楠がいる。長岡藩家臣の河井継之助は山田方谷の弟子で方谷に倣って藩政改革を断行するが、むしろガトリング砲の入手と北越戦争での悲劇的最期で有名だ。山田方谷が板倉勝静のブレーンだったのと同じように横井小楠は松平慶永のブレーンだった。幕末期には松平慶永の方が板倉勝静より大物で、それなりに活躍をしている(結果が出たかどうかは疑問だ)。横井小楠は時代動向への洞察力がある学者だったようが、明治2年に暗殺される。
おそらく、河井継之助や横井小楠の方が山田方谷よりは知名度が高い。河井継之助は司馬遼太郎が『峠』の主人公として描いた影響が大きいかもしれない。山田方谷の知名度が高くないのは備中松山藩が小藩だったということもあるだろうが、彼が成功者だったことにあるようにも思える。河井継之助も横井小楠も成功者というよりは悲劇の人だった。
山田方谷は悲劇の人ではない。藩主・板倉勝静は鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜とともに大阪城を脱出し、その後は奥羽越列藩同盟に参加し、さらに函館の五稜郭に入る。そこに多少の悲劇性はある。しかしその間、山田方谷は備中松山藩にいて、官軍に対して無血開城する。しかも、方谷は策を弄して板倉勝静を五稜郭から連れ戻してしまう。これでは悲劇にならない。
備中松山藩が方谷が組織した強力な農兵によって官軍と徹底抗戦し、板倉勝静が五稜郭を死に場所として戦っていれば、彼らは悲劇の人となり後世への知名度が上がったかもしれない。しかし、方谷はそんな悲劇の道は選ばなかった。
明治になってからの方谷は山村の私塾で教育に専念し、大久保利通ら新政府からの出仕要請を固辞し続ける。
山田方谷はその生涯に多くの事も見てきただろう。激動の時代だったが、学問を究めながら坦々と成功を積み重ねてきた日々とも言える。晩年は山村の教育者として自足した生活を送っている。そこにドラマはない。それ故に、方谷の名は全国区になりにくいのかもしれない。
山田方谷ゆかりの地を歩くのを機に方谷関連の以下の5冊を続けて読んだ。
(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』(童門冬二/人物文庫/学陽書房)
(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』(矢吹邦彦/明徳出版社)
(3)『備中聖人山田方谷』(朝森要/山陽新聞社)
(4)『山田方谷』(山田琢/明徳出版社)
(5)『山田方谷の夢』(野島透/明徳出版社)
山田方谷関連の本の著者の多くは方谷や縁者の末裔や郷土史家で、その大半が明徳出版社という朱子学や陽明学が専門の出版社から出ている。
(4)の著者・山田琢氏(1910~2000年)は方谷の曾孫にあたる大学教授、(5)の著者・野島透氏(1961~)は方谷6代目直系子孫の財務省官僚、(2)の著者・矢吹邦彦氏は山田方谷と深い関わりがあった庄屋・矢吹久次郎4代目子孫の大学教授だ。(3)の著者・朝森要氏は岡山県の高校教諭を務めた研究家だ。この4人の著者たちは上記以外にも方谷関連の本を書いている。
山田方谷関連の資料リストを眺めてみると、最も基本になるのは『山田方谷全集』(山田準編/明徳出版社)と『山田方谷の詩--その全訳』(宮原信/明徳出版社)という大部な本のようだ。全集の編者・山田準氏(山田済斎 1867~1952)は方谷の孫娘の婿養子にあたる学者で、全訳の著者・宮原信氏は元・高校教諭の地元の研究者である。
このように方谷関連の書籍の大半が縁者たちによって書かれているということは、山田方谷はローカルな偉人であって全国区的な存在ではないということだろうか。
◎5冊の読み比べ
5冊の中で一番面白かったのは(2)『炎の陽明学:山田方谷伝』だ。「炎の陽明学」というタイトルから連想されるような過激さはあまりない。洒脱で読みやすい語り口には歴史小説的な魅力がある。歴史背景の記述から方谷の私生活への考察まで目配りのバランスもいい。
縁者による本が多い中で(1)『山田方谷:河井継之助が学んだ藩政改革の師』は歴史作家・童門冬二氏による読みやすい本だ。歴史小説というよりは、山田方谷早わかり解説書で、(3)と(4)をベースに書かれている。
童門冬二氏が参考にした(3)『備中聖人山田方谷』、(4)『山田方谷』は方谷を知るための基本図書という趣がある。
曾孫の学者が書いた(4)の伝記部分は簡略で、方谷が残した文章の解説がメインだ。方谷の文章はなかなか味わい深い。と言っても、方谷は漢字だけの漢語で書いているので私にはほとんど読めない。読み下しの現代語訳で理解するだけだ。ほんの百数十年前の人が書いた文章が読めないのは、われながら情けない。
方谷ゆかりの地を巡る旅行に持参したのは(3)だ。随所に史料を引用した丁寧な伝記で、ゆかりの写真も多く掲載されている。巻末の年譜や地図もありがたい。
方谷6代目子孫の財務省官僚の手になる(5)『山田方谷の夢』には少し驚いた。ご先祖の事跡を調べて書いた伝記と思って読んだが、かなり想像力を駆使したと推測される小説仕立てになっている。他の方谷関連の本には登場しない新選組の谷三兄弟が副主人公的役割で登場するのにもびっくりした。藩政改革に関する箇所では現役財務官僚らしい考察もあり興味深い。
これらの5冊読み比べると、著者ごとの見解に多少の食い違いもあるが、山田方谷という人物の姿がおのずと浮かびあがってくる。
◎幕末維新を疑似体験
私が山田方谷に関心をもったのは、郷土の偉人について知りたいという動機もあるが、幕末維新という歴史変動の時代にアプローチしたいと考えたからだ。一人の人物に沿って時代の動きを眺めるのは歴史の疑似体験になる。山田方谷に関する本を何冊か読み、この人の生涯をたどりながら、その時々の世の眺めを推測するのは、幕末維新の疑似体験に有効だった。
山田方谷は1805年(文化2年)に生まれ1877年(明治10年)に73歳で亡くなった。明治維新は63歳で迎えている。方谷と同じ頃に相次いで亡くなった明治の元勲・西郷隆盛(1827~1877年)、大久保利通(1830~1878年)、木戸孝允(1833~1877年)より20歳以上年長だ。幕末維新に活躍した人物の中では比較的年長で長生きした勝海舟(1823~1899年)と比べても18歳年上だ。つまり、幕末維新の激動期を成熟した中高年として体験し、明治の世への変転を見届けた人なのだ。
山田方谷は農家の生まれだ。農家にもいろいろあり、方谷の両親は教育熱心だった。方谷は幼少の頃から神童と呼ばれ、学問に励み、学問によって藩主に召し抱えられ、藩校の会頭になる。やがて、学者を超えた財政家として藩政改革を断行し、藩主に次ぐ立場に登りつめる。藩主・板倉勝静が幕閣となり江戸幕府最後の老中首座にまでなるので、方谷は板倉勝静のブレーンとして国政にも関わることになる。
方谷は学問によって立身出世した人に見えるが、その学問が単純ではない。方谷の学問とは朱子学と陽明学であり、当時の知識人に必須の重要な学問だったろうが、私はこれらの学問に不案内で、その内容を理解していない。しかし、現代の目から見ると、方谷が身につけた学識は狭い道徳ではなく、経済学・経営学・歴史学・政治哲学・経済倫理学のようなものだったと推測できる。
そう考えなければ、方谷の藩政改革成功の根拠が見えてこない。方谷が藩政改革に手をつけたとき、備中松山藩には10万両(子孫の野島透氏によれば現在の600億円)の負債があったが、7年後には10万両の黒字に転換したのだ。これは、他に例のない画期的財政再建だった。その手法は現代の財政・金融・マーケティングに通じている。
山田方谷が藩政改革をできたのは、幕藩体制という封建制度の限界を早い時点から見切った醒めた眼をもっていたからでもある。その洞察力には恐れ入る。しかし、方谷にギラギラした所はない。かの佐久間象山を論破し、彼をたしなめる漢詩を作ったというエピソードも面白い。
童門冬二氏が指摘しているように、山田方谷はスタッフとラインを兼任できた人物だったのだ。リアリストで、しかも、きわめて倫理観の高い清貧の人だったようだ。そんな人の視点で幕末の激動を眺めると、山村の農耕現場から江戸城での将軍への謁見まで、上下左右の見晴らしがよい景色が浮かんでくる。
◎坦々と成功したからローカル偉人?
山田方谷に似た立場の幕末の人物に河井継之助や横井小楠がいる。長岡藩家臣の河井継之助は山田方谷の弟子で方谷に倣って藩政改革を断行するが、むしろガトリング砲の入手と北越戦争での悲劇的最期で有名だ。山田方谷が板倉勝静のブレーンだったのと同じように横井小楠は松平慶永のブレーンだった。幕末期には松平慶永の方が板倉勝静より大物で、それなりに活躍をしている(結果が出たかどうかは疑問だ)。横井小楠は時代動向への洞察力がある学者だったようが、明治2年に暗殺される。
おそらく、河井継之助や横井小楠の方が山田方谷よりは知名度が高い。河井継之助は司馬遼太郎が『峠』の主人公として描いた影響が大きいかもしれない。山田方谷の知名度が高くないのは備中松山藩が小藩だったということもあるだろうが、彼が成功者だったことにあるようにも思える。河井継之助も横井小楠も成功者というよりは悲劇の人だった。
山田方谷は悲劇の人ではない。藩主・板倉勝静は鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜とともに大阪城を脱出し、その後は奥羽越列藩同盟に参加し、さらに函館の五稜郭に入る。そこに多少の悲劇性はある。しかしその間、山田方谷は備中松山藩にいて、官軍に対して無血開城する。しかも、方谷は策を弄して板倉勝静を五稜郭から連れ戻してしまう。これでは悲劇にならない。
備中松山藩が方谷が組織した強力な農兵によって官軍と徹底抗戦し、板倉勝静が五稜郭を死に場所として戦っていれば、彼らは悲劇の人となり後世への知名度が上がったかもしれない。しかし、方谷はそんな悲劇の道は選ばなかった。
明治になってからの方谷は山村の私塾で教育に専念し、大久保利通ら新政府からの出仕要請を固辞し続ける。
山田方谷はその生涯に多くの事も見てきただろう。激動の時代だったが、学問を究めながら坦々と成功を積み重ねてきた日々とも言える。晩年は山村の教育者として自足した生活を送っている。そこにドラマはない。それ故に、方谷の名は全国区になりにくいのかもしれない。
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