井上ひさし『もとの黙阿弥』『國語元年』で明治時代へ……2015年09月04日

 先月と今月、井上ひさしの芝居を2本続けて観た。8月に新橋演舞場で上演された『もとの黙阿弥』と9月から紀伊国屋サザンシアターで上演中の『國語元年』である。井上ひさしが亡くなって5年になるが、現在もその芝居が継続して上演されているのに感心した。こまつ座の尽力もあるだろうが、やはり希有の劇作家だったのだろう。

 作者の生前に私が観たのは『表裏源内蛙合戦』『天保十二年のシェイクスピア』『頭痛肩こり樋口一葉』の三本だけだと思う。だから、たて続けて井上作品を観るのは私にとっては異例の体験であり、その2本ともが明治時代を舞台にしているのに不思議な巡り合わせを感じた。

 というのは、このところ幕末維新関係の本を何冊か続けて読んでいて、頭の中が幕末維新モードになっているからだ。少し気になっていた井上作品の上演を知ってチケットの手配したのは1カ月以上前で、そのときは作品の舞台が明治時代であることは意識していなかった。

 『もとの黙阿弥』は片岡愛之助・貫地谷しほり主演、『國語元年』は八嶋智人主演で、二つとも演出は栗山民也だ。回り舞台や花道を活用する新橋演舞場と中規模のサザンシアターでは芝居の趣きは少し異なるかもしれないが、どちらも賑やかで華やかな中に哀感も潜んでいる井上ひさしワールドという点では同じだ。

 『もとの黙阿弥』の設定は明治20年、華族の青年と実業家の娘が鹿鳴館デビューの準備に浅草の小さな芝居小屋で舞踏を習うことから始まるドタバタだ。『國語元年』の設定は明治7年、全国統一の話し言葉の制定を命じられた文部省の下級官吏とその家族たちの話だ。明治7年は西南戦争以前の新政府の胎動期、明治20年は鹿鳴館時代だから、明治といっても二つの芝居の時代背景は少し異なる。

 しかし、この二つの芝居に共通して明治という時代のさまざまな様相が反映されていると感じた。2作品とも現実をデフォルメしたフィクションであり、基本的にはコメディなのだが、苦いものが仕込まれている。どちらの芝居も最後に登場人物の一人が狂人になってしまう。狂人になったまま現実の世界に戻って来ないというのは、喜劇ではなく悲劇というべきかもしれない。あえて、そのような結末にしたことに、劇作家の批判精神を感じないわけにはいかない。その批判対象は「明治という時代」ではなく、もっと大きなものかもしれないが。

 二つの芝居で二人の人物が発狂する原因は何か。ひとつは貧富の差が大きい社会の格差の認識である。もう一つは、言葉を人為的に統一しようという不可能性の認識であり、官僚機構の不条理(有司専制?)である。このようにまとめると二つの芝居が明治という時代の暗部を抉っているようにも見えるかもしれないが、もちろん、芝居はそんなに簡単に整理できるような平板なものではない。

 ただ、私にとっては、明治時代を眺める視点のひとつを得たような気がした。