『ローマ人の物語』の舞台化『カエサル』は原作の面白さを表現できたか ― 2010年10月13日
日生劇場で松本幸四郎主演の『カエサル』という芝居を観た。この芝居、原作が塩野七生の『ローマ人の物語』と知り、この本のファンとしては観なければなるまいと思った。
私は『ローマ人の物語』を文庫本で読み進めている。1992年から年1冊のペースで書き下ろされた単行本は2006年に全15巻が完結している。単行本1冊を2~3冊に分けた文庫本は、単行本の第14巻『キリストの勝利』が38、39、40冊目として先月(2010年9月)刊行された。すぐに購入して読了した。最終巻の文庫本が出るのは1年先らしい。他にも読むべき本は多いので、それまで気長に待つつもりだ。
『ローマ人の物語』を読んでいれば、塩野七生がカエサルの男ぶりに惚れ込んでいることがよくわかる。読者もそれに引きずられるようにカエサルに好感を抱いてしまう。本書を読む前のカエサルへのイメージはそんなによくはなかったので、塩野七生に洗脳されているような気もする。とは言っても、今年のはじめ、ローマ観光をしたとき、カエサル像の前に花束が置かれ人だかりがしているのを見て、やはりカエサルは人気者なのだと思った。
『ローマ人の物語』全15巻は、興隆期5巻、繁栄期5巻、衰退期5巻に分かれていて、その興隆期の後半2巻がカエサルの話だ(『第4巻 ユリウス・カエサル ルビコン以前』『第5巻 ユリウス・カエサル ルビコン以後』)。全巻中のいちばんおいしい部分がカエサルの話とも言えるので、『ローマ人の物語』を原作とする芝居がカエサルに焦点をしぼるのはうなずける。
カエサルの芝居と言えば、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』が思い浮かぶ。『ローマ人の物語』でも『ジュリアス・シーザー』への言及が何か所かあり、「シェイクスピアはシーザーの偉大さを知らなかったので、『ジュリアス・シーザー』は失敗作である」という主旨のバーナード・ショウの観点が塩野七生の考え方に近いと思われる。
では、芝居『カエサル』は『ジュリアス・シーザー』を超えているかといえば、残念ながら、そうは言えない。『ジュリアス・シーザー』にはブルータスとアントニウスの弁論合戦という見せ場があり、そこに芝居としての面白さがある。『カエサル』も面白い芝居ではあるが、はカエサルの魅力を歴史群像劇の中で表現しようとした試みが必ずしも成功しているとは言えない。原作の面白さが芝居に反映されているとは言い難い。
とは言っても、そもそも歴史物語と芝居は別の表現形式なので、原作の面白さが芝居に反映されていないという感想はないものねだりかもしれない。
『ローマ人の物語』はカエサルの魅力・大きさを謳いあげたエッセイである。塩野七生は「虚栄心」と「野心」の大きさの比較によって、カエサルが他の同時代人(スッラ、ポンペイウス、キケロ、ブルータス)とはケタ違いの人物なのだと絵解きしている。「虚栄心」とは「他者に良く思われたい心」、「野心」とは「他者に良く思われなくてもやりとげなければならない想い」である。
キケロやポンペイウスの「虚栄心」は大きいが、それに比べて「野心」は小さい。カエサルの「虚栄心」はキケロやポンペイウスより大きい。そして、カエサルの「野心」はその「虚栄心」よりもっと大きい。
つまり、カエサルは常人を超えた大きな「虚栄心」と、それを上回る巨大な「野心」をもった男であり、それが人並みはずれた大きさの魅力になっているというのだ。この絵解きは面白くてわかりやすい。
このような人並みはずれた魅力を演ずる役者は大変である。松本幸四郎はいい役者だし、カエサルには適役だとは思う。しかし、幸四郎をもってしても塩野七生があの長大な物語において文章で謳いあげたカエサルの総合的な魅力、カエサルの大きさは表現しきれなかったように思われる。
カエサルの物語の終盤は、共和制国家ローマの英雄カエサルが終身独裁官に就任し、独裁を嫌った元老院派のブルータスらに暗殺される話である。そして、カエサル暗殺にもかかわらずブルータスらはカエサルの後継者オクタビアヌスに滅ぼされ、オクタビアヌスは初代ローマ皇帝となりローマ帝国の繁栄が始まるのである。
民主制が善で独裁制が悪という現代の常識の中で、ローマ史の背景を知らずに虚心にこの芝居を観ると、カエサルがヒトラーに重なって見えてくるかもしれない。理想家が権力獲得とともに独裁者に変身していったと感じるかもしれない。そんな感想を抱いたのは、私が『カエサル』を観たとき、かなり大人数の高校生の団体が観劇していたからだ。彼らには『カエサル』がどのような見えたのか気になった。
この芝居では、カエサルが「寛容」という言葉を何度も使う。それによってカエサルが他の同時代人を超えた人物であることを表そうとしているようだ。また「スケベ親父」などの言葉でカエサルの人間的魅力や愛嬌を表そうとしているようだ。むろん、それだけでは、カエサルの巨大な「虚栄心」と巨大な「野心」は伝えきれない。
芝居とは、映画や小説とは異なる表現手段である。芝居の科白は映画やテレビドラマの科白とは違う。芝居には芝居特有のデフォルメした表現が可能だ。『カエサル』においても、原作のもつ「想いとメッセージ」をもっと力強く大風呂敷で表現する方法があったのではないかという気がする。
例えば、暗殺された死後のカエサルに、彼の内奥と彼が構想していたビジョンをしゃべらせるという方法も考えられる。なぜ、終身独裁官を望んだのかを、ローマの未来の展望のもとに語らせてもいい。賢帝が君臨するパクス・ロマーナ、繁栄する大ローマ文化圏の構想を予言的に語らせるとすれば、それこそ、『ローマ人の物語』の第4巻と第5巻だけでなく、全巻を原作とする芝居になりうるだろう。
これは、塩野七生がカエサルに乗り移って、彼女のメッセージをカエサルの口から吐き出させるという仕掛けになるかもしれない。
ただし、カエサルがパクス・ロマーナを神のごとく予見して語るとしても、さらに時代が進んでからの衰亡期まで予言してしまうと、ちょっとおかしな芝居になりそうだ。
私は『ローマ人の物語』を文庫本で読み進めている。1992年から年1冊のペースで書き下ろされた単行本は2006年に全15巻が完結している。単行本1冊を2~3冊に分けた文庫本は、単行本の第14巻『キリストの勝利』が38、39、40冊目として先月(2010年9月)刊行された。すぐに購入して読了した。最終巻の文庫本が出るのは1年先らしい。他にも読むべき本は多いので、それまで気長に待つつもりだ。
『ローマ人の物語』を読んでいれば、塩野七生がカエサルの男ぶりに惚れ込んでいることがよくわかる。読者もそれに引きずられるようにカエサルに好感を抱いてしまう。本書を読む前のカエサルへのイメージはそんなによくはなかったので、塩野七生に洗脳されているような気もする。とは言っても、今年のはじめ、ローマ観光をしたとき、カエサル像の前に花束が置かれ人だかりがしているのを見て、やはりカエサルは人気者なのだと思った。
『ローマ人の物語』全15巻は、興隆期5巻、繁栄期5巻、衰退期5巻に分かれていて、その興隆期の後半2巻がカエサルの話だ(『第4巻 ユリウス・カエサル ルビコン以前』『第5巻 ユリウス・カエサル ルビコン以後』)。全巻中のいちばんおいしい部分がカエサルの話とも言えるので、『ローマ人の物語』を原作とする芝居がカエサルに焦点をしぼるのはうなずける。
カエサルの芝居と言えば、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』が思い浮かぶ。『ローマ人の物語』でも『ジュリアス・シーザー』への言及が何か所かあり、「シェイクスピアはシーザーの偉大さを知らなかったので、『ジュリアス・シーザー』は失敗作である」という主旨のバーナード・ショウの観点が塩野七生の考え方に近いと思われる。
では、芝居『カエサル』は『ジュリアス・シーザー』を超えているかといえば、残念ながら、そうは言えない。『ジュリアス・シーザー』にはブルータスとアントニウスの弁論合戦という見せ場があり、そこに芝居としての面白さがある。『カエサル』も面白い芝居ではあるが、はカエサルの魅力を歴史群像劇の中で表現しようとした試みが必ずしも成功しているとは言えない。原作の面白さが芝居に反映されているとは言い難い。
とは言っても、そもそも歴史物語と芝居は別の表現形式なので、原作の面白さが芝居に反映されていないという感想はないものねだりかもしれない。
『ローマ人の物語』はカエサルの魅力・大きさを謳いあげたエッセイである。塩野七生は「虚栄心」と「野心」の大きさの比較によって、カエサルが他の同時代人(スッラ、ポンペイウス、キケロ、ブルータス)とはケタ違いの人物なのだと絵解きしている。「虚栄心」とは「他者に良く思われたい心」、「野心」とは「他者に良く思われなくてもやりとげなければならない想い」である。
キケロやポンペイウスの「虚栄心」は大きいが、それに比べて「野心」は小さい。カエサルの「虚栄心」はキケロやポンペイウスより大きい。そして、カエサルの「野心」はその「虚栄心」よりもっと大きい。
つまり、カエサルは常人を超えた大きな「虚栄心」と、それを上回る巨大な「野心」をもった男であり、それが人並みはずれた大きさの魅力になっているというのだ。この絵解きは面白くてわかりやすい。
このような人並みはずれた魅力を演ずる役者は大変である。松本幸四郎はいい役者だし、カエサルには適役だとは思う。しかし、幸四郎をもってしても塩野七生があの長大な物語において文章で謳いあげたカエサルの総合的な魅力、カエサルの大きさは表現しきれなかったように思われる。
カエサルの物語の終盤は、共和制国家ローマの英雄カエサルが終身独裁官に就任し、独裁を嫌った元老院派のブルータスらに暗殺される話である。そして、カエサル暗殺にもかかわらずブルータスらはカエサルの後継者オクタビアヌスに滅ぼされ、オクタビアヌスは初代ローマ皇帝となりローマ帝国の繁栄が始まるのである。
民主制が善で独裁制が悪という現代の常識の中で、ローマ史の背景を知らずに虚心にこの芝居を観ると、カエサルがヒトラーに重なって見えてくるかもしれない。理想家が権力獲得とともに独裁者に変身していったと感じるかもしれない。そんな感想を抱いたのは、私が『カエサル』を観たとき、かなり大人数の高校生の団体が観劇していたからだ。彼らには『カエサル』がどのような見えたのか気になった。
この芝居では、カエサルが「寛容」という言葉を何度も使う。それによってカエサルが他の同時代人を超えた人物であることを表そうとしているようだ。また「スケベ親父」などの言葉でカエサルの人間的魅力や愛嬌を表そうとしているようだ。むろん、それだけでは、カエサルの巨大な「虚栄心」と巨大な「野心」は伝えきれない。
芝居とは、映画や小説とは異なる表現手段である。芝居の科白は映画やテレビドラマの科白とは違う。芝居には芝居特有のデフォルメした表現が可能だ。『カエサル』においても、原作のもつ「想いとメッセージ」をもっと力強く大風呂敷で表現する方法があったのではないかという気がする。
例えば、暗殺された死後のカエサルに、彼の内奥と彼が構想していたビジョンをしゃべらせるという方法も考えられる。なぜ、終身独裁官を望んだのかを、ローマの未来の展望のもとに語らせてもいい。賢帝が君臨するパクス・ロマーナ、繁栄する大ローマ文化圏の構想を予言的に語らせるとすれば、それこそ、『ローマ人の物語』の第4巻と第5巻だけでなく、全巻を原作とする芝居になりうるだろう。
これは、塩野七生がカエサルに乗り移って、彼女のメッセージをカエサルの口から吐き出させるという仕掛けになるかもしれない。
ただし、カエサルがパクス・ロマーナを神のごとく予見して語るとしても、さらに時代が進んでからの衰亡期まで予言してしまうと、ちょっとおかしな芝居になりそうだ。
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