ガリヴァ来日300年記念読書2009年06月03日

 60歳にして初めて『ガリヴァ旅行記』完訳版を読了した。ずいぶん昔に古本屋で購入して本棚の肥やしになっていた『世界名作全集2 ロビンソン・クルーソー/ガリヴァ旅行記』(筑摩書房/1961.7.15発行)収録の中野好夫訳で読んだ。この本を古本屋で購入したのは1965年3月6日、私が高校1年の時だ。その時から「いつか読まなくては……」と思いつつ、うかうかと44年経っていた。

 今頃になって『ガリヴァ旅行記』を読んだきっかけは、今年がガリヴァ来日300年という記念すべき年だと知ったからだ。ガリヴァを読んだついでに、同じ本に収録されている『ロビンソン・クルーソー』(平井正穂訳)も読んだ。こちらも完訳版で読んだのは初めてだ。
 『ガリヴァ旅行記』も『ロビンソン・クルーソー』も気合を入れて読まなければならないような大長編でも難解本でもない。その気になれば1日で読めそうな小説なのに40年以上も(10回近い転居に耐えて)たな晒しになっていたのは、わが怠惰のせいである。「いつでもできる」と思っていることは「いつまで経ってもできない」ということを再認識した。
 どうでもいいことだが、昔、スウィフトの誕生日(11月30日)が私の誕生日と同じだと知り、スウィフトに親近感をいだき、『ガリヴァ旅行記』をちゃんと読んでおかなければと思っていた。にもかかわらず、気がかりなことを実行するまでに40年以上の歳月を要してしまったことに暗然とする。

 中野好夫訳は、ガリヴァの第一人称は「吾輩」、刊行者(ガリヴァの従兄のシンプソン)の第一人称は「迂生」、他にも難しい言葉(箙、鞠躬如、拐帯、暢達etc)が出てくる。やや古風で風情のある訳文だが、文章は読みやすい。
 スウィフトは「辛辣な風刺家」「人間嫌い」という前提知識のうえで読んだので、「なるほど、なるほど」と楽しみながら読み進めることができた。風刺の部分の訳注も読書を楽しむ上で有益だった。
 この完訳本を読んで、スウィフトがニュートン嫌いで、ガリヴァのなかでニュートンへの当てこすりをしていることを初めて知った。「ラピュタ」では頭でっかちの科学者たちを皮肉っている。文系・スウィフトの理系批判とも読めるが、私の印象では『ガリヴァ旅行記』はSF的小説であり、巨人国でのミクロ視点からのやや偏執狂的な人間描写などは科学技術者の記述のようにも見える。
 また、「辛辣な風刺」の部分も、やや度を越した羅列的描写などは現代の実験小説的な趣向を連想させる。

 それはさておき「日本」である。日本はガリヴァが訪問した唯一の実在の国で、日本訪問記は数ページで終わる。1709年5月6日に前の訪問国ラグナグを出発し、日本到着までに少なくとも21日はかかっているので、日本到着は5月21日以降だ。上陸地のザモスキは三浦半島の観音埼らしい。そこからエド(江戸)へ行き、皇帝(将軍?)に拝謁し、その後、ナンガサク(長崎)まで行軍する部隊と同行し1709年6月9日に長崎に到着し、オランダ船で離日している。江戸から長崎までの行程が短かすぎるような気がするが、小説なので仕方ない。ともかく、300年前の本日(6月3日)、ガリヴァ氏は長崎に向かう旅の途中だったのだ。そう思うと、何となくガリヴァが身近に感じられる。
 完訳版を読んで気づいたのだが、日本訪問記以外の部分でも『ガリヴァ旅行記』の随所に「日本」という地名が出てくる。当時(18世紀初頭)、ヨーロッパにおいては極東の日本への関心は高かったのかもしれない。

 『ガリヴァ旅行記』も『ロビンソン・クルーソー』もノンフィクション体裁の小説で、これらを読んでいると航海への憧れが伝わってくる。ヨーロッパ人が七つの海に乗り出した「大航海時代」とは15世紀中ごろから17世紀中ごろまでだそうだ。その後にこれらの小説は登場したのだが、そこには「大航海」の香りが満ちていて、読者の冒険心をかきたてたことは容易に想像できる。だから、この2作は大人向けの小説であるにもかかわらず、子供向けの版が数多く出版されたのだろう。

 私が読んだ『ガリヴァ旅行記』の訳者・中野好夫(1903年~1985年)も、『ロビンソン・クルーソー』の訳者・平井正穂(1911年~2005年)も東大教授を務めた英文学者だ。私が子供の頃に読んだ『ロビンソン漂流記』は中野好夫訳だった。また、参考のために(訳注を読みたくて)最近入手した岩波文庫の『ガリヴァー旅行記』は平井正穂訳だった。二人ともこの2作を翻訳しているのだ。『ガリヴァ』も『ロビンソン』も、英文学の第一人者が翻訳したくなるような名作古典だということだろう。

『1Q84』を買って、読んだ(売れてる理由と読後感メモ)2009年06月07日

 村上春樹の新作『1Q84』の異例な売れ行きがニュースになっている。発売から1週間も経っていないのに、すでに発行部数は1巻51万、2巻45万で完売店続出、紀伊国屋書店本店でも55秒に一冊売れて1巻は完売だそうだ(朝日新聞2009.6.5朝刊)。
 出版不況のなか、ハウツー本でない文芸書が売れているのはご同慶のいたりだ。事前に内容を告知しなかったという戦略も成功したようだが、内容が分からない本が何故こんなに売れるのだろうか。
 それは、私のような読者がいるからだと思う。

 私は村上春樹のいい読者ではない。村上なら春樹より龍の方が好みだ。これまでに読了した長編は話題作『ノルウェイの森』だけ。短編はいくつか読んだが、他の長編のいくつかは読みかけでやめてしまった。そんな私が『1Q84』を買って読んだ理由は以下の通りだ。

(1)発売日前に増刷になったとのニュースを見て気になった。
(2) 売り切れ店が多いことはいくつかの書店の店頭で確認できたが、6月2日に紀伊国屋書店本店の店頭に山盛りになっているのを見て「いま買わなければ売り切れてしまう」と思った。
(3) 内容は不明だが、タイトルはオーウェルの『1984年』からとった「近過去」小説らしい。『1984年』はいい小説だし、「近未来」ならぬ「近過去」とはナンノコッチャ……ひょっとしたらスゴイ小説かもしれないと興味が湧いた。

 要は「売れている」「内容不明」という報道に煽られて買ったのだ。典型的な付和雷同のイイ読者なのである。 

 2巻より1巻の発行部数が多いのは、買っても最後まで読まない人が多いからだろう(どんな本でもそうだ)。また、こういうベストセラーになると「読んでみたいが、買いたくはない」という人も少なからずいる(私が読了したと言うと「買いたくないけど読みたいから貸してくれ」という人が何人かいた。その気持はわかる)。
 とにかく私は買って、なおかつ読了した。その読後感メモは以下の通りだ。

○「近過去小説」という手法は面白い

 オーウェルの『1984年』は近未来小説だった。私はこの小説を1984年以前に読んでいるが、1984年以降に読んだ若い読者も多いだろう。『1984年』を1984年以前に読むのと1984年以降に読むのとでは、微妙に読み方が異なるような気がする。
 オーウェルは1984年という時点に大きな意味を置いたわけでも未来予測小説を書いたわけでもない。1984という数字は単に執筆時の1948年の下二桁を入れ替えただけだそうだ。『1984年』は、執筆当時の世界の様相をベースに、あり得るかもしれないもう一つの世界(ビッグブラザーが支配する独裁管理世界)を描いた警告的風刺小説だ。だから、1984年を過ぎてもこの小説の価値や有効性が減ずるわけではない。1984年以前なら「近未来小説」として読まれたかもしれないが、1984年以降はむしろ「あり得るかもしれないもう一つの世界」を描いた20世紀の古典として正当に読まれているような気がする。
 では、「近過去小説」とは何だろうか。現代小説の多くが近過去を描いているのは当然だが、だれもそれを「近過去小説」とは呼ばない。オーウェルが描いたような「あり得るかもしれないもう一つの世界」の舞台を未来でなく過去に設定すれば「近過去小説」というべき小説になるような気がする。『1Q84』は一応そのような小説だ。これは小説技法としては優れた発見だと思う。「未来予測小説」といった誤解をまねく恐れがないし、いずれ追いつかれるあやふやな未来を舞台にするより、だれもが知っている過去を土台に別世界を作る方が明解だ。
 しかし、『1Q84』に『1984年』のような明解なメッセージがあるわけではない。あり得たかもしれない「近過去」の輪郭はぼやけていて、そのぼやけ方の異和感が同時代的なのかもしれない。

○テイストは私には合わない

 私は『1Q84』をかなり短時間で読了した。文章はうまいし読みやすい。小説の展開も巧みだ。しかし、読み進めながら「読まされているなあ」という気がしていた。
 個人の好みの問題ではあるが、文体のテイストは私の感性には合わない。わたせいぞうの絵のような文体というか、ちょっと気どった表現で何を描いても清潔になってしまう「村上節」は気になる。食事ではなく洋菓子を食べているような気分だ。短編ならいいかもしれないが、長編だと辟易してくる。
 『1Q84』にはいろいろな材料(連合赤軍、ヤマギシ会、エホバの証人、オウム真理教etc)が盛り込まれていて、それなりにうまく料理されているのだが、結局は手の込んだ恋愛小説であるとの感を拭えない。それも、私にとっては「なんだかなあ」という気分になる点だ。

○スピリチュアル系の匂いが気になる

 『1Q84』にはビッグブラザーを裏返したようなリトルピープルが登場する。しかし、リトルピープルが何者なのか何のメタファなのかはよく分からない。偉大なる独裁者(ビッグブラザー)による管理社会ではなく、卑小なる大衆(リトルピープル)が支配する管理社会と読むのかなとも思ったが、それには無理がありそうだ。
 私はこの小説に、「オーラの泉」のようないかがわしいスピリチュアルなるものが大手を振っている現状の無批判な反映を感じた。リトルピープルや「さきがけの教祖」にもそんな要素があり、ちょっと厭な気がした。この点については、もう少しきちんと考察してみる必要があるが…

○メタフィクションになれば面白かったのに

 『1Q84』には『空気さなぎ』という小説内小説が登場する。『空気さなぎ』の内容が『1Q84』を包み込んでいって、クラインの壺のようなトリッキーな構造になるのではと予感したが、そこまでのメタフィクションではなかった。その萌芽は感じられたが、あまりハチャメチャにならなかったのは残念だった。

○『1Q84』は完結していない

 『1Q84』を読了して感じたのは、『1Q84』は完結していないということだ。続編が用意されているのではないだろうか。
 この小説の第1巻は「BOOK1 <4月~6月>」、第2巻は「BOOK2 <7月~9月>」となっていて、BOOK1は第1章から第24章、BOOK2も第1章から第24章で構成されている。BOOK1とBOOK2の内容は連続的で、2巻分かれているのは単に分量の問題のように思われるので、BOOK2は第25章から第48章にした方が自然な感じがする。そうしなかったのは何故か?
 『1Q84』というタイトルをつけながら、4月から9月までの半年しかないのも変である。1月から3月と10月から12月はどうなったのだろうか。いずれBOOK0、BOOK3が発表されるのだろうと予想される。4月から9月までの半年だけが1Q84年で、残りの半年は1984年のままでしたというのではおかしい。少なくとも10月から12月には1984年でなく1Q84年の物語がなければならない。

素粒子物理の門前で(ブルーバックスはやさしくない)2009年06月13日

『ニュートリノ天体物理学入門』小柴昌俊、『クォーク』南部陽一郎、『消えた反物質』小林誠
 少し素粒子物理をカジってみようと思って次の3冊のブルーバックスを読んだ。

(1)『ニュートリノ天体物理学入門』小柴昌俊
(2)『クォーク』南部陽一郎
(3)『消えた反物質』小林誠

 この3冊のサブタイトルは、それぞれ以下の通り。
(1) 知られざる宇宙の姿を透視する
(2) 素粒子物理はどこまで進んできたか
(3) 素粒子物理が解く宇宙進化の謎

 これらの本を読もうと思ったきっかけは、昨年のノーベル物理学賞を受賞した小林・益川理論(CP対称性の破れの起源の発見)とは何か、おぼろげにでも知りたいと思ったからだ。
 実は、これらの本を読む前に『小林・益川理論の証明 --- 陰の主役Bファクトリーの腕力』(立花隆/朝日新聞出版)を読んだのだが、「サイアス(旧・科学朝日)」の昔の連載記事をまとめたこの本は、加速器実験のこまかなレポートが中心でイマイチわかりにくかった。
 上記の3冊を選んだのは、ある人に勧められれたこともあるが、昔なつかしい「ブルーバックス」だからわかりやすいだろうと思ったからだ。そして、何よりも著者がすべてノーベル賞受賞のビッグネームということに惹かれた。ブルーバックスは、著者がノーベル賞を受賞すると金色の帯をつけるようだ。華やかな祝祭気分で読む前からウキウキしてくる。

 3冊まとめて読んだのには、ずいぶん昔に読んだ立花隆氏の『「知」のソフトウゥア』(講談社現代新書)の影響もある。この本には、未知の領域の知識を得るには、まず入門書を何冊か読み、続いて中級書や専門書にも目を通せ、という趣旨のことが書いてあった。私はこの主張に同感した。立花隆氏は次のように書いている。
「入門書は一冊だけにせず何冊か買った方がよい。その際、なるべく、傾向のちがうものを選ぶ。」「(入門書の)三冊目を読み終えたころには、その新しい領域の全体像がだいたい頭の中に入っているはずである。一冊の入門書を三回くり返して読むより、三冊の入門書を一回ずつ読んだほうが三倍は役に立つ。」
 
 ということで、3冊を読了したのだが、正直言って難しかった。素粒子物理の全体像が頭に入ったとは言えない。おぼろな輪郭が見えてきたという程度だ。
 この3冊は(1)、(2)、(3)の順で難しくなる。(1)は小柴昌俊氏の自伝的な記述が導入部にあり、読みやすいが、「素粒子とそれらの間に働く力」の解説からはやや難しくなる。口絵に量子色力学に関するクォークの3原色のカラー模式図があるのはわかりやすかった。また、著者が実験物理の人なので、実験に関する記述には臨場感もあり面白かった。
 (2)は素粒子物理の歴史的展開を解説したあと、素粒子の標準模型をまとめて解説し、現状と今後の見通しを述べている。全体にていねいな解説だと思うが、一読で理解できる内容ではない。
 (3)はかなり難しい。序章で本書全体の概要を述べているので、この部分で何とか概要はつかめる。しかし、1章以降はやさしくはない。数式が挿絵や本文中に出てくる。確かに数式がある方がイメージをつかみやすいのだろうが、この数式が簡単ではない。CP対称性の破れが生じるのは素粒子の相互作用の結合定数が複素数なので、虚数になるケースがあるからだそうだが、すんなり理解できたわけではない。

 数年前に出版された別冊宝島『立花隆「嘘八百」の研究』というムックに「立花さん、まずはブルーバックスをきちんと読みなさい!」という記事があった。これは、京都大学名誉教授・佐藤進氏(『立花隆の無知蒙昧を衝く』という本の著者)へのインタビュー記事だ。このインタビューで、佐藤進氏は立花隆氏の『脳を鍛える』(東大での講義をまとめた本)の内容のいいかげんさを批判し、次のように述べている。
「CP対称性の破れについては、たとえば小林誠さんの『消えた反物質』(講談社ブルーバックス)という本などにも書かれていますから、それを読めばわかるんです。ところが立花氏は、そういった本を全然読まずに書くんですなあ」
 昔、このくだりを読んだときには、「入門書を何冊も読め」と言っている立花隆氏が当該領域のブルーバックスも読まずに講義をしていたのかと思った。しかし、『消えた反物質』は「読めばわかるんです」と簡単に言える本ではない。立花隆氏はこの本を読んでいたけれどわからなかった、という可能性もありうる。

 なお『消えた反物質』が書かれたのは1997年で、10年以上前だ。この時点ではBファクトリーによるB中間子の崩壊過程でのCP対称性の破れを確認する実験は成功していないが、Bファクトリーについてもきちんと解説されている。
 「小林・益川理論」がノーベル賞を受賞したことで、この宇宙が物質でできている理由はCP対称性の破れによって証明されたのかなと感じていたが、必ずしもそうではないらしい。その端緒が開けたという段階のようだ。